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落としましたよ
雑踏の中、複雑に絡み合う靴跡の描線に声の切断が聴こえた。
――落としましたよ。
人は振り返る。いや、人とも限らない。空中でカラスは咥えた種を確認しているかもしれない。
――ありがとう。
お礼を言って受け取ったら、靴跡はまた複雑に含まれてゆく。逃げそびれたのか、音は微妙にアスファルト擦って。
――最初はただの都市伝説だったらしいんだけどさ。
母さんが運転する車の助手席で、僕はラジオを聞いていた。十年前なら考えられない。あの頃、母さんはカーステレオからAMラジオを追い出していた。ビリー・ジョエルはAMラジオにも住んでいるけど? 反論した僕に母さんは言った。偽物の包装紙だと。
――今じゃ観光地だって?
――そうよ、今日もきっと混んでるわね。
――平日なのにね。
――ねぇ。
ラジオからリスナー参加のネタコーナーが聞こえてくる。投稿したネタは読まれるだろうか、母さんにラジオネームを教えた日、晩御飯のコロッケは少し焦げてた。
――落としたもの。色々落としてきたけど。
――僕はテレカをごっそり落としたんだ。
――テレホンカード?
――うん。テレカクレカのるかそるか、そんなラジオネームに変更しようか。
――さすが、言葉のプロね。
――僕はプロにはなれなかったからこの歳でラジオにネタ送ってるんだよ。
――いいじゃない、本職があるんだから。
――ホントは作家になりたかったんだ。
――まだ諦めなくても。
――無理だよ。
――そうなの。
――ああ。
――お母さんはそうは思わない、ことにしておく。じゃないとね、落としものになっちゃうかもだから。
――二つ折り財布のカード入れがガバガバで、落っことしたんだ。須磨水族館のやつ、それと、伯父さんに貰った北海道の難読地名のやつ、あれ、気に入ってたのに。
――そんなの貰ってたの?
――何度も問題出して遊んでたのに、漢字と読み仮名のが二枚で一組になってたのさ。
――記憶にございません。
――あれなら嬉しいな。
――そう?
――ああ、あ。僕だ。
――お、京都府のラジオネームこたついぬさん。おめでとう。
――ありがとう。
車に僕の書いたネタメールがAMラジオのパーソナリティーによって読み上げられる。
僕がした落としものの一つ。
――落としましたよ。
遅れた報せが数週間後にステッカーとして届くだろう。何枚目のステッカー、母さんは車に貼らせてくれる。十年前のビリー・ジョエルは母さんの落としものかい?
僕らが向かっている廃トンネルには幽霊は出ないけれど、声が出るらしい。
一人、真っ暗なトンネルを抜ける途中、呼び止められる。
――落としましたよ。
振り向いて受け取ると、手に何かが乗るのだと。誰かが広めた都市伝説として、人の口は無責任に再生した。壊れたラジオみたいに。
――テレビで実験してたわよ。何も持たずに入ってったの。
――ふうん。
――その人、掌にキーホルダーを持って出てきたわ。
――それぐらい、どこにでも隠せるサイズだから。
――ところがよ。
――みて泣いたのよ、その人。死んだお父さんの形見だったのに小学生の頃ランドセルにぶら下げてて、失くしちゃったんだって。
――嘘泣き、かもしれないし、局が仕込んだのかも。真っ暗ならスタッフが隠れておけるし。
――さすがに気配でわかるわよ。人がいれば。
――まー、どーかね。
――信じてないのについてきたの?
――暇だから。
――私はね、りんごを落としたらしいのよ。
ラジオから嘘のようにビリー・ジョエルが聴こえる。リクエストは長野県のラジオネーム片栗粉猫太郎さん。常連だ。母さんじゃない。
――奇跡の始まりかしら。
と母さんは口笛を吹く。吹けもしない口笛の空気が、交通安全の御守りを揺らした。
――順番待ちの列凄いこと。
――みんな暇なんだよ。
――でも、今日も何人か出たってよ、掌に物持って出てきた人。
――目立ちたがりはなんでもするんだよ。
――私、りんご持ってないから。
観葉植物をぶちまけてレンガを木槌で百万回殴ったような、往来する風が会釈してご機嫌をうかがう神様手前の廃トンネルの入り口に行列のコダマが雑踏になっている。
破れたガードレールがそのままで、
――帰りは運転代わってね。
と母さんは言った。廃トンネルの突き当りは塗り固められており、引き返すしか道がない。出てきた人から順に停車した車に乗り込んでいく。
――どうでした?
無粋に尋ねるおばさんに、出てきた人は風でもないのに会釈をする。
――いや、何も聞こえませんでした。私はね。
引き返していく車、徐々に順番が近づいてくる。
――あのりんご。私が落としたことにされたりんご。
母さんの目が光の届かないトンネルの奥をじっとみている。抜けないトンネルに吸い込まれて風はゆっくり吹いた。
――そのことで母さんと大喧嘩したの。私は自分が落としたんじゃないって。絶対落としてないって。
――もう耳の中のジュークボックスがその話で満杯だよ。
――あんただって合宿先のナメクジの話百回してるじゃない。
――はい、お互いさま。いいよ。家族だ。
――でも、確信はないの。母さんの言うとおり、落とした可能性もある。でも、私にはわからなかった。八百屋さんが入れ忘れたのかもしれない。わからないけど。
――坂本青果店のサンふじは四個でひと山なのよ!!
――そう、それはそう。私泣きながら確認しに行った。百メートル八秒で。
――ストップウォッチがうっかりしてて残念でしたね。
――買い物袋から落ちたのか、お店の間違いか。母さんは私を信じてくれても良かったのにさ。
――女の子がりんご落としたら誰かが教えてくれるわよ!!
――そーそー、それが私の主張ね。
――ポストからうちまでの道人通り少ないじゃない!!
――そーそー。なんでそんなにキツイ口調なのよ。まったく。
順番待ちの間、母さんと手に馴染んだ会話を磨く。またことさらに。研磨されて僕らが映る。半にやけで幸せそうだ。
――馬鹿だと思う? こんな都市伝説を真に受けて。
――いや、それぐらい、母さんにとって真実を知りたいってことなんだろ。落としたのか、そうでないのか。
――うん。ここの噂を聞いた時、ドキっとしたの。
還暦過ぎの母さんが空っぽの手を擦って、
――お先に。
トンネルに踏み入ってゆく。
――行ってらっしゃい。
僕は母さんを追いかけた。
ばれないようにぶかぶかのジーンズを履いて、右太ももにサンふじをテープで巻きつけていた。
――落としましたよ。
練習した声音。この世ならざるものの声。嘆息に芯を入れて、発声する。
練習した忍び足の早歩き。
思っていた以上にトンネルは長く、光が切手不足で届かない。
真っ暗だから。僕はいない。
いないいない。
母さんの足音だけが、聞こえていた。足が、止まる。
――やっぱり、聞こえない。また、どっちだかわからないまま。なのねぇ。ま、りんご受け取ったら私が落としてたってことになるから、それはそれでそれなんだけどね。
長い長い独り言を呟いて、母さんが引き返してくる。
――落としましたよ。
言え。
這いつくばって暗闇に。これは僕じゃない。
光のないトンネルの奥、この世ならざる場所。この世ならざる存在。
――落としましたよ。
え?
帰りの車でラジオのチューニングを適当にいじったらまたビリー・ジョエルだ。
――あしょろ。あっさぶ。くっちゃん。
――よく読めるね、合ってる。
――小学生の頃これみて暗記したから。
母さんはりんごを落としてなんかいなかったんだ。
坂本青果店に文句を言おうにも、もう何年も前に閉店しちゃったしなぁ。
ジュースホルダーに鎮座したサンふじには母さんの歯形がひとつ。
――どうだい、えっへん。私は正しかった。孝之、帰り、ホーム寄るよ。
――信じてくれるかね。
――信じてくれなきゃ、また喧嘩するまでよ。
――母さん。
――ん?
――なんでもない。
走る車は何を落として、誰に拾われるのか。
僕と母さんは退屈な車中で、落としものの話をした。
――電信柱の落としものは?
――カピバラは?
――桃太郎は?
――落としましたよ。
電信柱は掌に夜の卵を、カピバラは温泉の素を、桃太郎はキビ団子を受け取るだろうと僕らは言い合った。
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