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帆沼さんは、しばらく呆然とオレを見ていた。だけど、やがて薄く笑って首を横に振る。
「……慎太郎と話すって、どういうこと? 今までだって山ほど話してきたろ」
「はい、たくさん」
「これ以上何を話すってんだ。悪いけど、あまり時間は無いよ。医者の準備が整ったらすぐに始めるから」
そう言うと、帆沼さんは服を脱ごうとし始めた。恐らく手術衣に着替えるつもりなのだろう。それをさせてはまずいので、オレは慌てて飛びついた。
「痛っ」
「え!? あ、すいません!」
けれど帆沼さんに顔をしかめられて、すぐに手を離した。……ん? 痛い?
「帆沼さん、どこか怪我してるんですか?」
「い、いや、そんなことは……」
「ちょっと見せてくださ……あーっ!」
帆沼さんが右足首を庇う手を払いのけると、ギョッとするほど赤黒く腫れ上がった打撲痕が顔を出した。
「足! 足首めっちゃ腫れてるじゃないですか! どうしたんです、これ!」
「え、えっと」
「しかも何の処置もしてない! ダメですよ、こういうのはすぐ手当てしないと! どこで怪我したんです!?」
「あの……檜山サンちで、炊飯器を投げられて……」
「何やったんですか、帆沼さん!」
あの檜山さんが投擲レベルで怒るとなると、非があるのは帆沼さんの方だろう。そう判断しての発言だったのだが、決めつけられた当の本人は不服そうにぶすくれていた。
「俺は悪くない。檜山サンが俺を引き止めた過ぎて、実力行使に出ただけだ」
「とにかく手当てしますよ。湿布とか無いですか?」
「……いらない。手術の時に慎太郎の足を俺につけてもらえば済む話だし」
「解決法が大雑把過ぎるんですよ。それに、うまくくっつかなかったらどうするんですか」
「くっつく。俺と慎太郎は元々一つだから」
「はいはい、帆沼さんの理論だったら確かにくっつきますよね。失礼しました」
適当に返事をしながら、その辺の棚を見回し湿布を探す。が、本当に無かった。そりゃ簡易的な手術室にあるはずないか。
諦めて、せめて帆沼さんの足に負担がかからないようベッドに座ってもらうことにする。
「じゃあ仮定として、オレの足をあげるとしますよ」
そして自分も帆沼さんの隣に座り、切り出した。
「そうしたら、帆沼さんはちゃんと体のメンテナンスをしてくれるようになりますか?」
「どういうこと?」
「足首の怪我もそうですけど、元々帆沼さんってすごく自分の体調に頓着しないじゃないですか。偏食家だし、病院嫌いだし。一回インフルエンザで寝込んだ時とか、胃薬で対応しようとしてましたし」
「薬には違いないだろ」
「その理屈、マジで薬にだけは適用しちゃダメですからね? でも、オレと帆沼さんが一つになったら、あなたの体がオレの体になるわけでしょ? オレ、自分の体が雑に扱われたり蔑ろにされるのは嫌ですよ」
「……」
「だけど、こうして別々のままだったら、オレが帆沼さんの手当てをしてあげられる。適切な薬を買ってきたり、病院に引っ張っていくこともできる」
帆沼さんからの反応が無くなる。彼は息すら止めたかのように、うつむいたまま微動だにしなくなった。
「……ねぇ、帆沼さん。一つになったら、二度とそういうことができなくなるんですよ。オレと喋ることだってできなくなる。帆沼さんは、それが嫌じゃないんですか」
「……」
「帆沼さん」
彼は、両手を見つめて押し黙っている。けれど、感情を押さえ込むようにして拳を握った。
「……なんで、またそういうことを言うんだ。俺を、拒否するような……」
「違います、オレは帆沼さんを拒否したりなんかしません。もしもの話をしてるだけです」
「違う。慎太郎は一つになりたくないからそんなこと言ってるんだ」
「そうじゃありません。ねぇ帆沼さん、ちゃんと聞いてください。そのまんま受け取ってもらって大丈夫です。今までオレが嘘ついたことがありましたか?」
「……あの時、すぐに帰ってこなかった」
あの時というのは、オレがトイレに行った時のことだ。泣き出しそうな声で言う帆沼さんの手を、オレは急いで握った。
「そ、その件に関してはすいません。まさか檜山さんがいるとは思わなくて……」
「……慎太郎なら、すぐに帰ってきてくれると思ってた」
「う……ごめんなさい」
「……でも」
帆沼さんが、ちらりとこちらを見た。
「どうしてお前……あのまま逃げなかったんだ?」
「……え?」
「慎太郎は、檜山サンと逃げる選択肢も取れたはずだ。俺と一つになりたいから戻ってきたのか? でも、慎太郎はずっと一つになりたくないって言っている。……矛盾してる。順当に考えれば、一つになりたくないなら逃げるはずなのに。……おかしい。理屈が合わない」
帆沼さんは、ふるふると頭を振っていた。その手は、すがるようにオレの手を掴んでいる。
「なんで……」
ふいに、肩に重さが宿る。帆沼さんは、長い体を丸めてもたれかかってきていた。
「――こんな俺の所に、戻ってきてくれたんだ」
……それは、とてもか弱い呟きだった。雨粒が落ちたかのような。葉がさざめいたかのような。
でも、温かな重さと、髪が触れた部分のくすぐったさ。バケモノでもなんでもない人間の温度が、オレと彼の距離の近さを突きつける。
――帆沼さんだ。オレの知ってる帆沼さんが、ちゃんとここにいる。そう思えた。
「……帆沼さんに、嘘をつきたくなかったからです」
だからオレも、できるだけ優しく答えたのである。
「帆沼さんにとって、オレは言葉の裏を読まなくていい唯一の人間なんですよね? その意味は……心情を深読みしなくていい、気安い関係なのかなって解釈してます。だからもし、オレが帆沼さんのそういう存在になれてるなら、その関係を壊したくなかった」
「……」
「帰るなら、直接帆沼さんを説得してから帰りたいと思ったんです。できれば、一緒に」
帆沼さんは、黙って聞いてくれている。――今なら、届くかもしれない。オレは力を込めて、帆沼さんの手を握った。
「ねぇ帆沼さん、どうかこれ以上罪を重ねないでください。一緒に帰りましょう。もし自首とかされるなら、オレも付き添いますよ」
「……そんな無茶、今更俺が聞くと思う?」
「オレ、帆沼さんの友達ですもん。あわよくば、聞いてもらえないかなって」
「友達」
「はい」
「……友達。すごく嫌いな言葉を、慎太郎は平気で使うんだな」
だけど言葉とは裏腹に、帆沼さんも手を握り返してくれた。
「友達は、別の人間同士だ。でも俺は、慎太郎と別の人間でありたくない」
「ですが実際のところ別の人間です。別の人間だから、こうして会話ができています」
「嫌だ、俺は慎太郎と一つになりたい」
「大丈夫ですよ。だって一つにならなくても、オレはここにいるじゃないですか」
その一言に、帆沼さんはハッと顔を上げた。まるで初めてオレを認識したようなその人に、オレははっきりと頷いてみせる。
「いますよ、ちゃんと。一つにならなくたって、オレはこうして帆沼さんの目の前にいます。今だけじゃない、これまでだって一緒にいて、帆沼さんとおしゃべりしたり、部屋の片付けとか手伝ったり、そんなことをずっとしてきました。あ、オレも生活しなきゃいけないから、四六時中とかは無理でしたけど……」
「……」
「……オレは、そうやって帆沼さんと過ごす時間がすごく楽しいです。だから、帆沼さんから離れようとか思ってません。勿論これからも」
「……」
「その……帆沼さんと一緒にいる方法って、そういうのじゃダメですか」
「……慎太郎」
帆沼さんは、じっとオレを見ていた。オレも帆沼さんを見ていた。そうして、互いに手を取り合い、何も喋らない時間が過ぎて。
突然。
体を突き飛ばされる。視界が天井へと移る。腹部に鈍い重さが乗る。伸ばした手は絡め取られ、押さえつけられた。
――オレは、帆沼さんに押し倒されていた。
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