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なんだろう、この映画は。
俺は何度も巻き戻しては最後まで見た。
過程も結末も勿論変わらない。
彼女は屈託なく笑い、些細な人生の楽しみに心躍らせ、そして唐突に残酷に殺されるのだ。
正直、映画としてはアリだと思う。
面白いとも思う。
だが、物凄く嫌な気分だった。
身近に感じすぎたからだ。
チューハイを何本も開け、気が付けば朝になっていた。
俺はしばらく、ぼうっと窓を眺めていたが、シャワーを浴びると外に出た。
コンビニで買ったパンとコーヒーで腹を満たすと、俺はわざとゆっくりと歩いた。
だが、公園にはあっさりと着いてしまう。
休日の早朝で、がらんとしているが、ジョギングをしている人達はいるようだった。俺は、ベンチに座って大きな滑り台を見つめた。
アルコールが抜けない。
体がフワフワする。
俺は目を瞬くと、ゆっくりと視線を雑木林の方に向ける。
成程、雑木林に切れ目があって、反対側の住宅地が見える。
ん?
俺は立ち上がった。
となると、あの映画はどうやって撮ったんだ?
住宅地までせいぜい、10メートル。でも映画ではもっと遠くから撮っているような雰囲気だったが――まあ、撮影には詳しくないから、全然おかしい事ではないのかもしれないが……。
さっと、雑木林の向こうを誰かがよぎった気がした。
俺は額をぴしゃりと打った。
落ち着け。
落ち着いて、裏道に行ってみよう。
俺は雑木林の切れ目を抜けることはせずに、遠回りをした。あの切れ目を抜けて道に行ったら、まるで俺が、あの黒尽くめみたいだから。
快晴だった。
アスファルトの横に、ドブを挟んで草の臭いのする土の細い道が公園の半分を囲むように続いている。
俺は、段々と早足になるのを抑えながら、進んだ。
あの角を曲がったなら、たしか傾いた地蔵の場所――
ハンカチはなかった――
ように見えた。
俺はホッと胸をなでおろしながら、地蔵に急いだ。
だが、進むにつれ、草の影で見えなかった道の真ん中に、真っ白く小さなハンカチがあるという事実に気づき、震え始める。
これは――
いや、落ち着け。落ち着くんだ。
もしかしたら撮影の時に落として――いや、それはない。なにより、あの黒尽くめが拾って――いや、映画の話を現実に当てはめてどうする!
俺は腰を落とすと、ハンカチを呆然と見つめ――ゆっくりと手を伸ばした。
触れるはずがない。
幻、白昼夢、いや、これは徹夜明けで見ている夢、いやいや抜けきれないアルコールが――
ハンカチに指が触れる。
息ができない。
なのに、勝手に指はハンカチを摘まみ上げていく。
ああ! もしかしたら、あの映画を見た他の人が、いたずらで落としたのかもしれない!
いや! もしかしたら、あの映画自体がこれを拾いに来る物好きを撮るための餌で、明日には俺の震えている姿が動画配信サイトにアップされて――
「あら! それ、拾ってくださったの!?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
ほら、そうだ。
やっぱり俺の間抜けな姿を撮るための餌だったんだ。
映画から抜け出した、あの恰好そのままじゃないか。
彼女はそこにいた。
モノクロではなかったが、何か不自然な――そう、カラーに着色された映画を見ているような違和感が――
「ありがとうございます! それ、母に誕生日に買ってもらったお気に入りで――」
「あ、はい、えっと、その――」
俺はハンカチを彼女に差し出した。
「その――幸いにも、汚れてはいないよう……です」
「よかった!」
目を細め、にっこりと元気よく笑う彼女。
畜生め、気が狂いそうだ。
「あなたも、お散歩ですか?」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。さっき飲んだコーヒーの匂いが鼻に戻ってきて、俺の舞い上がった頭が徐々に着地していく。
「いえ……朝食を食べに出て、今から家に帰るところです」
「あら、そうなんですか。それにしても、今日は良いお天気ですわね。なんだか、とても――」
「とても素晴らしい日になりそうですね。それと――」
俺はちらりと雑木林の方を見た。
彼女もそちらを見る。
これが、そういう撮影ならば、黒尽くめもそこらにスタンバイしているのかもしれない。
「この公園に不審者が出るという話を聞きました。今日はここら辺を散歩するのはやめておいた方が良いかもしれませんよ」
あら! と彼女は驚いた顔になり、それから笑顔になった。
「あなたの言う通り、今日はとても素晴らしい日! そうじゃなくって?
だって、親切なあなたに会えたのだもの!」
俺も笑顔になった。
いいよ、上等だ。そんな笑顔されたら、だまされて笑い物にされてもお釣りがくる。
「俺もあなたに会えてよかったですよ」
まあ、お上手ね、と彼女は最高の笑顔を見せてくれた。
彼女は俺に手を振って歩き出し、角を曲がった。俺はぶらぶらと歩いて、角の向こうを見る。
これから、どこに行くんですかとは聞けなかった。
彼女はその答えをはぐらかしたんじゃなかろうか。
角の向こうには、アスファルトのまっすぐな道が住宅街に沿って続いている。
彼女の姿はなかった。
公園に入っていったのか、住宅街に入っていったのか、待機していた撮影隊の車に乗ってしまったのか。
俺としては、彼女はうきうきした足取りで、ぽんっとシャボン玉のように元気よく消えたか、階段を駆け上がるように空に昇っていったように思えて仕方がなかった。
そうして俺は家に帰ってきた。
冷蔵庫を開け、またもチューハイとつまみをもって座椅子に座ると、苦笑いをしながら再生ボタンを押そうとし、ちょっと考えて台所から包丁を持ってきた。
そして、ポケットから彼女のハンカチを取り出して、テーブルに置いた。
『あなたの言う通り、今日はとても素晴らしい日! そうじゃなくって?
だって、親切なあなたに会えたのだもの!』
俺は照れ臭そうに笑っている。
去っていく彼女を見送って、しばらく待つと、俺はぶらぶらと歩き、おっかなびっくり、そうっと角を覗き込む。
なんてへっぴり腰なんだ、と俺は笑った。
彼女は、俺が差し出した落とし物のハンカチを受け取らなかった。
そして俺は、お人好しにも、それで良しとした。
俺が歩き去った後ろを、雑木林から抜け出してきた黒尽くめがひたひたと追ってくる。
カメラは俺をずっと横から撮り続ける。
幸せそうににやけ、段々と良い顔になっていく俺の顔を映し続ける。
鍵をかけたはずのドアのノブが回る音がする。
俺は包丁を握る。
みしりと台所の床が鳴る。
チューハイを一口。
ぎしりと、すぐ後ろの畳が軋む。
俺は立ち上がりざまに、ハンカチを握りしめ、迫るナイフの切っ先をギリギリで躱し、包丁を振りぬいた。
今日はとても素晴らしい日だ。
そうじゃないか?
だから、そういう結果になったとだけ言っておこう。
了
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