1.ネオンライトに照らされた

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1.ネオンライトに照らされた

 冬に差し掛かる秋の雨は、凍えるほど冷たい。  残業が長引いてしまった夜十時。自分が勤めている会社では正月前のこの時期は忙しい。黒い傘にあたって弾ける雨音を聴きながら、帰路の途中にある繁華街を歩いていた。  繁華街の夜はこれからだ。ネオンブルーの看板に目が眩む。バーに寄っていってもいいのだが、夜遅くまで酷使していた身体は休息を求めていた。  仕事へのやりがいなどというものは当の昔に置いてきてしまった。昔から周囲を達観視する癖は抜けず、生きていることに喜びもない。運動も勉強も、仕事も優秀すぎると言っていいほど苦がなかった。歯を剥いて血眼になって仕事に打ち込んでいる同僚の中で、僕だけはいつも涼しい顔で立っているのだった。  自分には打ち込めるものなど、なにもない。  昔からそうだった。虚ろな感情を持て余しながら、死ぬ勇気すらない。そんな僕を見かねて、兄はよく僕を気にかけてくれていたが、果たして効果があったのだろうか。兄を大切に想える心が育ったのは、まあ良かったのかもしれないが。  今日も生きるために必要最低限のことを終わらせ、一人暮らしには広すぎる2LDKのアパートに向かっている。自分でもこのままではいけないと思いつつ、心は虚ろなままだった。  やはり女でも抱いてから帰ったほうがいいだろうか。セックスをしていればある程度気が紛れるものだ。その後に押し寄せる虚無からは、どうあがいても逃げられはしないが。  彩度の落ちた視界にうんざりしていた。そのときだった。  その姿を視認した僕の足は動かなかった。声も喉奥につっかえた。まるで世界が無音になってしまったのかと思うほど、辺りは静かだった。  先ほどまで聴こえていた雨音は、ずっと遠くにあった。  その代わりににじみ出る心臓の温度は、今まで感じたことのない熱さで僕の胸を苛めるのだった。血流の速さに目眩がし、傘を掴んでいる手の指先が震えた。水分を失った唇は嘶いて、舌で濡らしてなんとか平静を保っていた。  彩度を失った世界で、目の前の青年だけが凛然と真っ白に輝いていた。  傘も差さず、十一月終わりの雨に打たれ続けている。寒い時期に白いシャツとデニムパンツといった出で立ちだった。シャツが肌に張り付き、色白で血色を失った肌の色が露わになっている。白なのか銀なのか判別しがたい細い髪が頬に張りついていた。その白銀は、ネオンブルーの電灯に照らされ青白く輝いている。そんな男が、路地に足を投げ出し、座り込んでいるのだった。  心臓が、痛かった。  こんな、見たこともない男に、なぜ一目で心を奪われているのか。  恐ろしかった。生まれてから今まで抱いたことのなかった感情に、指先が熱くなっていた。  ただ、今まで見たことがないくらいに――彼は美しかった。  気がつけば、座り込んでいる男の頭上に傘を差し出していた。突然目の前が翳ったことに気づいたのだろう、男は凍えた表情で僕を見上げた。僕を映した目は澄んだ空の色をしていて、不思議な命の光を宿していた。海面の網目模様のようだった。  まるで宝石だった。こんな美しい色に、僕は出会ったことがなかった。  彼の造形から目を離すこともできず、ひたすらに邪な感情が、僕の心を支配していくのだった。  この男を僕だけのものにしたい、と。
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