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昨晩から降り始め、試験の間中もずっと降り続いていた雪は、正午前の下校時刻にはすっかりやみ、帰途の道では住宅地を覆った白が天頂の太陽に照らされ眩いばかりになっていた。
そんな中に、である。小向雫(こむかいしずく)は、雪に紛れてしまいそうな白い落とし物を、学校を出てから数百メートルの道すがらに、もう三つも発見してしまっていた。
そうして、四つ目。三叉路の先、雫の自宅がある方ではない道に、またしても…貼るタイプのカイロが落ちているのを見つけてしまった。
雫は、いよいよ寒さが厳しくなってきたここ最近、校内でそれを頻繁に落としている人物を知っていた。そして、彼の家が、四つ目のそれが落ちている道の先に存在していることも。
まさかと、一旦は雫も自分の家がある方向に足を向けた。この世に、この町に、この近所に、使い捨てカイロをうっかり落してしまうのは、彼だけではあるまい。しかし、雫は数歩歩いてから結局引き返し、四つ目のカイロが落ちている道を選び直した。
多分、ただの考え過ぎだ。もしそうなら、そっちの方が良い。雫の帰宅時刻が少々遅れるだけなのだから。だが、もし恐れていることが起きていたら?
雫の悪い予感は、当たった。進行方向の先、白い雪の上に、倒れている黒い人影が見えたのだ。雫は完全防護した長靴の足でザクザクと雪を踏み、道路でのびている人物に駆け寄った。
「大丈夫、ですか?」
近くで見下ろしてみれば、それなりに身長があるわりにコートの上からでもわかる頼りない身体つき。体の輪郭と後ろ頭の髪型から、ほぼ彼だと確信していた雫だったが、念の為、敬語で呼びかけた。
うつ伏せになった人物のすぐ横に膝をつき、上半身を起こしてやれば、はたして、行き倒れは雫の思っていた通り、同じクラスの美少年、天谷晴稀(あまがやはるき)であった。
おかしなことに、普段から馴染みである、そうして今日もぬかりなく装備した筈の熱源を、身体は徐々に感じなくなっていった。そうして、充分に冷え切ってしまった体に、親の忠告を無視し長靴を拒否して履いていったスニーカーから染み出してきた雪融け水が、追い打ちをかけた。だというのに、頭だけは何故かぼうっと熱く、眠気がのしかかってくる。温度、栄養、睡眠、何もかもが、足りなかった。
だが、まさか持病もない男子高校生の自分が学校の帰り道で倒れるとは思わなかったし、立ち上がれないなんて尚更だった。三日連続の徹夜がいけなかったのか、日頃の運動不足が祟ったか。
理由がどうであれ、倒れた直後の瞬間から、この無様な状態を何人にも見せたくないと、すぐに思った。今は無理だが、五分程度こうして休んだ後には、きっと立ち上がり、何事も無かったように歩き出せるはずだ。だから、人通りの少ないこの通りに、暫らくの間、誰も通りがからないことを晴稀は心底祈った。
「大丈夫、ですか?」
祈りは通じなかった。
「大丈夫ですけど?」と言って、今からでもしらっと立ち上がれればいいのに、身体は動いてくれなかった。
雪の上でうつ伏せ状態の晴稀に近付いてきたのは、声からして若い女だった。晴稀は同じ高校の生徒であってくれるなと強く願った。いや、同じ学校だったとしても、違う学年で。同じ学年だったとしたら、せめて、違うクラスの面識のない女子生徒であってくれ。
晴稀の横に膝をついたその人物は、女性にしては頼もしい力強さで晴稀の身体を起こした。そうして、うつ伏せだった行き倒れの顔を天に向け確認すると、「天谷くん?」と正しく晴稀の苗字を呼んだ。
晴稀は、雪で湿った前髪が額を濡らすのを鬱陶しく感じながら、眉間に皺を寄せ薄目でお節介な人物を見やった。その人物は、晴稀と同じクラスに在籍する女子、小向雫だった。
寒さで強張った顔面に、暖房の空気がじわじわ染み込んでくれば、自然、目から鼻から、体内の水分が滲み出てくる。
晴稀はギュッと、肩に掛けた大判のタオルで自分の顔全体を包んだ。そうして、タオルを顔面から離し視界を開かせた目の前には、茶色い液体の入ったマグカップが差し出されていた。
「紅茶。砂糖とかミルクとか、いる?」
「いらない。……どうも」
晴稀が不愛想にマグカップを受けとると、雫はそそくさと台所の方へ姿を隠した。
渡されたマグカップから伝わる紅茶の熱は、晴稀の凍えた指先には痛いぐらいだったが、それはむしろ心地よく感じられた。指先だけではない。裸になった足は盥にはられた熱めの湯につけられ、その奥に設置されたオレンジ色に発光する電気ストーブには体全体を暖められていた。更には、前髪をわずかに揺するエアコンの風が、部屋全体を冬とは思えない温度に上げていた。晴稀はついさっきまで横になっていた雪の上から一転、暖かい快適な空間の中にあった。
これと似たような状況を、どこかで知っているぞと思い出したのは、晴稀の中学生の妹が友人から借りたという薄い本だった。体調不良の主人公をイケメン男子が助け、自宅に招いて介抱するという展開。たしか、ぐったりしている主人公にイケメンが…。
「天谷くん、スープ食べる?」
そう、こんな風にスープを持ってきていた。…晴稀に持ってきたのはイケメン男子ではなく、フツメンの、しかも女子だが。
「あ…うん…」
台所から居間に出てきた雫は、ボウルとスプーンを載せたトレイを晴稀の斜め向かいにあるローテーブルに置いた。
「テキトーに作ったやつだけど、少しはあったまるだろうから。冷めないうちにどうぞ」
晴稀がボウルを見下ろすと、黄味がかった透明のスープの中には、キャベツ、ソーセージ、玉ねぎ等の具が浮いていた。
雫が救急車は呼ぶなと懇願する晴稀を自宅に上げてから、多分、まだたったの十数分。タオルを渡し、暖房をつけ足湯を用意し、紅茶を淹れ、簡単にではあるが食事を作り…随分と要領が良いものだ。だが、助けてもらったにも関わらず、晴稀にはその雫の要領の良さが鼻につく。
そう、晴稀は小向雫が好きではない。
面食いの自分にとって、地味で平凡な容姿の雫は対象外。そういう面は、ある。あるにはあるが、それ以上に晴稀が雫に苦手意識を持つようになったのは、前回の定期テストの個票が配られた時からだ。
各教科のテストの返却が終わり数日経った、ある日のこと。晴樹のクラスではHR中に担任から生徒一人一人に個票が配られた。教卓から数歩離れた場所で、晴稀は立ったまま自分の個票をおそるおそる確認し、そして、目を疑った。
一位、だったのだ。そんなわけ、絶対にないのに。
「天谷くん…」
背中に声をかけられ振り返れば、晴稀の方を向いてはいるが目を泳がせ決して合わせようとはしない、同級生の日向雫が立っていた。
「先生、天谷くんの個票、間違えて私に渡したみたい…」
雫はそう言って、慎ましやかに半分に畳まれた個票…右端に学年最下位の数字が印字された紙切れを、晴稀に差し出した。晴稀は本来の自分の個票を受け取る前に、手元の紙の左端にある氏名欄を確認した。「日向雫」とあった。
ショックだった。運動神経は良いがクラスで一番ボケボケの天然キャラの成績が、学年一位だとは。彼女は秀才だなんて素振り、誰にも、少しも、みせていなかった。対して自分はといえば、スポーツ全般壊滅的だからか無口で大人しいからなのか、まさか周りにそんな印象は持たれていないが、実際には勉強ができない。
それまで特別意識しているつもりは無かったが、内心、周りにいじられてもニコニコしているばかりの雫も、きっと自分と同程度の成績だろうと思っていたらしい自分に、この時、晴稀は初めて気が付いた。そして、気が付いたと同時に、勝手に裏切られた気分になった。
「天谷。ちょっとこの後、生徒指導室来て」
個票を配り終えた担任に呼び出された晴稀は、次のテストも今回同様の結果であれば留年は免れないと、告げられた。
わかっている。雫は何も悪くはない。彼女が晴稀の無様な成績を誰かに言いふらした形跡はないし、その後、彼女から学年順位の件でからかわれたことも一切なかった。
しかし、しかしだ、狡くないか?性格が良くていじられはするが、根暗で敬遠されがちな自分と違い、あくまで皆の愛されキャラで、スポーツも勉強もできるとか。晴稀は教室内で雫の気配を感じるだけでも、劣等感に苛まれるようになってしまった。
引っ越した先で通う高校では、まだ自分の諸々の本性はバレてはいない。しかし、晴稀は物心ついた時から中学時代まで、あらゆる人々に「顔はいいのに…」とがっかりされ続けてきた人生だった。運動ができない、勉強ができない、要領が悪い、気が利かない…。特に、中学二年の時に「顔が好きだから」と告られ付き合った女子に振られ、その後、「がっついてきてキモかった」と学校中に言いふらされたことからは、まだ立ち直ったとはいえない状態だった。
日向雫は女子だ。しかし、性別の差を超えて、できない自分と比較してしまう。彼女は「顔はいいのに…」なんて、これまでの人生一度も言われたことはないのだろう。そう、なにもかもできる彼女だが、唯一と言っていい平凡な点がある。それは、顔だ。雫の顔は、懐かしいというか、和むというか、牧歌的というか…控えめに表現するならば、アイドルグル―プの中ではみかけたことのないタイプの顔であった。
「ふふっ」
その顔の愛嬌を一段と増すように表情をくずし、晴稀が座るソファに向かい合った椅子に座った雫が笑った。しかし、その笑い顔はすぐにひっこめ、なにもない部屋の隅を見たきりになった。
ちなみに、顔の造形がよろしくないからといって、それで晴稀が雫に対して親しみが湧くとか、そういったことは全くなかった。むしろ、そうは見えない見た目で実は優秀だなんて、いっそう狡いことのように思われた。
「…何?」
笑われ、居心地がわるくなった晴稀は雫に短く聞いた。
「えっ……と」
雫は、例の事件(事故?)の時と同じように目を泳がせた。その素振りは、やはり晴稀を苛立たせた。
「何?笑われっぱなしだと、気分悪いんだけど」
言った本人が思っていた以上に棘を含んだ言い方になってしまったが、言われた方はそこまで気にした様子もなく答えた。
「あ、ごめん。えっと、どうでもいいことなんだけど、なんか、雪の中で倒れてる天谷くん見て、一瞬、思い出しっちゃって」
「何を」
「古い、外国の映画。女の人が雪の中で、男の人の足を持って引き摺っていくの。天谷くんが立ち上がれなかったら、わたしもああやって移動させなきゃいけないのかなって、一瞬ね、思った。すぐに、『あ、救急車呼べばいいんじゃん』って気が付いたけど。何だったっけなぁ、あの映画の題名…」
あ、あの映画か。晴稀は心当たりがあったが、あの子は我が恩人と違って
可愛かったなどと思っているばかりで、黙ってボウルの中のコンソメスープを啜った。もし、相手が自分の劣等感を煽る存在でなく、ただの知り合いだったなら、映画の題名を教えてやっただろうし、間を持たせる話題を提供してくれたことに感謝もしたことだろう。だけど、晴稀は雫にはそれができない。してやりたくない。
なぜ、彼女は自分をいつも以上に意地の悪い人間にするのだろう。雫といると、ただでさえ低い自己評価が余計に下がっていくのを、晴稀はあからさまに感じる。だから、苦手だ。
「ここまで、出てるんだけど。あー…もうちょっとで思い出せそうなのに…」
まだ、体は辛い。もう少しこのまま暖かい部屋で休んでいたい、そう体は訴えてくるが、どんどん惨めな気分になっていくのに耐えられない。もうここを出ようと晴稀は決心し、腰を上げた。
「あのさ、もう…」
「思い出した!『ひなげし』だ。そう、花の名前のタイトル、『ひなげし』!」
どうして。意味がわからない。
印象的に、「ひまわり」畑のカットが使われていたではないか。だが、「ひ」から始まる花の名前であることは、同じか。四文字だし。しかし、だったら、そこまで合っていて、なぜ、そこから間違える?
駄目だった。笑ってやるものかと思ってはみたが、駄目だった。もう、鼻からコンソメスープが噴き出してこようとするのを堪えるので、精一杯だった。堪え悶える晴稀を、不思議そうに雫が見ている。その表情が、様子が、いっそう可笑しい。
ああ、本当に彼女は狡い。狡い奴はいるものだ。晴稀は自分に白旗を上げることを許した。
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