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憂いを感じる、月のない冷たい夜だった。
残業を終えた職場からの帰り道。地下鉄の改札を抜けると外は霧雨で煙っていた。あいにく傘はない。そんなことより電車に乗る前に飲んだ日本酒のせいで私は尿意を催していた。ところが駅のトイレは改装中だった。震えるような寒さが足元から襲う。
駅から自宅がある賃貸マンションまで歩いて五分だ。頭を切り替え、足早に自宅へと歩を進めた。ポツポツ並ぶ民家の明かりは消え、暗闇に包まれている。
マンションが目に映り、引き締めた下半身の筋肉が緩みそうになる。
もはや膀胱が破裂しそうだ。
私は小走りで霧雨の道を進んだ。焦るほどに息はあがり、心臓は脈を打ちはじめた。嫌な汗が額を撫でる。
ふと視線の先に横たわるなにかを見つけた。
足早に過ぎようとしたが、引き寄せられるように足が止まる。
ボストンバッグだ。
ファスナーが少し開いていた。
中身が気になり、ファスナーの隙間に目を細める。
暗くてよく見えない。
ええい、落ちてたんだ。中身を確認したっていいだろ。とほんのわずか自問自答して、私はその場にかがむとスマホのライトを頼りに勢いよくバッグを開いた。
ぎょっとした。髪の毛だ。黒髪の長い髪の毛が飛び出した。
頭だ。人間の頭が入っている。ぞっとした。ひとつじゃない。頭が三つ、同じ角度で並んでいる。
警察に届けよう。
そう思ったが、うかつにもカバンを触りまくった。
持ち主は事件に関わっているはずだ。当然それなら指紋を残すわけはない。そうなると指紋は私のものしか残っていないことになる。
届けたい。でもできない。
結局、私はボストンバッグを持ち帰った。
「あなた。それどうしたの?」
ふだんとは違うバッグを握る私に妻は違和感を覚えたようだ。
「あ、ああ。これは会社の備品で預かっているんだ」
中身を見れば妻は卒倒するだろう。いまからでも警察に届けるべきか。
いや無理だ。すでに手遅れだ。
そそくさとボストンバッグを書斎の奥に隠した。
どうすればいいんだろうか。時間は刻々とすぎていく。
ひとまず落ち着こうと晩飯もそこそこに風呂に入った。
湯船に浸かりながらも考える。夜の闇にまぎれて、どこか山奥に捨てるか。
頭の中でシュミレーションをする。もともと暗い夜道に落ちていたんだ。
なんだかできるような気がしてきた。
不安は薄れ、熱い風呂で大量の汗を流し、安堵した。
そのときだった。妻がこの世のものとは思えないような叫び声をあげた。
同時にバタバタと足を踏み鳴らす音が浴室まで響いた。
「あなた。なによこれ」眉毛を吊り上げた妻が、例のボストンバッグを私が浸かる湯船に投げつけた。「どういうこと。説明して」
「違う。これは……」
瞬間、意識が遠のいた。気がつけば、私は妻の口を封じようと首を締めていた。なにかに憑りつかれたかのように。
無意識だった。
いったいどうすればいい。文字通り頭を抱えた。
翌日から私はテレビのニュースに細心の注意を払った。
やがてマスコミが騒ぎ始めた。界隈で複数の女子高生の捜索願が出たのだ。
連日ワイドショーでは行方不明になった女子高生の親がインタビューに答える映像が映し出される。
自首するしかない。私は腹を決めた。
四つの頭を抱え、警察署の門をくぐる。ボストンバッグにはもともとあった頭が三つと妻の頭を合わせて四つ。
ひとりしかやってない。警察はわかってくれるだろうか。
「ひとりを除いて残りはマネキンの頭だ。おまえ、嫁さんとトラブルを抱えていたんだろ」
刑事の尋問に私は頭を殴られたような衝撃を受けた。
目の前がぐるぐる廻り、どこで行き違ったのかと道を彷徨う。
なぜ、あのとき妻に正直に言えなかったのか。そう、すでに妻とは修復できない亀裂が生じていたのだ。
まさしく刑事の言うとおりだった。
じゃあ、行方不明になった女子高生は……。
闇に消えたのだろうか。
ワイドショーはすでに見ることが叶わない。
深い謎を残したまま、私の残りの人生は底なしの沼に落ちていった。
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