ラ・マンチャの男は幸福なりや

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「……俺と話をしたい、と言ったっけ」  のしかかり、オレの顔を覗き込んだ帆沼さんが静かな声を落とす。 「慎太郎は、もうたくさん話をしてくれた。だから次は……俺の番なんだろうな」  胸の上に、彼の骨張った手が置かれている。肋骨の軋む重みに耐えて、オレは頷いた。 「……は、い。話してください。お願いします」  心臓を掴むように肉に爪を立てられる痛みを、必死で我慢する。……今は、余計なことを言うべきじゃない。オレは帆沼さんの話を聞いて、知らなければならなかった。  この人が自分で作り上げた世界の底で、ひた隠しにしていた本音を。 「――でも、どう、やって?」  けれど、がらりと帆沼さんの雰囲気が変わる。夕陽の残る薄闇から漆黒の闇夜に。サラサラとしたアッシュグレーの髪が、不安定に揺れた。 「どう話せばいい? 何から話せば? 話すということは、俺の中にある汚臭を放つ醜い泥を吐き出すことに他ならない。それを慎太郎は余さず飲んでくれるのか? 俺の中身を受けいれられるのか? 精神世界がイデアにある限り現実世界に放たれた言葉は乖離する。だというのにお前は俺を理解できると言い切れるのか? 不確定を前提とした確定は存在し得るのか?」 「……帆沼さん? どうしました?」 「……嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。俺はお前の言葉の裏を読みたくない。話せない。無理だ」  ――まずい。また帆沼さんに声が届かなくなっている。  止めようとしたけれど、パニックになった帆沼さんはますますオレに深く爪を突き立てた。 「慎太郎……慎太郎!」 「い、痛いです! 帆沼さん、やめてください!」 「なぁ慎太郎、一つになろう……! 一つになれば、お前は俺から逃げられない! 無理解からの拒否も……いずれ来る別離を恐れなくても良くなる! だから……!」 「帆沼さん!」  抵抗しようとしたが、いつのまにか帆沼さんの左手に握られていたナイフを見て硬直してしまう。――腹の底が冷えるような感覚。いつか鵜路さんに明確な殺意を向けられた時の恐怖が、蘇ったのだ。 「邪魔だ。皮膚が邪魔だ。肉が邪魔だ。骨が邪魔だ」  ブツブツとした声に混ざり、ナイフが振り下ろされる。咄嗟に身を庇って心臓から狙いを逸らすも、鋭い痛みが手のひらに走った。  血が飛び散る。オレの頬にも、帆沼さんの手にも。  ――ダメだ。痛い痛い怖い。オレは、今度こそ本当に殺される。 「邪魔……するな……!」  帆沼さんは、オレの血に染まったナイフを握り直した。 「俺は間違ってない! こうすれば檜山サンも慎太郎も俺も全員救われる! なんで……なんでそれが分からない!」  再び振り上げられたナイフに、オレは悲鳴を上げようとした。帆沼さんを跳ね除けようと両手を突っ張ろうとした。あるいは、ここにいない誰かの名前を呼ぼうとしたのかもしれない。 「ああっ……! なのに、なんで俺は……!」  でもどんな抗いも、次の帆沼さんの言葉に全て失われてしまったのである。 「どうして今更……慎太郎と言葉を交わせなくなるのが怖いんだ……!」  ぱたりと雫が落ちる。帆沼さんを見上げる。彼は子供のように泣きじゃくっていて、残った目からあふれる涙に顔を濡らしていた。  ――空想の中で、うずくまっていた帆沼さんが顔を上げている。その表情は所在無げで、酷く幼い。だけど、耳を塞いでいたはずの手は、もう自由になっていた。 (……そうか。オレじゃ、届かなかったのか)  ――死は痛いのだろうか。せめて長く続かなければいいけど。もしも手術が成功すれば、帆沼さんは今みたいに苦しそうな顔をせず穏やかにオレの一部と生きていけるのだろうか。  そうだといいな。  ナイフはもう止まらない。体は恐怖に強張っている。結局何も変えることはできないまま、オレはあと数秒で殺される。  全てを諦めそうになったその時、ふと脳裏をいつも見つめていたあの人の笑みが過ぎった。 『叶うなら、僕も慎太郎君のようになりたい。自分の気持ちにまっすぐで、どこまでも人に手を差し伸べるような』 (……檜山さん、ごめんなさい)  彼の言葉を思い出し、今になってこんな蛮勇ともいえる行動を取ってしまった理由に気付く。我ながらひどい思い上がりで、笑ってしまいそうになったけれど。  ……手を差し伸べていたのは、いつだってオレじゃなくてあなただった。幼いオレや今のオレといてくれたのも、ここまで助けに来てくれたのも。物語に雁字搦めにされた人達の闇を見抜き、ほどき、救いあげてきたのも。  そんなあなたの優しさに、あなた自身に、本当に憧れていた。 (……好きだった。他の誰にも負けないぐらい)  触れた温度を思い返す。匂いも、笑顔も、体を締めつける腕の強さも。  最後に一目会えて良かった。抱きしめてくれて、嬉しかった。 (――オレも、あなたのように、人を救える人になってみたかった)  そうして届かぬ言葉と叶わぬ夢に蓋をして、目を閉じた。
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