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拝啓、桜の花々が散り行く頃
寒さに眠る季節も超え、一度全てに終止符が打たれていくこの時期。僕もまた自らの想いに終止符を打とうとしていた。
桜の雨の中、傘も差さずに歩いて行く。いつかの誰かさんと同じようにしてここを歩くなんて、僕も随分と彼女に影響されてしまったらしい。
そんな事を思いながら、鞄から一つのキーホルダーを取り出す。その中には青い花が散りばめられていた。
彼女からの最後の贈り物。
この花って確か……。
「勿忘草。花言葉は『私を忘れないで』」
そんな事を最期に教えてくれたんだっけ。彼女の声を思い出すだけでも、不思議と胸が暖かくなった。
全く、随分なロマンチストなことで。こんな小洒落たメッセージを残さなくても僕は忘れないと言うのに。
差す陽光に目を細め、流るる水の音に耳を澄まし、時より髪を揺らす春風に想いを募らせた。
あれからもう二年が経つのか。
彼女の隣にいたその時ばかりは、一年、一ヶ月、一日、一時間、一分、一秒、一瞬、刹那の時間が、永遠の時の如く長く感じたと言うのに、今となってはそれもあっという間だった。
僕らは否応なしに時の流れに流されてしまっている。多分、もう彼女が知ってる僕とは随分かけ離れてしまったのだろう。
もしまた会うことが出来たのなら、伸びた身長、増えた体重、少し伸びた髭、大人びた顔立ち、その全てに驚かれてしまうに違いない。いや、それとも空の上から見てくれていて、全て知っているのだろうか。
思う所は沢山ある。伝えたい事だって山の様にある。
そんな事を頭で整理しながら、一歩、また一歩と歩んでいく。
本当だったら、バイクで行った方が速いに決まっている。わざわざ、お昼前に家を出る必要だってなかった。
でも、どうしてもあの日と同じ様にしたかった。特に、今年は桜の咲いている時期は短くなる分、壮大に咲き誇っているのだと言うのだから、余計にそうしたくなってしまったのだ。
「ねぇ、知ってる?」
不意に蘇る声。
ハッと周りを見渡してみると、『桜下橋』と書かれた橋の袂に寄りかかる影が視界に映る。だが、瞬きをしてみると、影は消えていってしまった。
あぁそうだ、ここで一旦休憩したんだっけ。
その時に、彼女は桜について一つ教えてくれた。
「桜の花言葉って『純潔』とか『美しい女性』なんだけどね、江戸時代までは『死』を象徴する花だったんだよ」
そう言って浮かべた悪戯な笑みの奥に秘めた本当の表情があった。それはきっと、泣いていたんだ。まぁ、そんなことに気付いたところで今更なのだが。
大きく息を吐くと、また一歩、一歩と踏み出した。
足音は記憶と重なり、街の音は彼女の声に重なる。それでも、歩き続けた。
気付けば、空は茜色を追い出す様に藍が迫って来ている。
四つ目の橋の向こう。桜並木を外れ、すぐの場所。
ここにやってくるのは、これで五回目だ。とは言うものの、一昨日に一度訪れたばかりなのだが。
ここには至る所に、様々な形の石が沢山置いてある。
その中で僕は、『宮下 花奈之墓』と書かれた立派な石が置いてある前に立つ。まだ残る線香の香りが微かに漂い、左右には色鮮やかな菊の花々が供えられてある。
ここは、彼女のお墓だ。
僕自身、正直、こんなところで彼女が眠っているとは思ってない。だが、きっとここで言った言葉は届くのだろうと信じている。
そして、ここにきた理由は、渡すものがあっただけである。
一昨日は三回忌法要を行い、彼女に挨拶はしたのだが、その時に渡せなかった物があった。ただそれだけのために、こうしてきた。だが、それは僕らにとっては大切なことでもある。
鞄から取り出した小瓶に組んできた水を入れ、そこに小さな花を挿す。そして、手を合わせ、目を瞑り、言葉を口に出す。
「返事はここに置いておきます」
それだけで目を開き、荷物を拾い上げ、帰路に就いた。
夕暮れに染まる彼女のお墓には小瓶に挿された胡蝶蘭の花が鮮やかに咲いていた。
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