拝啓、桜の花々が散り行く頃

1/1
前へ
/17ページ
次へ

拝啓、桜の花々が散り行く頃

 寒さに眠る季節も超え、一度全てに終止符が打たれていくこの時期。僕もまた自らの想いに終止符(ピリオド)を打とうとしていた。  桜の雨の中、傘も差さずに歩いて行く。いつかの誰かさんと同じようにしてここを歩くなんて、僕も随分と彼女に影響されてしまったらしい。  そんな事を思いながら、鞄から一つのキーホルダーを取り出す。その中には青い花が散りばめられていた。  彼女からの最後の贈り物。  この花って確か……。 「勿忘草(わすれなぐさ)。花言葉は『私を忘れないで』」  そんな事を最期に教えてくれたんだっけ。彼女の声を思い出すだけでも、不思議と胸が暖かくなった。  全く、随分なロマンチストなことで。こんな小洒落(こじゃれ)たメッセージを残さなくても僕は忘れないと言うのに。  差す陽光に目を細め、流るる水の音に耳を澄まし、時より髪を揺らす春風に想いを募らせた。  あれからもう二年が経つのか。  彼女の隣にいたその時ばかりは、一年、一ヶ月、一日、一時間、一分、一秒、一瞬、刹那の時間が、永遠の時の如く長く感じたと言うのに、今となってはそれもあっという間だった。  僕らは否応なしに時の流れに流されてしまっている。多分、もう彼女が知ってる僕とは随分かけ離れてしまったのだろう。  もしまた会うことが出来たのなら、伸びた身長、増えた体重、少し伸びた髭、大人びた顔立ち、その全てに驚かれてしまうに違いない。いや、それとも空の上から見てくれていて、全て知っているのだろうか。  思う所は沢山ある。伝えたい事だって山の様にある。  そんな事を頭で整理しながら、一歩、また一歩と歩んでいく。  本当だったら、バイクで行った方が速いに決まっている。わざわざ、お昼前に家を出る必要だってなかった。  でも、どうしてもあの日と同じ様にしたかった。特に、今年は桜の咲いている時期は短くなる分、壮大に咲き誇っているのだと言うのだから、余計にそうしたくなってしまったのだ。 「ねぇ、知ってる?」  不意に蘇る声。  ハッと周りを見渡してみると、『桜下橋(おうかばし)』と書かれた橋の(たもと)に寄りかかる影が視界に映る。だが、瞬きをしてみると、影は消えていってしまった。  あぁそうだ、ここで一旦休憩したんだっけ。  その時に、彼女は桜について一つ教えてくれた。 「桜の花言葉って『純潔』とか『美しい女性』なんだけどね、江戸時代までは『死』を象徴する花だったんだよ」  そう言って浮かべた悪戯な笑みの奥に秘めた本当の表情があった。それはきっと、泣いていたんだ。まぁ、そんなことに気付いたところで今更なのだが。  大きく息を吐くと、また一歩、一歩と踏み出した。  足音は記憶と重なり、街の音は彼女の声に重なる。それでも、歩き続けた。  気付けば、空は茜色を追い出す様に藍が迫って来ている。  四つ目の橋の向こう。桜並木を外れ、すぐの場所。  ここにやってくるのは、これで五回目だ。とは言うものの、一昨日に一度訪れたばかりなのだが。  ここには至る所に、様々な形の石が沢山置いてある。  その中で僕は、『宮下(みやした) 花奈(はな)之墓』と書かれた立派な石が置いてある前に立つ。まだ残る線香の香りが微かに漂い、左右には色鮮やかな菊の花々が供えられてある。  ここは、彼女のお墓だ。  僕自身、正直、こんなところで彼女が眠っているとは思ってない。だが、きっとここで言った言葉は届くのだろうと信じている。  そして、ここにきた理由は、渡すものがあっただけである。  一昨日は三回忌法要を行い、彼女に挨拶はしたのだが、その時に渡せなかった物があった。ただそれだけのために、こうしてきた。だが、それは僕らにとっては大切なことでもある。  鞄から取り出した小瓶に組んできた水を入れ、そこに小さな花を挿す。そして、手を合わせ、目を瞑り、言葉を口に出す。 「返事はここに置いておきます」  それだけで目を開き、荷物を拾い上げ、帰路に就いた。  夕暮れに染まる彼女のお墓には小瓶に挿された胡蝶蘭(こちょうらん)の花が鮮やかに咲いていた。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加