ペルジネットの夜明け

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「ペルジネットの夜明け」  老舗書店の建ち並ぶ神保町の片隅に、一際小さな古本屋がある。銅製の看板は錆びてしまっていて判別しづらいが、開店当時は岡田メルヒェン堂、とくっきり読めたことだろう。 間口が狭く、その幅に沿って雑然と古書が並んでいるので、三メートル弱しかない奥行きまでの道のりは人ひとり通れるかどうか、という具合だ。 殆ど来ない客の為に、最奥で店番をしている航平は、大きな欠伸をしてレジ台に突っ伏した。気の早い蝉が一匹、何処かで鳴いている。 「良い天気だなぁ」  三メートル先の、開け放した戸の奥に見える初夏の日差しが、健全な高校生には恋しかった。木製の机には紙の匂いが染み込んでいる。ひんやりとした感覚に思わず眠気を誘われ、慌てて立ち上がった。気紛れに、古書の方へのろのろと近づく。 「なんか、前に……好きだった本が……」  ぶつぶつと独り言を言いながら整頓されていない棚に目を走らせる。国も時代もぐちゃぐちゃに混ざっているこれらの書物は、研究者の観点から見れば貴重な文献が多いが、それはつまり難解な書が多いということと同義であった。その上この店には八割方洋書しか置いていないため、高校生が一見したところで、題名すら読めるものが殆ど無い。残り二割の邦訳本を探し、航平はウロウロと狭い棚の間を往復した。 「じいちゃん、もう売っちゃったのかな」 「何を探してるの?」  低い声がして、はっと振り向くと、入り口に中年男性が立っていた。今日は日曜日だというのに涼しげな夏用のスーツを来ている。知的なフレームの眼鏡も相まってインテリ風の外見だ。店番は、慌ててお辞儀をする。 「いらっしゃいませ」 「あ、何だ。お店の子か。中学生が年代物の洋書店なんかに来るとは、って感心してた所なんだけど」  航平は毎度のことにうんざりしながら、悪びれた様子の無い男性客に 「高校生です」と断わった。  男性はまじまじと航平を見た。間口から木漏れる光が少ないので、逆光で表情が分からないが、航平は挑む様な態度で遠慮の無い視線に応えた。 「……小さいね」 「一六〇は超えてますから、普通です。お客さんは高いですね」 「ああ、うん。一八五センチあるよ」  男性が航平を中学生だと勘違いしたのは、身長よりも華奢な体格の所為であるかもしれない。航平は痩せている上に、撫で肩で腰細なのでTシャツが緩くなり、少し幼く見える。 「何をお求めですか」  店主である祖父から教えられた通りの台詞を口にする。 「ご主人に注文しておいた本を取りに来たんだけど」  航平はレジ台に戻って、その棚の中にあるメモ書きを探した。注文は二件あった。渡部さんと、篠原さんだ。 「お名前は」 「篠原です」  こっちか、と航平はメモの指定した本を裏へ取りに行った。その間、篠原という男は、楽しそうに店の本を物色して歩いた。良く来店するらしく、小慣れた感じで本棚から出しては、時代掛かった装丁や紙の焼け具合を眺めている。 「篠原さん、何か良いのがありました?」  奥から出てきた航平が注文(と言ってもこれは祖父が、店に置ききれなかった商品を自宅から持ち出すというだけのことなのだが)の本を台の上に置いてレジを打ち始めた。 「いや。それより、君」 「あ、孫の航平です」 「航平くん。さっき探していた本は何?」  しつこいな、と思いながら航平は苦笑いをした。 「ペルジネットという童話ですけど……」 「ほう! ペルジネット! ラプンツェルじゃなくて?」  篠原がそう訊くので、航平は、驚いた。グリム兄弟で有名な童話ラプンツェルには、実は多くの元話があるのだが、その中の一つが、ド・ラ・フォルス嬢の書いたペルジネットという貴族向けの恋愛小説である。 「良く知ってますね」 「こう見えて英語の教師だから。学生時代はヨーロッパ中の説話比較なんてやってたんだよ」 「そうだったんですか」   航平は注文品の代金を受け取りながら、感心した。成程。篠原の注文した本も、昭和初期に出版されたらしいティル・オイレンシュピーゲルの邦訳本だ。日本での知名度は低い。 「ペルジネットの方がリアルで、僕は好きです」 「リアル、ねえ」  篠原は品の良い眼鏡を直し、笑った。少し俯いて口の端をニヤッと上げる仕草に、暗い書店の中が一層深い冷たさに襲われた。航平は、背筋を伸ばし、出入り口から見える外界の明るさだけを何度も確認した。その位、その篠原の表情は不気味だった。 「うちにも居るよ、ペルジネット」 「……え」 「幽閉しているのは、身体じゃなくて心だけどね」  言葉尻は、興奮か可笑しくてか、声が震えていた。そのまま篠原が上機嫌で会釈をし、ゆったりと光の方へ去っていくのを、航平は冷や汗を掻きながら見詰めていた。 「なんだ、あの人」  上品そうで清潔感のある篠原が、あれほど下卑た笑いをするのが、航平には信じられなかった。  気味が悪い客が来たなと思いながらも、一方で航平は少し昂揚していた。この岡田メルヒェン堂の店主である祖父以外に、ペルジネットを読んだことがあるという人間と初めて話したからであった。童話ではなく恋愛小説として書かれたこの話で、高い塔に少女を幽閉するのは、魔女ではなく悪い妖精だ。悪い妖精はクライマックスで、良い妖精になる。親の働いた盗みの所為で妖精に囲われることになった長い髪の美少女ペルジネットも、密会していた王子と幾夜も過ごし、不義の子を身籠もる。  童話とは違い、絶対悪も無ければ絶対善も無い。そういう人間臭さ、世俗的な展開が航平には面白かったし、童話の強引な成り行きに疑問ばかりを持っている孫に祖父が与えた大事な物語の一つでもあった。 「無いなあ。やっぱり売れちゃったのかも」  航平が性懲りもなく本棚を見上げて首を左右に忙しく振っていると、狭い店内にボーンという音が鳴り響いた。  ボーン、ボーン、ボーン 「えっ、今何時だ?」  ボーン、ボーン……  レジの後ろに掛かっている大きな柱時計が六時を告げて沈黙した。航平はぎょっとした顔で振り向き、明るい外と文字盤を見比べた。 「お客も居ないし、もう閉めるか」  随分早い閉店作業だが、祖父もいつも夕方になると適当な時間で店終いをしている。昼間、何人か来た一見の客が乱していった本の羅列を少しだけ整え、シャッターを閉める長棒を片手に、小さな洞窟の出口へと向かう。 「腹減ったな。今日の夕飯なんだろ」  今日一日で随分独り言の増えた航平は、やっと店番から解放されて揚々と表へ出た。鼻歌交じりだ。  今日は、普段全くしない祖父の手伝いをしたので、家に帰れば色の付いた日給が受け取れる。最近ハマっているロックバンドのCDを買おうか、それとも洋服を買おうか、ゲームを買おうか。  いそいそと長棒を掲げ、金具に引っ掛ける。すると、明るいながらも傾き始めた陽を浴びて、石畳の舗道をゆっくりとこちらへ向かってくる影が見えた。  航平は、浮かれていた動きを止め、閉めかけていたシャッターを押し上げた。 細い腕に、陽の光に透ける糸の様な短い髪。逆光で顔が見えないが、確実にその女性はこの店を目指して歩いていた。航平が始めに気付いたことは、その人が一七〇センチは優に超えているであろう長身の持ち主であることだった。  店に到着するなり女性は、お辞儀をしながら 「ここ、岡田メルヒェン堂さんですか」  と訊いてきた。並んでみると自分よりも一〇センチほど高い身長に半ば唖然としながら、航平は、そうだと答えた。店の中に客を促す。少女趣味でも無く、ボーイッシュでもない曖昧で中途半端な服だが、日焼け防止なのかもしれない。長袖に半端丈のスカートである。彼女は、航平とそう違わない年に見えた。大学名ロゴの入ったビニールバッグを持っている。背が高いことを気にしているのか、足下はヒールの無いサンダルだ。 「教授に紹介されて、地図を見ながら来たんだけど、迷っちゃって」  シャッターを閉めようとしていたことに気付いていたのだろう。申し訳なさそうにそう言い訳しながら、女性はまた低姿勢だった。レジの中に戻った航平は、どうして彼女がお辞儀ばかりをするのだろうと疑問に思ってから、それが、背の高さの所為だと気付くまでに随分かかってしまった。  航平の背は、低いとはいえ標準だ。恐らくその女性客は、いつもの周りの女友達と喋るときの癖が抜けないのだと思われた。一五〇センチや一六〇センチの女の子相手に話すとなると、自ずと腰は低くなる。遠くから歩いて来たときはとても綺麗だったのに、と、航平はその上背の持ち主を純粋に素敵だと思った。凝視してくる店員に慣れた劣等感を刺激されながら、女性は 「私、ペルジネットというお話の翻訳本を探しているんです。此処にならあるかもしれないと言われて来たのですが」  と切り出してそのまま事情を説明し始めた。航平は、あ、という表情をして、眉を寄せた。 「それが……どうにも見当たらなくて。多分あるとは思うんですけど……」  航平が不慣れなアルバイト要員だということは分ったのだろう。女性は特に嫌な顔もせず、ちょっと困った様な顔で笑った。涙袋の目立つ顔色の悪い笑顔だが、それが逆に航平には新鮮で、好感が持てた。同級生の女子とは違う、倒錯的な感じのする女性だった。 「じゃあ、一応連絡先だけ。もしあったら連絡してもらえますか?」 「あ、あ、はい。あの、じゃあこれに」  航平はレジ脇の棚にある注文票とペンを渡した。彼女はそれに、吉岡夏美と記し、規定の枠に電話番号と住所を添えた。何に浮かれていたのか、それをまじまじと見詰めていた航平は、思わず「夏生まれなんですか」等と、尋ねそうになり、慌てて飲み込んだ。  それから一週間後にまた来て下さいと言った。彼女はそれに神妙に頷く。 「あの、俺、岡田航平っていいます。ここの店主の孫で、あの、もしもう売れちゃっていても余所から買ってきてもらったり出来る様に、じいちゃんに頼んでみる、から、元気だして」  落胆させてしまったからか、何とか笑って貰おうと航平は捲し立てた。敬語を使うのを忘れた航平に、夏美は可笑しそうに少し笑顔を戻した。 「ありがとう。航平くん」  今度は本当にお辞儀をして、夏美は踵を帰した。後ろ姿は、姿勢が良いのでとても美しく見えたが、生白い右足の脹脛に一つ、大判のガーゼが当ててあった。あんな所、どうやって怪我したのだろうと不思議に思いながら、航平は何だか面白くて笑った。  凛として見えるが、案外そそっかしい女の子なのかもしれないと思うと、可笑しかったのだった。  地下鉄の改札をもどかしげに通り、航平は地元の駅から走って自宅まで帰った。何の変哲も無い閑静な住宅街が、今夜は美しく見えた。  夏美が帰った後も運悪くもう何人か客が来た為、帰宅したのは夜の九時を越していた。 「お帰りー。航平」  暢気そうな母の出迎えにも請け合わず、慌てた様子で二階の祖父の部屋へ向かう。ドタドタという足音に驚いて、居間で野球観戦をしていた父も、顔を覗かせた。 「どうしたんだ、あいつは」 「何か凄いことでもあったのかしらね」  と、両親が顔を見合わせていることも知らず、航平は祖父の部屋のドアをノックした。 「じいちゃん、じいちゃん!」  中から、娘に似た暢気な返事がするのと同時に、航平はドアを開け、いきなり拝んだ。 「じいちゃん、お願い!」 「何だ、藪から棒に」  岡田メルヒェン堂の主人である祖父、友康は、書斎に飛び込んでくるなり頭を下げる孫を不審がりつつ、掛けて居た老眼鏡を丁寧に外した。一見気難しそうだが目元の辺りに悪戯っぽい皺が寄っている。性格も年齢の割に随分と柔軟で、大した好々爺である。 「今日の日給って、どれくらい?」 「いきなり金の話か。まあ、今日は注文も入っていたし、私は大切な用事が入ってしまっていたしで、本当に困っていたから航平が店番してくれて大助かりだったよ。少し奮発しないとなぁ」  現代っ子の金銭欲に苦笑しながらも友康が鷹揚に答えると、航平は縋る様な目で嬉しそうに笑った。 「俺、日給要らないから、その代わりにじいちゃんの本をくれない? 一冊で良いんだ」  おや、と思った。友康は話の背景が知りたくなって、デスクチェアから腰を上げると、どっかりと床に胡座を掻いた。 「航平、大切な本が絡む話とあっては、私もおいそれと頷くことは出来ない。さ、事の顛末を教えなさい。話はそれからだ」  にっこりと笑う祖父に頷き、至って真面目な面持ちで航平は正座した。友康の目にあからさまな好奇の色があるとも知らず、一生懸命、今日最後に来た客の話を始めた。  身振り手振りを交えて興奮冷めやらぬといった航平を見ながら、友康の瞳の中は益々愉快そうな色を帯びた。高校生とはいえ、航平ももう立派な大人だ。  恋でもしたのだろうと察しを付けて、友康は静かに、支離滅裂になり気味な孫の話を聞いていた。 「つまり、その背の高い女性は大学生で、大学で書く論文の資料に使いたいから、本を注文してきたんだな?」 「そう。それを俺に売って欲しいんだ」  航平も、話を終えて少し落ち着いたのか、恥ずかしそうに鼻を擦りながら訊いた。 「今日の日給じゃ、足りない?」 プレゼントする気なんだろうと合点しながら、友康は笑った。本当は、岡田メルヒェン堂で売っている本は貴重なものばかりで、たった一日アルバイトしてもらったくらいじゃ割りに合わないのだが、流石にそれを航平に言う非情さは持ち合わせていない。可愛い孫だ。 「どの本だ?」  含みを持たせて尋ねる。航平は一層嬉しそうな表情を見せ、まるで自分自身が選ばれた本であるかの様に照れながら、 「ペルジネット」  と、答えた。 「ペルジネットか……しかしお前、あの本はお気に入りだったじゃないか」 「うん。だから、嬉しい」  素直に育ったものだと半ば呆れながら、友康は黙って立ち上がり、壁一面に備わっている本棚の端から、古ぼけて変色した本を一冊取った。 「この間、保存状態を確認する為に持ち帰ったばかりだったんだ。大事に扱うんだぞ」  自分の皺のよった手に、しっくりと収まっていた古書が、若々しい航平の柔らかい手に渡る瞬間を、友康はじっくりと見ていた。航平が受け取った途端、古い本と若い手は歪な違和感を生み出して、その分、それは宝物の様に、輝いて見えた。 「ありがとう、じいちゃん」  航平はもう一度、頭を下げて、嬉しそうに笑った。まだ正座のままだった。   実際、航平はその女性に好意を持ったものの、恋に堕ちたとまでは自覚していなかった。恋ではなく、ただの憧れに近い。けれども航平は夏美と近しくなりたいと熱烈に感じていた。そういう、理由の曖昧な好意のことを、人は、一目惚れというのかもしれない。 そのくらい、彼女の高い身長と伸びた背筋と、そこはかとなく儚げな感じに心奪われた。  結局航平はその夜、友康から受け取ったペルジネットを大切に抱え、自室に戻ってからもぼんやりと寝転がってばかり居た。  約束の一週間後、航平はまた神保町の片隅にある岡田メルヒェン堂のレジ台に突っ伏していた。生憎の強雨で、客足は殆ど無かった。貴重な日曜日を一日犠牲にしての店番も、夏美が来ないのであれば意味が無い。 「今日は、来ないのかなあ。こんな雨だもんな」  口に出すと尚更哀しくなった。レジ台の脇の棚には小さな紙袋が、うやうやしく置かれていた。中身は勿論、一日分のアルバイト料で祖父に譲ってもらったペルジネットである。 「吉岡と岡田って似てるな」 「やっぱり夏生まれなのかな」 「脹脛、もう治ったかな」  ぶつぶつと、何分か置きに独り言が飛び出した。どうでも良いことばかり考えていると、時間はどんどん経っていった。  雨足は強くなる一方であった。朝から仄暗いので、一日中店内では蛍光灯を点けていた。航平が何十回目か分からない溜め息を吐く。柱時計を見上げてみると、七時前だった。今日はもう諦めようと思い、長棒を持ってシャッターを閉めに出る。のそのそと細い通路を歩き、項垂れて軒下に出る。対岸に、夏美が居た。 「えっ」  航平は思わず声を上げた。土砂降りの雨の中、夏美は傘も差さずに息を切らして立っていた。たった今到着したのだろう。全力疾走の後の呼吸だ。一週間前に会ったときよりも顔色が悪く、頬が影を落として見える。そのままこちら側へ大股で歩いてくる夏美に、弾かれた様に航平も軒先を飛び出す。 「どうしたんですか!」  長棒を放り出して、対岸へ行こうとしたが思い直して店内へ戻る。店の奥の休憩出来る小部屋からなるべく大きなタオルを掴み、戻った。既に店先まで着いていた夏美の身体は冷え切って、唇は色を失っていた。今日も長袖だが、全身ずぶ濡れで見る影も無い。 「遅くなってごめんなさい」  夏美は引きつった様な笑顔を見せながら、よろよろと軒先へ入った。航平が腕を引っ張っても、大事な古書が濡れてしまうからと言って、店内へは入らない。 「途中で傘が壊れちゃって」  と言う夏美の手首に赤い痣を見付けた。航平は不審に思って、夏美の頭にタオルを被せながら、その細い縄模様を見詰めた。 「夏美さん、ちょっと後ろ向いて下さい」  なるべく自然にそう言いうと、夏美は頭のタオルで髪の毛を拭きながら、何も疑わずにただ航平に背中を見せた。航平は夏美の右足を見た。もうガーゼは取れていたが、代わりに大きなかさぶたが出来ていた。  ああ、と航平は思った。明らかに切り傷だった。細い脹脛の端から端に斜めに入った傷跡は、痛々しく皮膚を引きつらせていた。航平は素早く後背一面を観察していった。タオルを持つ手首の痣は両方にあった。それから張り付いたTシャツの左腰部分に変な膨らみがあった。航平は、嫌な予感に苛まれながら、躊躇いなくその部分の服を捲った。 「ちょっと、何……!」  嫌悪を感じる暇もなく虚を突かれた夏美は、驚きのあまり跳ね上がった。慌てて服を戻し、虫が付いていたのだと苦しい嘘を吐いて、航平は愛想笑いをした。本当は、物凄く大きなガーゼが当ててあり、サージカルテープで固定されていた。しかしそのガーゼでも覆えない程の大きさなのだろう。はみ出した部分に青痣が見えた。 「ペルジネット、ありました?」  夏美がタオルで肩を拭いながら、訊いてきたので、航平は辛うじて「はい」と返事をすることが出来た。 「今日持って帰ります?」  びしょ濡れになってまで来たのだから愚問だと思いつつも、航平は尋ねた。傘をこちらで貸したとしても、この雨では本は濡れてしまうだろうと思うと少し悔しかったのだ。ところが予想に反して夏美は首を横に振った。 「今日は、大人しく帰ります。来週の日曜日にまた取りに来てもいいですか?」  夏美はタオルを航平の胸に押し付け、ありがとうと笑った。 「良いですけど……。それなら何もこんな雨の中来ることなかったのに。時間も遅いし、何か用事を済ませてきた後だったんでしょ?」  航平が至極真っ当なことを言うと、夏美は首を傾げて「急に用事が入ったの」と済まなさそうに答えた。 「先週は、ちゃんとお昼間に来るつもりで約束したんです。航平くんが待ってくれている様な気がして、今日は用事が終わって直ぐ、飛び出してきたんだけど……」  雨の降る音と、夜の帳が、夏美を実態の無い幽霊の様に演出した。その位夏美の顔色は悪く、身体の至る所にある怪我のことも航平には気になっていた。 「夏美さん、来週も俺、待ってますから」  とても再会を喜べる感じでは無くなってしまった自分に鞭打ち、航平は気丈に明るい声を出した。夏美も嬉しそうに頷き、航平に店の置き傘を借りて、ゆっくりと雨の中を帰っていった。  航平の浮かれていた気分はすっかり萎み、不穏な胸の内であった。  夏美の傷は、一体どうやって出来たものなのだろうか。見るからに虚弱そうな身体からスポーツをしているとは考えにくかった。大学生にまでなって、女子の間で暴力を伴うイジメがあるとも思えない。 「虐待……家庭内暴力?」  とまで口に出してから、やはり首を傾げる。それならば家を出て自活出来る年齢だ。あれだけ酷い痣が出来るのであれば大学を辞めてでも働きに出るだろう。脹脛の傷は、完全に刃物で付けられたものだった。航平の胸中に言い知れぬ不安が犇めいていた。 「痴話喧嘩、とか」  豪雨の軒先で、航平は一人、不謹慎ながら吹き出した。痴話喧嘩であそこまで傷つける相手なら、とっくに別れていることだろう。それに、先週とは違う傷が今週付いていた所を見ると、痴話喧嘩には無理がある。もちろん、相当長い期間喧嘩しているのであれば新たな傷も付くかもしれないが。 「それに、夏美さんに彼氏が居たら、困る!」  夜の神保町にそう宣言して、航平はのそのそと店内へ戻った。夏美の使ったタオルで自分も適当に濡れた箇所を拭い、さっさと帰途に就いた。  始めは航平も、夏美の傷について悩んでいたが、それから毎週、お互い何とかかんとか理由を付けて店で会う様になると、そんなに気が滅入ることはなくなった。毎週日曜に店番を必ず引き受ける様になった航平に、友康は邪推して興味津々だったが、実際は二人の関係が進展したという訳ではなかったので、航平は夏美が来るからだとは祖父に言わなかった。  ペルジネットを渡した日曜日、夏美はハイネックの間から真新しい痣を覗かせて、本当に嬉しそうに笑った。 「本当にいいの? 私、お金払うよ」と、最初は遠慮していたが、航平が、自分がとても好きな本なので、プレゼントしたいと言うと、はにかんで俯いた。航平よりも一段目線の高い夏美は、航平の位置にまで視線を下げ、目を見てお礼を言った。 「私もこのお話がすごく好きだから、論文のテーマをペルジネットにしたの」  ラプンツェルも随分好かれる童話だが、それより更に恋愛要素が強いので、女の子には受けがいいだろうなと航平も頷いた。 「私も髪の毛が長ければなって、いつも思うわ」 「そうしたら王子様が助けにくるのに?」 「そう。暗いあの中から、私を救いにきてくれるのにって。でも駄目ね。私は髪がこんなに短いし」  笑い事にしようとしている必死さが痛ましい。航平は、暗いあの中とは何処のことだろうと思いながら夏美が喋るのを黙って聞いていた。夏美は何処かに何かの捌け口を求めている。そんな気がしていたのだ。 「それに、背が高すぎて、塔の窓からはきっと上手く降りられない」  顎を引いて、胸元に航平から受け取った紙袋を抱きしめた。夏美は、何処から抜け出したいのだろうか。航平はそれを訊く勇気が出ずに、愛想笑いをして夏美の口元を見詰めていることしか出来なかった。  けれどもその謎は、すぐに、最悪の形で、解明されることになった。  始めて夏美に会った日から二ヶ月以上経った。  ある八月の日曜日、相変わらず航平は岡田メルヒェン堂の店番をしていた。街路樹に止まった蝉が大合唱をしていて、とても煩い。いつもなら昼間に遊びに来る夏美も、夕方近くなったというのに来ない。何か急用でも入ってしまったのだろうかと落胆する。ぼんやりとレジ台に肘を突いていると、やがて一人の男性客が来た。 「やあ、久しぶり。航平くん」  戸口の光を殆ど遮ってしまう様な身長の高さ。誰だろうと思いながら会釈をする。すっかり真夏に突入したというのに、きちんとスーツを着込んでいる。古書を物色するでも無く、真っ直ぐレジ台へ向かってきて、一万円札を二枚、会計皿の上に置いた。 「本代。恩を売られても困るんでね」  何のことか分からない。  航平は、ぎょっとするしか他になく、暑さで頭のおかしくなった人間が来たのかとすら思った。 「うちのペットが世話になってるみたいだけど、あんまり手出さないでもらえるかな」 「あの……?」 「今日は夏美は来ないよ。さっき殴りすぎて気絶させてしまったから」  航平は、カッとなって思わず相手の頭をど突いた。品の良い眼鏡が高い鼻からずり落ちた。 「あんた誰だ」 「あれ、忘れちゃったの? 前に注文品を取りに来たことがあるんだけど」  店番をし始めてから、注文の受け渡しなど何件もしている。別段特徴のある顔立ちでは無いためか、航平にはこの男の記憶が残っていなかった。眉をひそめて怪訝そうな顔をしていると、男は眼鏡を直し、 「ペルジネットを飼っているって話は覚えてる?」  と笑った。その、端正な顔立ちが一瞬にして下卑ていくのを見て、航平は既視感に襲われた。そして篠原という名前を思い出した。ああ、あの恐ろしい人だ、と。 「僕のペルジネットは、身長ばっかり高くて色気の無い奴だっただろう。僕に隠れてコソコソ誰かと会ってると思ったら、君じゃない。驚いたよ」  レジ台に腕を突き、篠原は乗り出して航平に囁きかけた。呪文を唱えられている様に、航平は身じろぎ出来なかった。純粋に、篠原が恐ろしかった。そして目の前の男と夏美を結びつけることがどうしても出来なかった。二人は全く不釣り合いなカップルに見えた。特に、篠原の様なインテリを体現した男が、ちょっと背が高いだけの内気な学生と付き合っているということが信じられない。 「正に、事実は小説より奇なり、だね」 「篠原、さん」 「何」 「…………どうして、夏美さんを、撲(ぶ)つんですか」  掠れた声で震える航平がそれだけを言うと、堰を切ったかの様にして篠原が吹き出した。そのまま大いに笑う。途中で、あまりの声の大きさに店に入りかけた客が驚いて出て行った。航平は蛇に睨まれた蛙だ。 「わ、分からないのか! 嫌悪しているからに決まってるだろう!」  自分の笑いに噎せて、それでも尚可笑しそうに、篠原は上機嫌で叫んだ。 「アイツの陰気な所とか、貧相な顔とか、苛々してね、僕の気分を害した罰だよ」 「じゃあ……どうして、付き合ってるんですか」  勇気というものを今まであまり出したことの無かった航平は、膝が笑うのを気にして、全身に力を込めた。篠原は、ふと笑うのを止めて、先程の大声が嘘の様な小声で、静かに答えた。 「他人を束縛して、滅茶苦茶にしてやるというのは、気分が良いものだよ。黙って殴られてくれるから、ストレス発散にもなる」  今度は、勇気というものではなかった。ただの「キレる子供」だ。気分が激昂して、航平はもう一度篠原に手を挙げた。今度は拳で頬を殴っていた。篠原は、体勢を崩し、よろけたが、先程同様特に痛がりもせず、怒りもしなかった。ただ、冷たく不気味に微笑んでいた。 「今日、夏美を殴ったのはね、君が原因なんだよ航平くん」  怒りと憎しみと非現実的な言葉の雨に錯乱しながら、航平がぶるぶると震えているのを尻目に、篠原は鬱陶しげに言い放った。 「塔に閉じこめられたペルジネットが、王子と不義を働いたとき、妖精はどうした?」  飄々と質問してくる篠原に、何の言葉遊びだと苛々しながら、航平は怒鳴る。 「荒野に追放した! 俺のことが不満なら、夏美さんを手放せばいいじゃないか!」 「うん。でもね、ペルジネットは結局それで王子と結ばれたじゃない。僕は、ハッピーエンドにさせる気なんか無いからね。ただの罰を与えることにした。それでいつもより多く殴った」  夏美を守りたいなら、もう会わないでやってくれよ、そうしたら僕も可哀想なペルジネットを殴る回数が減るから。  篠原はそう言い終わるとのんびりと店を出て行った。残された航平は、レジ台に置かれた二万円を憎々しげに握りしめ、唇を噛んだ。  何が起こっているのか、上手く整理出来ずに居た。  昨日まで身近な存在だった夏美が、急に物凄く遠くへ去った気分だった。積み重ねてきた穏やかな恋に似た友情が、崩れた。それは、航平が夏美の傷のことをいつまでも言及せず、いつの間にか慣れてしまっていたことが原因かもしれなかった。  少なくとも、航平はそう思った。  いつも笑顔で帰った後、夏美は篠原に罵られていたのだろうか。  毎週、楽しそうに話す前の晩、首を絞められていたのだろうか。  今日、のうのうと航平が夏美を待っている間、夏美は気絶するほど殴られていたのだ。何も気付かずに、へらへらと夏美を好きでいた自分が、浅はかで馬鹿者だと航平は思った。  茫然自失とはこの事であった。  航平は、その日真夜中になっても店を閉められずに居た。あの雨の日の様に、夏美が対岸から駆け込んで来る気がしたのだった。  翌週の日曜日、航平は祖父に店番を断わって、一人で出かけた。友康は帰って来なかった日曜以降、孫の様子がおかしいことに気付いていたので、何も言わずに快諾してくれた。玄関で靴を履き、思い詰めた顔をして出て行く航平に、 「頑張れ」  と、声を掛けた。航平は驚いて顔を上げ、それから僅かに口の端を上げて頷いた。本当に元気が無かった。  ゆっくりと駅に向かって歩き出す。航平の手には、以前夏美の書いた注文票が握られていた。夏美の住所は、航平の住む町から一時間くらい掛かり、神保町の店は、丁度二人の家の中間地点くらいにあった。  この一週間、何か答えを出せたわけではないが、そう悩んでいる間にも夏美が篠原に暴力を振るわれ、ペットだと言われているのだと思うと、航平は立ち止まっていることが無意味に感じられた。とにかく会って、話を聞こうと思った。昨夜、携帯電話に掛けてみたが、着信拒否されていた。恐らく、篠原からもう話は聞いている筈だった。  篠原と暮らしているのかもしれないと思ったが、注文票の住所を見比べてみると、全く違う所に住んでいた。航平の家よりも篠原の家の方が夏美の家には遠かった。益々、二人の関係性が分からなくなり、航平は混乱した。 「身体じゃなくて心を幽閉しているって、このことだったんだ」  航平は、ぼんやりと納得し、少しだけホッとした。  地下鉄を使って、一時間、夏美に何と言おうと思い悩んでいると、あっという間に駅に着いてしまった。航平は心の整理がつかないまま、駅前にあるワンルームマンションに行き着いた。  一階の表札をぐるぐると見て回る。吉岡、と綺麗な字で書いてあった。深呼吸をして、決心が鈍らないうちに呼び鈴を押す。インターホンが付いていない所為か、夏美は不用心に玄関を開けた。面食らった顔をした夏美が、そこには居た。二週間前よりも随分頬が痩けて見えた。目の下の隈も酷い。その下の頬は、左だけが不格好に腫れていて、彼女はそこに氷水の入った袋を押し当てていた。 「……帰って」  目を伏せてドアを閉めようとするので、航平は慌ててそこに足を挟んだ。見るも無様な姿になった夏美に、憐れみではなく、純粋な畏怖を覚えていた。知らない世界に行ってしまった人間を相手にしている様で、目の前に居る夏美は、自分の知らない夏美だと、航平は感じていた。 「帰ってよ、もう先生から全部聞いたんでしょ?」 「……先生?」  航平は、ぽかんと口を開けて鸚鵡返しした。そう言えば、初めて会った日に、英語の教師だと言っていた気がする。 「私、あの人と付き合ってるの。もう航平くんとは会うなって言われちゃった」  強張りながらも、笑顔を無理して作ろうとするので、夏美の声は震えて聞こえた。航平は夏美の腫れていない方の頬に手を添え、ぐいっと自分の方へ向かせた。 「じゃあ、別れればいいのに。どうしてあんな奴と付き合ってるんだよ」  焦って笑顔が崩れた夏美は、もう殆ど泣きそうな顔で、 「好きだからよ」と、答えた。 「嘘だね」  航平は、微動だにせず、夏美の顔をそっと話すと、その手をそのままドアを開けるのに使った。力ずくでこじ開け、夏美が顔を顰めるのにも頓着せず、ずかずかと靴を脱いで上がった。 「毎日の様に殴られて、何が好きだよ。アイツ、夏美さんのことを玩具みたいに思ってる。夏美さんだって、気付いてるんだろ?」 「良いの、そんなの」  夏美は、出て行く気配の無い航平に諦めたのか、そっと玄関のドアを閉めると、きっちりと施錠した。篠原が来ても入らないようにかな、と航平は思い、でもきっと合い鍵を持ってるんだろうなとも思った。 「……ソファがあるから、部屋に入って。航平くんに分かる様にちゃんと話すから」  夏美は静かにそう告げると、自分が先に立って、ワンルームの狭い部屋を進んだ。モノトーンで統一された簡素な部屋の真ん中に、ソファと座卓が置いてあった。その上に広げられた救急箱を片付け、氷水の入った袋を置くと、夏美はお茶を淹れに台所へ発った。航平は、雲の上に居る様な気分で腰を下ろした。夏美が篠原を許容しているらしい事実に、目が眩みそうだった。  暫くして、心の準備が出来たのか、夏美はアイスティーの入ったグラスを置き、ソファに腰を落ち着けた。半分溶けかかっている氷水を持ち上げ、そっとまた自分の腫れた頬に押し当て、ぽつり、と話し始めた。 「私、中学生の時に、いじめに遭っててね」  俯いた髪の合間から覗く項の白さは病的だ。長い前髪に隠れてしまった表情を伺い知ろうと、航平は必死に首を傾げた。 「遠い高校を選んで入学したものの、怖かったのよね。また同じ三年間が始まるんじゃないかって」 「……高校では」 「うん。いじめられなかった。でも、それは先生のお陰だったの」  夏美が、先生、と口にするだけで、航平の腹の下の方に鉛が溜まっていった。嫉妬と言えば軽薄な感情だが、それはもっと禍々しく、どちらかと言うと純然たる憎しみに似ていた。 「背が高くて目立つから、私は入学当初から少し浮いてたの。教室の後ろの方で、もう仲良くなった女子たちが内緒話しているのが聞こえて、男子はもっと不躾にジロジロ見てきた」 「羨ましいから、遠巻きにしちゃうんだよ」  おべっかを遣って航平が口を挟む。夏美は、曖昧な微苦笑で息を吐き、顔を上げた。真横で夏美を覗き込んでいた航平の目に視線をしっかりと合わせ、逸らさずに切り出す。 「先生は、クラスに入ってきて最初に教壇の上で、私に話しかけてきたの。みんなの前で、私に向かって」 「何て?」 「あっ、受験の時に見た子だ。物凄くタイプだったから覚えてる。って」 「何だよそれ」  素直に航平は吐き捨てた。夏美は今度はしっかり笑って、それから航平の上の虚空を見詰めた。そこが、本来の夏美の視点の高さであった。 「みんなは大笑いしたわ。でもそれは私を馬鹿にした訳ではなくて、先生の戯けた喋り方で笑ったの。嬉しかった。私は可愛くないのに、先生がそう言ったから、その後みんなは私を可愛い子として扱ってくれた。一度みんなに溶け込んだ私は、その後いじめに遭うなんてこともなく平穏に過ごすことが出来たの」 「別に篠原が言ったことは関係なかったんじゃないの」 「ううん。あるよ、航平くん。先生が言ったことってクラスの雰囲気をガラッと変えてしまうから。それに先生は私を、タイプだって言った。背が高い女を好きな男も居るんだって暗に言ってくれたのよ」  それは考えすぎだろうと、航平は内心歯噛みしていた。確かに篠原は、入学当日から浮いてしまっていた夏美を、担任としてクラスの中に溶け込ませようとしたのかもしれない。けれども夏美は篠原のことを贔屓目に見過ぎていると、航平は不服そうに顎を上げた。夏美の視界に入らない自分が不満だった。 「二年生に上がった頃、私は先生に告白したの。先生は、驚いていたけど、いいよって受け入れてくれた。それから二ヶ月くらいは先生はすっごく優しかったの。本当に」  夏美はうっとりする反面、懐かしくて恋しい思い出を必死に手繰り寄せようとしていた。 「それよりさ、夏美さんは、みんなの前で褒められたっていうだけでアイツを好きになったわけ?」  恨みがましく聞こえてしまうかもしれないと思いながらも、そう聞かせようと気持ちを込めながら、航平は呟く。夏美は目を閉じた。それから憂鬱そうに肩を上下させ完全に温まってしまったビニール袋を座卓に置くと、もう一度航平へと視線を向けた。 「一度気になると、それから些細なことが降り積もって恋になるのよ。何か大きな事件が起こらなくたって、惹かれることはあるわ。人を好きになるってそういうことでしょう」  夏美は怒っていた。語気が焦燥を孕んでいた。 「……そうだね。ごめん」  航平は素直に謝った。自分も夏美に惹かれていったことに何か大きなきっかけがあったわけではない。偶然出会い、ふとした仕草や言動に魅了されていった。  恋なんて、そんなものだ。  航平は乗り出した。 「でも、それなら人を嫌いになるのだって、同じ事が言えるんじゃないの?」  何を言われたのか分からない振りをして、夏美は眉を寄せた。美しい鼻梁が崩れ、人間らしい顔が、困惑を露わにする。しかし航平は続けて捲し立てた。 「じわじわと、嫌いになってしまう人だって居るよ。一度好きになったからといって、一生そうでなくてはならない訳じゃない。かなしいことだけど、降り積もって惹きつけ合う心があるのなら、些細なことで離れていく心だってある。それは自然なことじゃないか」  口の中が乾いて、酸っぱくなる。航平は、どうしてか自分が辛いことを言われている錯覚に陥り、涙腺が緩みそうだった。頬の上の方が熱くなり、興奮の所為で赤く染まっていくのが分った。  それが恥ずかしくて、下を向く。いつの間にか握られていた拳が、膝の上で白くなっているのが見えた。 「なのにどうして、大きな事件が起こるまで、嫌いになるのをこらえようとするんだよ」 「こらえてなんか、ない」  航平の剣幕に圧倒されていた夏美が、初めて口を開いた。意地になって抗う子供の様だった。その夏美の言い方に、篠原への執着が、未練が見えて、航平は顔を上げられなくなった。いよいよ涙が込み上げてくる。 「だって、夏美さんの好きになった人と、真実の篠原は別だったじゃないか。優しくもない。暴力を振るう。初めは優しかったって言うけど、そんなの本当は初めから夏美さんのことなんか好きじゃないんだよ」 「やめてよ、航平くん」  夏美の声は、殆ど悲鳴の様だった。か細く、萎れていて、それはかつていじめられていた時や、篠原に辛く当たられた時に出す声と同じだった。 絶対的な「正義」に対する恐怖である。  「正義」はいつだって強者の匙加減で決まる。夏美にはずっと、その匙を振るう機会が与えられてこなかった。未知の存在だ。それが今、また立ちはだかって自分を否定しようとしてくる恐怖。  冷静になれば航平にも十分に判断できる筈であった。けれども彼は、冷静では無かった。 「俺の方がずっとずっと、夏美さんを大事にしてあげられるのに、黙って見てろって言うの? 好きな人が殴られたり蹴られたり罵られたりしてるのを、のうのうと指を銜えて見てろって言うのかよ」  航平は激昂して立ち上がった。悔し涙が眦に溜まっていたが、そんなものは最早どうでも良かった。夏美の気持ちは此処には無い。夏美は、未だ、篠原という男を捨てきれずに居るのだ。 「俺、夏美さんが分からない」  ソファに腰掛けたままの夏美を見下ろす。初めて見た彼女の旋毛は、柔らかな髪に覆われ、とても綺麗だった。その髪の毛を僅かに震えさせ、夏美も答えた。 「私だって、航平くんが分からない」  夏美は突然の航平からの告白に戸惑って居た。しかしその言葉は、航平には絶縁状の様に思えて、哀しかった。力が抜けて、もう一度腰を落とした。言葉は自分に返ってくるのだなと脳裏で思う。そのまま暫く二人は無言でいた。  言葉は自分に返ってくる。  航平はその事ばかりを考えていた。些細な事で離れていく心、それは自然なことだと自分は言った。  けれども、例えば自分が夏美と相思相愛になり、やがて夏美から心が離れてしまった時に、同じことが言えるだろうか。何とか相手を傷つけなくて済む様に自分の心を誤魔化してしまいそうだと、航平は自嘲気味に笑った。  そして気付いた。  夏美は自分を騙しているのではない。夏美は篠原を騙しているのだ。大好きだった篠原を、もう好きではなくなってしまった事実から何とか庇おう、どうにかして守ろうとしているのだ。篠原は全く夏美のことを愛してはいないというのに、夏美は相手の気持ちを傷つけまいとすることで、相手からの好意を信じていられることが出来たのだ。  航平は、光を得た気分だったが、直ぐにまた落ち込んでいった。  それに気が付いたからといって、何が出来るのだ。 「どうしたって、夏美さんは篠原のことが大事なんだもんね」  思わずそう、口に出していた。夏美は、少しだけ身じろぎして、それからそっと航平を伺った。 「前に言ってたね。夏美さんもペルジネットみたいに救いだして欲しいって」  彼女は塔ではなく、高い上背の中に閉じこめられていた。身長の高さという劣等感が彼女を盲目にし、その隙間にするりと入り込んだ妖精が篠原だった。 「でも、俺は王子様にはなれない。だって、夏美さんはそれを求めていない」 「ううん、違う! …………本当は、逃げ出したい」   夏美は、飛びつくような速さで、膝の上で固く握りしめられている航平の手に手を重ねた。 「航平くんと知り合って、毎週会えるようになって、私、幸せだった。新しい生活を始められた様だったの。何にも支えが無くて、先生の良いなりに生きてきたけど、航平くんが私を待っててくれて、次の日曜日も会おうと約束してくれたから、私は毎週堪えてこられた。先生に殴られても一週間経てば、あなたに会える」  夏美は、航平に添えた手を、ゆっくりと戻し、左手は腫れた頬に添えられた。 「それだけで、充分私を救ってくれてたんだよ」 「…………それで、満足なの?」  航平は、手に込めていた力をゆっくりと解放した。白くなっていた間接がゆるゆると染まり、血が通うその様を眺めながら言った。 「塔から連れ出さなくちゃ、意味が無いんだ。篠原は、夏美さんを追放する気が無いって言ってた。ペルジネットの話みたいに、追放された者同士が奇跡的に巡り会うっていう展開は望めそうにないよ」  航平は真横に居る夏美ではなく、窓から見えるベランダの先に、青く澄み渡った大空を見ていた。部屋から一歩出た世間では、今日も何の変哲もない日々が過ぎている筈なのだ。自分たちも、そこへ行きたい。何者にも束縛される謂われは何処にもないのだ。 「篠原を警察に突き出すことだって出来る。何処か遠くに二人で逃げることだって不可能じゃない。でも、夏美さんが決めたことでなければ、意味がないんだ」  今度は「正義」を振りかざす強者としてではなく、しっかりと冷静に航平は喋ることが出来ていた。夏美も、落ち着いた様子で話を聞いている。 「夏美さんが、優しかった頃の篠原を忘れられないなら、どんなに苦しがっていても、俺は夏美さんを救うことが出来ない。でももし、夏美さんが俺に助けを求めているなら、今すぐここから解放されたいと思ってるのなら、俺は、あなたを抱えて塔から飛び降りるよ」 「私は――――」  夏美が口を開いた瞬間、ガチャガチャガチャッと強い金属音が部屋に響いた。ぎょっとして二人で音のした玄関へ目を向けると、ドンドン、という音と共に 「おい、夏美」  と、男の声がした。驚いて、二人して立ち上がった。「先生」と、夏美が呟いた。 「合い鍵は?」航平が低い声で囁く。 「持ってる」と、夏美はもっと小さい声で答えた。肩が震えている。航平と会っていることがバレたら、どの位酷い罰を受けなければならないのだろうか。そんな権利が、どうして篠原にあるのだろうか。夏美は腹の中でパセリを欲した訳では決して無い。何の業も無いというのに、どうして夏美が撲たれなくてはならないのだ。  航平は憤りのあまり立ち眩みした。篠原が合い鍵を差し込む音を聞きながら、今度は大きな声で夏美に問いかける。 「夏美さん、俺は今すぐにでも夏美さんを連れ出して、そのほっぺを治しに病院に連れて行きたい。荒野へ出たい。夏美さんは、どうしたい?」  ガチャッとドアが開いた。ワンルームマンションの構造上、玄関から部屋までは一直線で良く見通せた。篠原と航平の視線がピタッと合って、篠原は一瞬たじろいだ。そして、猛烈な勢いで部屋の中へ踏み込んでくると、怒鳴った。 「お前ら……何してんだ!」  血相を変えた篠原は、言葉遣いまで荒々しく別人の様だった。航平は、どんなに格好をつけても、この男が心底苦手であった。高校生の航平から見れば、丁度学校の先生と対峙しているのと同じことだった。ろくに反抗期も無かった航平には、生理的に合わないことをしている自覚もあった。それでも、 「先生、私…………」  夏美が隣で、もっと大きな勇気を奮っていた。畏怖に震える華奢な手が、そっと航平の汗ばんだ拳に触れた。 「何やってんだお前、二度と会うなって言っただろうが。早くそいつを追い出せ!」  篠原が着ていた涼しげな夏用スーツの上着を、ひったくる様にして脱ぎ捨てた。ネクタイを緩め、投げ散らかす。夏美の前では、インテリの皮を脱ぎ捨てるのが常なのだろう。夏美もその行動には特に驚いた様子は見せない。ただ、航平が恐る恐る開いた指を、ぎゅうと握って叫んだ。 「私、もう先生のことを好きでいられない! ごめんなさい」  航平は、その衝撃に堪えるかの様に、少しだけ目を瞑った。しかし怒り狂うかと思って居た篠原は、予想に反して、落ち着いていた。意味が分からないという顔を暫くしていたが、やがて、航平が初めて会った時の様な、爽やかな笑顔を浮かべ、一歩、また一歩と二人に近づいてきた。 「そんなこと言わないでくれよ夏美。先生、これからはもっと優しくするから。ごめんな」  穏やかな声だった。腸の煮えくり返る状況の中で、これほどまでに自分を演出出来る篠原を、航平は気味悪く感じていた。しかし、夏美はこの篠原を何年間も切望していたのではなかっただろうか。何を感じただろうかと夏美の方を一瞥する。  夏美は、それに応えるように、航平の指ではなく、今度は手をしっかりと握りしめた。 「先生、もう駄目なの。ごめんなさい。私一人だったら、きっとそんなこと言われなくても先生とずっと一緒に居たと思う。でも、もう一人じゃないから!」  航平は思わず夏美の手を握り返した。別離を言い渡された篠原よりも自分が感極まって泣いてしまいそうになりながら、悪い妖精を気丈に睨み続けた。 「……哀しいなあ。そんな薄情なこと、夏美から言われるとは思わなかった」  本音なのか建て前なのかは判別出来ない。篠原は何やらスラックスのポケットに右手を突っ込みながら、情けない声を出して、また一歩、一歩と近づく。どんどん篠原は部屋へ踏み込んで来るので、その分二人は、じりじりと窓際へ追いつめられていった。 「そいつ、高校生だぞ? 夏美は大人っぽいから、三つも年下の男なんか合わないよ。しかも一番気にしてた身長が、お前よりも低いんだぞ? きっと後悔する。な、戻っておいで」  篠原が更に迫る。踏み出す一歩が大きい。先に夏美が窓に背を付けた。庇う様にして、航平が篠原との間に入る。カシャリと窓の鍵を開ける小さな音が、頭の後ろで聞こえた。 「なあ……夏美、これからは殴らようにするから。先生はお前が居ないと――――」 「俺だって、夏美さんが居なきゃ、困る!」  航平がとうとう重い口を開いて反論した。瞬間、篠原の顔色がさっと変わり、青白い額に血管が浮いた。ポケットから取り出した物は、果物ナイフくらいの大きさの刃物だった。   それを航平が冷静に受け止める前に、大股でズンズン迫ってくる。あと二歩で捕まる、あと、一歩。 「お前なんかに渡してたまるか! こいつは、コイツは、僕の大事な大事な……っ!」  篠原の激昂と同時に、ガラッと窓が開いた。 「航平くん!」  夏美が叫んで、航平の袖を引っ張った。二人は裸足のままベランダを乗り越え、外へ飛び出した。日陰のシダを踏みつぶし、少し遅れた夏美の手を引き、全速力で走った。恐怖はやはり夏美の方が勝っていたのだろう。走り始めてからは遅れることなく、必死に航平に付いてきた。  後ろは振り向かなかった。どちらにとっても、篠原は過去の存在になっていこうとしていた。 「それで、警察は何だって?」  祖父の、興味本位を越えて心配の含まれた質問に、航平は何も言わずに笑顔で親指を立てた。  自分の書斎が未だかつてこんなに落ち着かない空気に晒されたことは無いと思いながら、友康は大仰な溜め息を吐いた。 「航平は、少し変わったな」 「どんな所が?」航平は怪訝そうに尋ねた。 「精悍になったよ。とはいっても王子という柄ではないがね」  声を上げて心底愉快そうに笑う孫を見ながら、友康も釣られて笑顔になった。 「お前の守った夏美さんは、一体どんな子なんだ?」   祖父が今度は好奇心だけでお伺いを立てると、航平は、今度は年相応の子供らしく破顔した。 「ペルジネットとはちょっと違うタイプだと思うな。もっと、か弱い感じがするよ」 「お姫様よりもか弱いんじゃ、お前、相当頑張って守らないと死んでしまうぞ」  友康が驚いて答えた。航平は首を振って「でも、強い。芯は俺より強い」と続けた。  あの時、篠原は何と答えるつもりだったのだろうか。  航平は、部屋に取り残された篠原と、躊躇いなく篠原を置き去りにした夏美の強さを思い出していた。  篠原は本当に夏美を玩具の様に思っていたのだろうか。それとも本心では愛していたのだろうか。 「航平? なんだ、どうした」 「いや……。魔法使いのことを、考えてた」  航平がぽつりと呟くと、祖父はそうか、と静かに言ったきり優しく肩を叩いて部屋を出て行った。それからしばらくの間、航平は残された祖父の部屋で一人、じっと篠原のことを考えた。夏美のことをもしも愛していたのだとしたら、今篠原はどんな気分で警察に居るのだろうか、もしかしたら心は死んでしまったかもしれない。そんなことまで心配になった。  いつか夏美の心が癒えたら、夏美にこのことを話してみようと思う。そうしなければ夏美もきっと心のどこかでいつまでも篠原の呪縛から救われない。  ペルジネットが王子と幸せな家庭を築いた後、荒野の果てで魔法使いの暮らしを案じた様に、いつの日か対峙するときが必ず来る。 「そのときまでに俺は夏美さんを幸せな人にしてあげなくちゃならないよな」  一人ごちて、航平は立ち上がった。  長い時間囚われていた心の闇は、自分が思っているよりもずっと深く昏い。だからこそ自分は、毎日夏美に自由と幸せを感じられる外の世界の光だけを見せたい。 「じいちゃん、俺ちょっと出かけてくる」  居間で新聞を読んで待っていてくれた祖父に声をかけると、「お熱いのう」と空惚けた台詞でおどけながら老眼鏡を外して笑った。  勢いよく玄関から出てスニーカーのつま先をアスファルトへ打ちつける。  夏の終わりの噎せ返る様な風に、起こるはずもない荒野の砂嵐を感じながら、航平は闇の先で待つ孤独なペルジネットの元へと駆けて行った。
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