落としもの

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私が学生の頃、とある小さなコンビニでアルバイトをしていた。 当初はお客さんもたくさんきて猫の手も借りたいほど忙しかった。 けれど、しばらくして大通りに大手のコンビニが出来てからは状況が変わり、店は一気に暇になった。 従業員は店長を任されていた田中さんと、私、そして深夜担当をしている津田さんと牧野さんだった。 店長はいい人で、私は充実したアルバイト生活を送っていた。 ある日のこと。 私がお店に着くと、めったに来ないオーナーが制服姿で仕事をしていた。 挨拶をすると店長が体調不良で休みだということを知らされた。 「そういうことだから、今日は一人でお願いしますね。何かあれば、連絡ください」 そう言って、オーナーは私一人に店を任せて帰って行った。 店長が担当する仕事のほとんどはオーナーがやってくれていて、私はとりあえず店内の掃除を始めた。 静かな店内。 誰かが入ってくれば、チャイムが鳴る。 窓の外に通行人が見えるが、なかなか店に入って来てくれない。 掃除も終え、私はレジの前に立った。 正面には時計があって、自然と目がいってしまう。 ようやくチャイムが鳴って、常連さんが来た。 レジでほんの少し立ち話をした後、常連さんは笑顔で帰っていく そして、また店内は静かになった。 夕暮れ時。 またチャイムが鳴ると、近所に住むおじいさんがやってきた。 私の顔を見るなり、笑顔で小さく手を振る可愛いおじいさん。 私も笑顔で「いらっしゃいませ」と頭を下げる。 おじいさんは買い物かごを持つと、お弁当棚で探し物を始めた。 ふと窓側の通路に目をやった時、私は驚き体を震わせた。 何故なら、その通路にシルバーカーを押すおばあさんが立っていたから。 チャイムは一度しか鳴らなかったし、おばあさんが店に入ってくる姿を私は見ていないのに。 それとも、おじいさんの後ろに隠れていたのだろうか。 私はとっさに「いらっしゃいませ」と声を出した。 おじいさんはこちらを向いたが、おばあさんは反応しないまま通路をゆっくりと歩き出した。 本棚の前を通り、生活用品の前も通り過ぎて、レジと反対側の通路に曲がった。 そこにはジュースが並んでいる冷蔵庫がある。 けれど、おばあさんはジュースに見向きもせず、冷蔵庫の前を通り過ぎた。 そして、総菜やお弁当が置いてある通路に曲がった。 静かな店内に、シルバーカーのタイヤの音が響く。 そこにはおじいさんもいて、夕食のお弁当を選んでいる。 その後ろをおばあさんはゆっくりと通り過ぎた。 おじいさんは特に気にすることもなく、手に持ったお弁当と棚のお弁当を見比べていた。 レジの方へ向かってくるおばあさん。 買いたいものがなかったのだろうか。 そう思っていると、おばあさんは途中の通路を曲がった。 シルバーカーを押しながら、おばあさんは店内をぐるぐると徘徊し始めた。 もしかしたら万引きかもしれない。 私は気になり、おばあさんの様子を見張っていた。 「お嬢さん?」 気付くと目の前にはおじいさんが立っていて、お弁当やお茶が入ったかごが置かれていた。 私は頭を下げて謝ると、急いでレジを済ませた。 「一人で大変だね。強盗が来たらと思うと心配だよ」 「大丈夫です。私、空手習っているので!」 「そうかい、それは心強いね」 そう言うと、おじいさんは笑顔で店を出て行った。 私はほっと肩をなでおろした。 と同時におばさんのことを思い出し、私は店内に目を向けた。 ―いない! さっきまで店内を徘徊していたおばあさんの姿がない。 帰ったのだろうか。 でも、チャイムはおじいさんが店を出る時にだけ鳴っただけだし、おじいさんが店を出ていく姿を見送ったが、おばあさんの姿はなかった。 もしかして、通路で倒れているかもしれない。 私は慌てて通路に出た。 すると、窓側の通路の真ん中に何か落ちていることに気づいた。 近づいてみると、それはプラスチックで出来たおもちゃのようなレシーバー(受信機)で、端にbabyと書かれていた。 ―きっと、おばあさんが落として行ったんだ。 店内を探してもおばあさんの姿はなく、私は慌てて店の外を探したが、外にもシルバーカーを押したおばあさんの姿はなかった。 私は試しにレシーバーはスイッチを押した。 すると、緑のランプがついてノイズが聞こえた。 次におばあさんが来たら返してあげようと、私はカウンターの下にレシーバーを置いた。 次の日。 いつもより早く店に着くと、控え室で店長と深夜担当の津田君が口論していた。 テーブルの上には、おばあさんが落としていったであろうレシーバーが無残な状態で置かれていた。 「それはお客さんの落し物ですけど」 そう伝えると、店長は頭を抱えながら項垂れ、津田君は不満そうな顔をした。 津田君に訳を聞くと、深夜にレシーバーから赤ん坊の泣き声が聞こえて来て、電源を切ったら一度は聞こえなくなったが、すぐにまた電源が入り聞こえて来た。 面倒になってしばらく放置していたら、牧野さんが体調不良になって控え室に籠ってしまった。 そんな日に限っていつも来る深夜帯の常連さんは来ず、赤ん坊の泣き声だけが店内に響いた。 何度も電源を切ってもだめで、苛立って床にたたきつけたらようやく止まったという。 「声を聞いていると不安になってくる」 津田君はそう言った。 弁償は店がすることになった。 ただおばあさんの姿を見たのは私だけ。 だから、謝罪は私がすることになった。 大きなため息が出た。 「申し訳ない」 そう言うと、津田君は反省した様子で帰って行った。 欠けてしまったレシーバー。 試しに電源を入れてみたが、ノイズさえも聞こえずランプもつかなくなっていた。 完全に壊れてしまったようだった。 私はカウンターの下に、壊れたレシーバーをそっと置いた。 その日は珍しくお客さんが多かった。 どうやら新しく出来たコンビニにトラブルがあり、こちらの店に流れてきたようだった。 店長も私も大忙し。 あっという間に夕暮れが過ぎた けれど、結局あのおばあさんは来なかった。 私の就業時間もあと少しとなった頃、店長はバックヤードで仕事をし、店内は私一人になった。 静かな店内。 突然、私のすぐ近くでザー――というノイズとともに赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。 カウンターの下を覗くと、壊れたはずのレシーバーのランプが赤く点滅しながら音を出していた。 そして、私がレシーバーを手に取ると、その声は急に大きくなった。 驚いた私は音量を下げたが、声は小さくならない。 電源をオフにしても、津田君が言うように止まらなかった。 赤ん坊はかなり激しく泣いている。 聞いていると、不安な気持ちになるほど。 どうしたらいいか困惑していると、レシーバーの赤いランプが消えて、同時に泣き声も聞こえなくなった。 安堵した私は、電源をオフにしたままカウンターの下に戻した。 けれど、私の耳には赤ん坊の泣き声が朝まで残っていた。 次の日、店に着くなり店長にレジを任された。 店長は事務処理が忙しいと、「何かあったら呼んでくれ」と言って部屋に籠ってしまった。 心なしか、顔色が悪くて心配になる。 その日も、お客さんは常連さんが数名来てくれただけ。 夕暮れになっても、シルバーカーのおばあさんは来なかった。 そして、終業時間が迫った頃だった。 店長はまだ部屋にいる。 店には私しかいない。 ザザザ またカウンターの下からノイズ音と赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。 カウンターの下を覗くと、そこには茶色い紙袋が置いてあった。 声はその中から聞こえてくる。 紙袋を開けると、また紙袋が入っていて、その中に壊れたレシーバーが入っていた。 きっと津田君が入れたのだと思った。 レシーバーのランプは赤く点滅し、スピーカーからは赤ん坊の泣き声が聞こえた。 しばらく聞いていると、ふと赤ん坊の泣き声に交じって、別の声が聞こえることに気づいた。 耳を澄ませると、男性と女性が話している声のようだった。 赤ん坊の両親だろうか。 その声は穏やかではなく、言い争っているようなお互いを罵るような声だった。 それが過熱するほど、赤ん坊の泣き声も酷くなった。 怖くなって電源を切りたかったが、電源はオフのままだった。 そのうち男性が発狂して叫び声をあげた。 すると、今度は女性の悲鳴が響き渡った。 ぐずる赤ん坊の声。 金物のようなものが床に落ちた音がした。 荒い息遣いがスピーカーから漏れ出し、引き戸を開けたような音がした。 ザザザ 荒い息遣いの中、ノイズが混じる。 一瞬、沈黙が流れた後、遠くでドサッという鈍い音がした。 私はそれらの音を聞いて背筋が寒くなった。 少しして、レシーバーから赤ん坊の声が聞こえてきた。 キャッキャと嬉しそうに笑っている声。 ずっと、ずっと、赤ん坊は笑っている。 幸せそうに。 嬉しそうに。 その声がまるで電池が切れそうな玩具のように、スローになっていく。 レシーバーの赤いランプも弱々しくなり、赤ん坊の笑い声が途切れ途切れになった。 そして、消えそうな赤ん坊の笑い声の中で、一瞬だけ聞こえた。 それはおばあさんの笑い声。 私の脳裏に、一瞬シルバーカーを押したあのおばあさんが過った。 レシーバーはその後完全に壊れたようで、何も聞こえなくなった。 次の日、お店に行ってみるとレシーバーはなくなっていた。 どうやら、店長がいない間にオーナーがきて処分したそうだ。 結局、レシーバーの向こうの赤ん坊やその両親らしき男女がどうなったのかはわからないまま。 そして、そのレシーバーを持ち歩いていたシルバーカーのおばあさんも、あれ以来一度も店にやってくることはなかった。
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