ひとのきもち

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ひとのきもち

「ハッピーニューイヤー!!」 テレビから、部屋に響くくらいの大音量で大宰府天満宮にいるリポーターさんの声が聞こえる。ハッと気づいて時計を見ると零時を回っている。今年も仕事をしていたら年が明けてしまった。 プルルルル― ズボンのポケットに入れていたスマホが着信音を鳴らす。液晶画面には「母さん」の文字。応答、を押して、スピーカー設定で通話を始める。 「あんた、今年はいつ帰ってくるとね!?もうみんな集まっとるばい。」 いつも通り元気そうな母さんの声が聞こえる。母さんも、もうじき七十、あと何回このやり取りができるのだろうと考える。 「ごめんごめん、まだ家なんだ。あと一時間くらいしたらそっちに行くよ。」 真剣なことを考えたが、そのトーンで答えるのは照れくさくて、いつも通りのくだけた口調で返す。家を出る準備をしながら、支度をする。母さんからの電話は切れることがない。 「今年は年越しそばに大根おろし入れてみたんよ。あ、あんた、海老天はいるん?」 母さんの作る年越しそばには、毎年海老天が乗っている。でも、一人二尾までで、実家に集まる子供たちはいつも不服そうにしている。自分も子供のころは海老天がみっつ欲しくて堪らなかったな、と思い、残念そうに二尾の海老天を食べる甥っ子姪っ子の顔が浮かぶ。 「いや、今年はいいよ。健太とか、もう八つになるだろ。健太に僕の分、あげてよ。」 兄の息子の名前を出す。確か一昨年辺りに小学校に入学したはずだから、今年で八つになる。食べ盛りだろう。部屋着のズボンを一応、ジーンズに履き替えながら言う。 「健太君ねぇ、実はまだ来てないのよ。お嫁ちゃんが一人で面倒見てるらしくて…。お兄ちゃんは来てるんだけどね。」 と母さんが困ったように言う。なぜ、兄さんだけ実家に来てるんだ。いやまぁ、美希義姉さんだけでうちの実家にいるのもどうかと思うが。 「どうしたん、なんで兄ちゃんだけ来とん。」 思ったことをそのまま返してみる。 「それがね、なんだか健太君、最近癇癪起こすようになったらしくて、ここに来るのが嫌なのか、駄々をこねてるそうなの。」 それをなんで義姉さんにだけ任せてるんだ、と兄さんに若干の怒りを覚えながらも、へぇ、と返す。 「どうする?海老天、愛菜ちゃん辺りにあげる?さっきから欲しそうにしてるんだけど…。」 電話口で、これはおじちゃんのだからダメ、と愛菜ちゃんに言う母さんの声が聞こえてくる。「じゃあ、愛菜ちゃんに一尾あげといてくれ。残り一尾は健太君の分だ。」 まだ来てないとの話だったが、アレルギーがあるとかは聞いてなかったので、健太君に一尾残す。 「わかった、母さんそろそろ、正月番組観たいから切るわね。」 ちょうど羽毛のジャケットに袖を通したところで、母さんからの電話は切れた。僕はスマホと財布と家の鍵を持って、ジャケットを着ていてもまだ肌寒い外に出る。実家は歩いて三十分のところなので、散歩がてら歩いて向かう。両側に緑の生い茂る土手がある道を抜けると、ふっと、深夜で少し気味が悪いような、冷たい海風が頬を撫でる。昔ながらの、少し古びた白壁の工房の横を通ると、防波堤が見えてくる。冷たいコンクリートの防波堤の上に手をついて、年々重くなる体を持ち上げる。この、実家への近道を通るたび、自分の老いを感じる。もうすぐで満月になりそうな月を町の方に見ながら海沿いを歩く。静かな浜辺に、ザッザッザと、自分の足が砂を踏んで沈む音だけが響く。十分ほど歩くと、実家にまっすぐ繋がる道がある辺りにやってきた。ちょっとして、いつも目印にしている、防波堤の足元に貝殻で描いた、消えかけの相合傘が街灯に照らされて見える。ここから、階段を上って防波堤を越えれば、実家まであと少しだ。防波堤の上に腰掛ける二つの影が見える。近づいていくと、それが義姉さんと健太君であることがわかった。健太君は去年より大きくなっていて、子供の成長は早いな、と感じる。 「お久しぶりです、お義姉さん。健太君も、久しぶりだね。覚えてるかな?お父さんの弟の、純一おじさんだよ。」 驚かせないように、でも海風に持っていかれない程度の声で挨拶をする。 「お久しぶりです、ほら、健太もご挨拶して。」 ぺこりと頭を小さく下げて、健太君に挨拶を促す美希さん。健太君はその声が聞こえないかのように、海を見ていた。 「ごめんなさいね、純一さん。」 美希さんは小さくなって謝る。ちょっと考えて、僕は、海を見つめる健太君の隣に体操座りで座る。健太君はちらっとこちらを見て、すぐに海の方に視線を戻す。 「健太君、何か見えるの?」 僕は、美希さんに聞こえないくらいの小さな声で隣の健太君に向かって言う。 「海。」 とだけ答えて、健太君は海を眺める作業に戻る。 「そっか、楽しい?」 僕はまた健太君に問うてみる。 「うん。」 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で健太君の返事が返ってくる。視線は相変わらず、海に向けたままだ。僕は立ち上がって、健太君の後ろで立って海を眺める美希さんに話しかける。 「寒く、ないですか。」 美希さんは少し驚いたような顔をしていたけど、 「大丈夫です。」 とだけ返す。暗くてよく見えないけど、その姿はとても、寒くないなんて言える状態ではなく、自分の上着は健太君に着せてしまったようだった。手と手を擦っている音が聞こえる。美希さんの、女性もののコートを着て、相変わらず海を眺める健太君と、その健太君を悲しそうな目で見ながらぼーっとしている美希さんを見て、僕は上着を脱ぐ。ジィーッとファスナーを下げる音が響く。音に反応してこちらを見る美希さんと、音の正体が僕だとわかってすぐに目線を戻す健太君。 「義弟の上着なんて嫌かもしれませんが、これで我慢してください。女性が体を冷やしちゃだめですよ。」 そう言って、自分の上着を美希さんの肩にかける。美希さんは、小さく会釈をして 「ありがとうございます。すみません、お言葉に甘えて。」 と言って、美希さんは僕のジャケットに細い腕を通す。 「何時間ここにいるんですか?」 海を見る健太君を見ながら美希さんに聞く。 「今は何時ですか?」 と聞いてくる美希さん。スマホを取り出して画面を見ると、液晶画面に映るアナログ時計は一時になろうとしていた。 「一時ですね。」 と画面を見せながら答える。 「八時半からなので、七時間半くらいでしょうか。」 と言う美希さん。 「兄貴は何してるんですか。」 と少し怒りを感じながら尋ねると、 「健太が癇癪を起してうるさいから、静かになってから来いと言って先に実家の方へ行きました。健太が大人しくなるまで実家に行けないと思って海に連れてきたら、思いの外、ハマってしまって…。」 僕が何か言おうとしてるのを察したのか、すぐに 「私の教育がいけなかったんです。年が明ける前に、お義母さんに健太の顔を見せてあげたかったんですけど。」 と申し訳なさそうに言う美希さん。小さい体がさらに小さくなってしまう。 「失礼ですが、健太君は何かあるんですか?」 本当に失礼を承知で、問うてみる。美希さんは驚いていたけど、こちらの問うていることがわかったらしく、 「病院では発達障害じゃないかって言われました。でも、健司さんは、しつけの問題だって言って…。」 と答える。何かをボソボソ言っているが、だんだんと声が小さくなっていき、聞こえなくなる。 「あぁ、なるほど。美希さん、知ってました?だから、兄貴は僕のこと、嫌いなんですよ。」 そう、笑って言って、再び健太君の隣に座る。 「健太君、そろそろおそばを食べに行かない?」 聞いてみるが、健太君は海を見つめたまま、何も答えない。 「海、好き?」 静かに聞いてみる。ちょっと手がピクッと動く。確か、兄貴は内陸部に住んでたはず…。と記憶を漁る。少しして、ふと、頭だけ後ろに向けて 「美希さん、健太君は図鑑とか、そういうの好きじゃないですか?海の。」 と聞いてみる。美希さんは健太君の方を見ながら 「海に限ったことじゃないですが、図鑑を見るのは好きです。健司さんが教育用にって健太にタブレット端末を買ってきても、図鑑に出てきた動物とか、物とか、人の名前を調べるのに使ってしまって…。」 と美希さんが言う。それなら…と、幼少期読み漁った図鑑を思い出す。僕なら…と少し考えて、 「イギリスの正式名称って知ってる?」 と健太君に話しかける。健太君は少し驚いたような目でこちらを見て、こくんとうなずいた後、 「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」 とスラスラと答える。当たりだ。自分と違うタイプだったらどうしようと考えたが、杞憂だったようだ。 「すごいね、当たりだ。」 笑顔で健太君の頭を撫でながら言う。健太君は少し得意げな顔をして、自分の、体操座りをした足の下からタブレット端末を出す。画像フォルダを開いて、 「おじさん、この動物の名前知ってる?」 と聞いてくる。写っているのは… 「ニューギニアヒメテングフルーツコウモリ」 僕は、子供だからという遠慮をせずに答える。すると、やっぱり、健太君はぱぁっと笑顔になって、 「おじさんもすごいね!」 と言ってきた。パパはこれ、答えられないんだよ。と手元の画像に視線を落として独り言を言う。僕はスマホを取り出して、子供のころ名前を覚えた、あの動物の画像を探した。あった… 「健太君、この動物の名前は?」 画像を見せながら、聞いてみる。健太君はスマホに映った画像を見てハッとして、何やら画像フォルダを漁り始める。 「これ、チャップマンシマウマ!」 シマウマと健太君が写った画像を僕に見せながら、見事に正式名称を当ててくる。 「パパ…、お父さんがね、この間、動物園に連れて行ってくれたんだ。いっぱい、いろんな動物が動いててね、すごかったんだよ。」 と目をキラキラさせながら言う。兄さんも一応子育てに参加してんだな、と美希さんの方を見ると、少し悲しそうな目で健太君を見ていた。僕はその目の意味がわからず、健太君との会話を続ける。 「そっかぁ、よかったね。健太君は歴史の人物とか興味ある?」 健太君はまた、目を輝かせて、 「あるよ!」 と言って、画像フォルダを漁り始める。 「ねぇ、健太君。写真をさ、こんな風にアルバムにまとめたら、探しやすいんじゃないかな。」 そう言って、自分のスマホの画像フォルダのアルバムを見せながら提案してみる。自分のタブレットの整理されてない画像と、僕のスマホの画像とを見比べて、 「おうちに帰ったらやってみる。」 と自分のフォルダを見ながら健太君が言う。僕は、うん、と答えて、健太君が目的の画像を探すのを待つ。時計は、一時半を指そうとしていた。美希さんだけでも暖かい実家に行かせてやりたいが、今母親がいなくなったら、健太君は不安に思うだろう、そう思って、美希さんに心の中で少し謝った。もう少し話さないと、健太君は多分、付いてきてくれないだろうから。 「あった、おじさん、この人、誰だと思う?」 そう言って見せてきたのは、有名な発明家の… 「アルベルト・アインシュタイン」 やっぱり、健太君は僕に似ている。興味を持つところが幼少期の僕にそっくりだ。健太君は 「あたり!」 と言って、次はね、次はね、とまた画像を探す。今度はさっきよりも早く見つかった。 「おじさん、これは?」 健太君が画像を指さしながら、不敵な笑みを浮かべている。舐めるなよ、と思いながらも、本名の最後の方が思い出せない。少し考えた後に、 「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ」 と答える。なんとなく、違う気がする。健太君はニヤァと笑った後、 「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソだよ、おじさんのはネポムセーノが抜けてた。」 と言った。悔しい…。時計を見ると、もう十五分も経っていた。そろそろ、美希さんを実家に連れて行ってあげなきゃ。そう思い、健太君に勝負を挑んでみる。 「すごいね、おじさん、忘れちゃってたよ。じゃあさ、次は、円周率で競わない?」 健太君は、意味は分かったようだったけど、首をかしげる。 「競う?」 と聞いてくる健太君。 「二人で、円周率を十桁ずつ言っていく。どちらかが覚えてないか、間違えるまで続ける。おじさんが負けたら、明日、本屋さんで図鑑を二冊、買ってあげる。おじさんが勝ったら、お腹が空いたから、みんなでおばあちゃんのおそばを食べに行こう。」 そう言うと、図鑑二冊の辺りから聞いてなかった様子の健太君は 「いいよ!」 と元気よく答えた。 「じゃあ、おじさんからね。三・一四一五九二六五三五」 「八二一四八零八六五一」 「四四二八八一零九七五」 健太君がえっ、という顔をする。子供のころは自分も、競う相手もいなかったからこの辺までしか覚えてなかったなと思い出す。 「七二四五八七…三?」 と僕の顔を見ながら言う健太君。 「三十七桁目は零だよ、おじさんの勝ちだね。」 と笑って言う。健太君は悔しそうに唇を噛みしめてた。 「すごいね、小学二年生でここまで覚えてるなんて。約束通り、おばあちゃんの家に行って、お腹が空いたおじさんとおそばを食べてくれたら、図鑑一冊分、お年玉増やしちゃおうかな」 とか言ってみる。悔しそうにしていたけど、うなずいて、健太君は立ち上がった。美希さんは後ろで、立ったまま寝ていた。少し肩をたたいて、 「美希さん、実家に行きましょう。」 と言う。美希さんはハッと目を覚まして、自分のカバンを背中に背負った健太君が自分を見ていることに気づき、驚く。 「健太君、女の人はね、長い時間外に出て、体を冷やしたりしたらいけないんだ。明日、健太君が買うのとは別に、体図鑑を買ってあげるよ。だからね、もう、お母さんを長時間外に付き合わせちゃだめだよ。」 そういうと、健太君は不服そうにうなずく。一回負けたという事実が思ったよりも効いているようだ。 「でもね、一人で外に長時間いるのもだめ。お母さんが、健太はどこ~?って心配して探してしまうから。気になったものを見つけたら、見るっていう行動に移す前に、お母さんに場所の写真を送って、ここにいますってちゃんと言おうね。」 健太君が黙ってうなずく。 「あとは、どうしても、どうしても、長い時間見ていたいなぁってものがあったら、おじさんに電話しておいで。一緒に見た後に、また問題の出し合いっこをしよう。」 健太君はうなずいて、顔を上げる。 「次は、円周率覚えてくるから。」 と言う。 「待ってるよ、さぁ、おばあちゃんの家に行こうか。」 三人で、薄暗い道を歩く。田舎だから、街灯も点いている場所と点いてない場所とがまばらにあった。通りがかった公園の、時計の針は二時を指していた。公園から、木造の家を二軒見ながら進んで、実家につく。 「ただいま~」 と中に向かって言う。 「純一!一時間で着くって言ってたじゃない。あんたの分のそばはもう冷めちゃったわよ!自分であっためて食べなさい!」 言いながら母さんが居間から顔だけ出す。僕の隣に美希さんと健太君がいるのを見ると、いったん顔を引っ込めて、コタツから出て、玄関まで来た。 「美希さん、健太君、いらっしゃい。今、おそばを湯掻くからね。」 おばあちゃんの顔になった母さんが笑顔で言う。 「僕と扱い違くない?」 と靴を脱ぎながら言うと 「予定通り来なかった息子より、今まで一人でお守りしていた娘を大事にするのは当たり前だろう」 とピシャリと言われた。それはまぁ…確かに…七時間半も健太君が動かなくて、寒い中一人で美希さんは頑張っていたんだ。仕方がないか。若干、対応の差にもやもやしながらも、廊下を歩いて、洗面台で手を洗う。昔ながらの木造の実家は、以前と変わらず、居間の前を通るときにギシッと音を鳴らす。ガラス戸を開けて、台所に入ると、すでによそってあるそばを見つけた。 「母さん、これ、いつ湯掻いた?」 と二人分のそばを湯掻く母さんの背中に聞く。 「一時間前くらい。あんたが来る頃にあったかいそば出そうと思って湯掻いたのよ。」 振り向きもせず、ぐつぐつと鳴る鍋の方を見ている。ここでようやく、心配させてたことに気づく。健太君のこと言えないな、と反省して 「ごめん、来る途中に義姉さんと健太君見つけて、話してから来た。おそば、ありがとう。」 そう言ってそばを持って台所を出て、行儀は悪いが、右足で戸をピシャンと閉める。いくつになっても親にとっては子供だという。自分も四十路だが、母さんからするとまだ子供のままなんだ、そんなことを考えながら、足で居間の戸を開ける。石油ストーブ独特のにおいがして、暖かい空気が廊下に漏れる。 「遅かったじゃないか、寒かっただろう、ここら辺に座れ。」 と父さんが言う。石油ストーブに一番近い場所には、美希さんと健太君、そして兄さんがいた。 「ありがとう、でも、部屋の中、すごく匂うよ。ちょっと換気した方がいいと思う。」 そう言って、そばをコタツの上に置いて、窓に手をかける。 「開けると寒くなるじゃないか。」 と兄さんが言う。 「体が冷えてる美希さんと健太君はストーブに近いし大丈夫でしょ、兄さんと父さんは少し酔いを醒ますためにも冷たい空気に触れた方がいいんじゃない?」 と言いながら、窓を開ける。瞬間、冷たい空気が中に入ってきて、兄さんと父さんはコタツの中に消えていった。大の大人が情けない…。美希さんはこの寒さにずっと独りで耐えてたんだぞ、と思う。 「おそば、おまちどうさま」 と言いながら母さんがおぼんを両手で持って、足で戸を開け入ってくる。二人の前に湯気が上るあつあつのそばを置いて、 「召し上がれ。」 と言って、母さんは窓の方へ来た。 「私もそろそろ換気が必要だと思ってたのよね。」 と言って、僕よりも容赦なく窓を開けて回る。高いところは僕が開けてたから、母さんは低いところにある窓を開けて回った。 「これ、いつまで?」 とコタツの中から兄さんが聞いてくる。 「十分くらいかな」 とコタツに入りながら僕が答える。兄さんは嫌そうな顔をして、コタツの中に戻っていった。 「あの、純一さん、おそば、私のと交換しましょう、まだ口付けてないから…。」 と美希さんが自分のそばを差し出してくる。 「いやいや、それを食べたら僕が母さんに怒られちゃうから。一人で、寒かったでしょ。母さんのそば美味しいからさ、熱いうちに食べてやってよ。」 と、それを断る。でも…と言っている美希さんに、母さんが 「純一は冷めたご飯食べるのに慣れてるからほっといていいのよ。温かいうちに食べて。」 と言う。姑に言われると、流石に遠慮するわけにはいかなくなったのか、美希さんが諦めて温かいそばを口にする。隣では健太君が三尾の海老天の乗ったそばを食べ終えたところだった。 「あったかい、美味しい。」 そう言って、美希さんは泣きながら食べる。事情を知る僕と、何かに勘づいた母さん。コタツの中には相変わらず情けない男衆がいた。 「健太君、そろそろ寝ましょうね。二階にお布団敷いてあるから。おばあちゃんと一緒に行こうね。」 と母さんが言う。健太君は泣き出してしまった美希さんを見て、僕に向かって 「お母さん、なんで泣いてるの?明日、体図鑑買ってもらったら、お母さんの気持ち、わかるかな。」 と言う。 「難しいね。明日、おじさんと一緒に考えてみようか。今日はもう、寝ておいで。」 と答える。コタツから顔だけ出す兄さん。 「わかった、約束ね、明日一緒に考えてね。」 そう言って、健太君は母さんに手を引かれて二階に上がった。二人が階段を上がる音が居間まで聞こえてくる。 「夜も遅いから、おばけに気づかれないように静かに部屋に行って寝ようね。」 と、弟夫婦と愛菜ちゃんを起さないように、母さんが言っているのが聞こえた。美希さんはずっと、泣きながらそばをすすっていた。窓を閉めて、兄さんと父さんをコタツから出す。二人とも、美希さんを見て酔いが醒めたのか、歯磨きしてくると言って兄さんが部屋を出ていき、水を取ってくると言って父さんが部屋を出て行った。部屋には、美希さんと僕が残される。そばを食べ終わっても泣いている美希さんに、 「ごめんなさい、少ししわがついてるけど。よかったら使ってください。」 と言ってハンカチを渡す。美希さんは軽く会釈をして、ハンカチで涙を拭いた。拭いても拭いても出てくるようだったので、ティッシュを箱ごと渡す。涙を拭いて、鼻水を拭った美希さんは、申し訳なさそうにして縮こまる。 「健太君、お利口さんね。昔話一つ分で寝てくれたわ。」 そう言って母さんが戻ってきた。母さんが開けた戸から兄さんと父さんが戻ってくる。 みんなが、コタツに入って、少しの沈黙が流れる。 「お見苦しいところを、失礼しました。あと、挨拶が遅れてすみません。明けまして…」 と言う美希さんを見て、言葉をさえぎって母さんが 「まだ明けてないわ。今年はまだ、終わってないわよ。」 と言う。ハッキリとした深刻そうな物言いに、僕を含め三人の男衆、美希さんが背筋を伸ばす。 「なんで美希さんだけが健太君を見ていたのか、健司、説明なさい。」 指名されてびくっとする兄さん。 「だって…健太のやつ、癇癪起こすんだよ。そういうのをなだめるのは母親の役目だろ。」 そう言われて小さくなる美希さん。再びシン…としたところに 「誰が決めたとね、そんなこと。」 と、悲しそうな声で母さんが言った。父さんは責めるような目で兄さんを見ている。 「あんたは、何を見て育ったとね。」 みんなの目に耐え切れなくなって、今度は兄さんが小さくなる。美希さんは状況がわからない、といった風に母さんを見ていた。母さんは美希さんの方を向いて 「子育て、楽しいかい?」 と聞く。美希さんは無理やりと言った風にうなずく。 「本当に?」 と母さんが聞く。涙目で、美希さんがうなずく。 「美希さん、ここはあなたの家よ。私はあなたのお義母さん。馬鹿息子より、子育てを一人で頑張ってきた娘の味方よ。」 母さんが言う。美希さんはますます泣いてしまって 「本当は…楽しくなんてないです」 と言った。 「つらかったね。」 と母さんが言う。小さくなっていく兄さんと、父さんと僕はそのやり取りをただ黙って見ていた。 「義実家だから、いい嫁でいよう、いいお母さんでいようって思ってたんですけど、ここに着いたら健太が癇癪を起してしまって…、仕方ないから、健司さんに先に帰ってもらって、私は健太と海を見ていました。」 泣きながら美希さんが言う。 「健司さんは悪くないんです、私のしつけが悪いんです。」 そう言って小さくなっていく美希さん。 「顔を上げて、美希さん。どうしようかね、馬鹿息子への説教は後回しにして、まずは昔話をしようか。」 そう言って母さんは話し出す。 「昔にもね、物事や謎に執着したら意地でもご飯を食べなかったり、お風呂に入らなかったり、取り上げようとすると癇癪を起こす息子を持った母親がこの家にいたの。」 聞いて、驚いたように母さんを見る美希さん。そのまま僕の方を見て…母さんの方に視線を戻す。さっき少し話したからな~と思いつつ、母さんの話の続きを聞く。 「その母親の旦那は、どうしようもないくらい子育てに理解のない人だったの。だんだん、嫁としても母としても働けなくなっていったわ。」 それを聞いて小さくなる父さん。 「息子ともども死のうと考えてたその母親に、お姑さんがね、言ったの。「純一君は将来天才になるね、純一君を産んでくれてありがとね」って。言われて、ずっとその母親は泣いたの。今までつらかったことを吐き出しながらお姑さんの胸で泣いた。お姑さんは「つらかったね、頑張ったね」って言ったわ。」 やっぱり僕のことか、と思いながら、話を聞く。父さんと兄さんは初耳、といった感じで話を聞く。 「お姑さんは、「天才になる素質がある人は凡人とは少し合わないらしいから、純一君は天才になるかもしれないわ」って言って、その母親を、自分の娘のように抱きしめたの。気が抜けた母親は、その胸の中で眠ってしまったんだけど、翌朝、目が覚めると旦那が自分の寝ている横で土下座してたの。眠っている間に、お姑さんから雷を落とされたみたいだった。」 びくっとして、父さんがまた小さくなる。美希さんは黙って話を聞いていた。だからね、と続けて母さんは言う。 「私は、そのお姑さんのようにはなれないかもしれないけど、今から健司にお灸を据えるつもりよ。目が覚めたら全てが終わっていた、っていうのもいいかもしれないけど、今日は大晦日。新しい気持ちで新年、迎えてほしくてね。眠たかったら、健太君は二階の一番手前の部屋で寝ているから、そっちにいっても大丈夫よ。」 そこまで聞いて、美希さんは首を振る。 「最後まで、この場にいます」 と言って。 「健司」 呼ばれて、小さくなる兄さん。 「健司、返事をなさい。」 容赦なく、母さんが言う。 「…はい。」 と兄さんが小さく返事をする。 「今話したのは、お察しの通り、私の昔話よ。純一が小さかった時のね。断片しか言ってないけど、何か思うことは?」 そう問われて、 「健太は純一に似てる。」 とぼそっと言った。 「ありえないくらい、純一に似てるんだ。一度、美希には悪いが浮気を疑ったこともある。でも、純一は正月か盆以外ずっと自分の家にこもってるから、ありえなかった。」 母さんは頷いて、 「あんたは、純一のことを嫌ってたわよね。私が純一にばかり構うから。でも、あなたのそばには父さんがいたはずよ。そうしていたからね。母親恋しいときに私が相手してやれなかったのは悪いと思ってる。でも、私たちの子育てから、何か学ぶことはなかったの。」 母さんが泣きそうな顔で言う。 「だって、母さんたちと違って俺たち夫婦にはまだ一人しか子供いないし…。」 と言い訳をする兄さん。 「学ぶことはなかったのって聞いてるの。」 容赦のない母さん。 「父親も…子育てに協力すべき…?」 と兄さんが母さんの顔色を窺いながら言う。 「協力、じゃないでしょ。誰の子だと思ってんの。」 ピシャリと母さんが言う。 「俺も、子育てに参加すべきだった。」 小さいけど、はっきりと兄さんが言う。 「あんた、私に後ろめたいことあるんじゃなかろうね?今なら許しちゃるけん、全部白状しな。」 兄さんは、考えるけど、思いつかない、と言った感じだった。今まで黙って聞いていた美希さんが声を上げる。 「私、健太が普通の子と違うって気づいて、病院に連れて行ったんです。発達障害だろうって。旦那さんを連れて話を聞きに来なさいって言われました。健太以外にもそういう子はいるらしくて、療育していくんだって言われました。」 兄さんがハッと思い出して、すぐにシュンとする。 「健司、あんた、ちゃんと話聞いとった?」 兄さんが 「今の今まで忘れてた。でも、そんな話された気がする。」 と答える。 「でも、俺だってこの間の休みに健太を動物園に連れて行ったりしたよ。」 とこの期に及んでまだ言い訳する兄さん。ようやく、美希さんが立ち上がった。 「連れて行った、だけじゃない。健太がなかなか動かないから暇だって言って、一時間もしたら自分だけ車に帰ったじゃない。」 美希さんに強く言われて、兄さんはもごもごと何かを言ってる風だった。 「あの後、一日中、私だけで健太を見たのよ!?健太は動かないって言ってたけど、トイレに行くのも不安で仕方なかった。あなた、その時何してた?交代してほしいって頼んだ時、何してた?ゲームよね。あとからログイン履歴見たけど、ずーっとゲームしてたわよね。私からの通知を無視して。健太に何かあったらどうするの!?あんなに大きくなったら女子トイレにも連れていけないのよ!?」 泣きながら美希さんが言う。母さんと父さんは美希さんの訴えを真剣に聞いている。兄さんは、怒られているけど何が悪かったかを理解してない様子だった。 「だって俺、週休二日なんだよ。平日は仕事してんだよ。お前は仕事してないから健太を見て当たり前だろう!?」 と半べそで言う兄さん。 ピシャリ― 兄さんの右の頬から痛そうな音がする。 「美希さん、馬鹿息子がごめんなさいね。」 兄さんを叩いたのは、母さんだった。泣きながら、美希さんに謝る。何が起こったのかわからない、といった顔の兄さんを置いて、母さんが、美希さんに向かって土下座をする。曲がった腰で、綺麗に手をそろえて、精一杯深く頭を下げる。父さんもそれに続いた。慌てて 「頭を上げてください」 と言う美希さん。両親が自分のせいで土下座する姿を見る兄さん。一向に頭を上げようとしない母さんと父さん。沈黙が流れる。美希さんがどうしようもなくなって、僕の方を見てきた。 「母さん、父さん、美希さんも困ってるからいったん頭上げよう。」 僕の声で、ようやく顔を上げる二人。 「年が明けたら、私たちも一緒に、健太君の病院に付き添わせてください。しつけが終わるまで、あなたと愚息を二人きりにはしません。」 そう、父さんが言って、また二人で頭を下げた。 「もちろんです、だから、顔を上げてください、お義父さん、お義母さん」 美希さんが慌てて言う。 その晩はそこまでにして、美希さんは健太君と、兄さんは父さんと母さんの部屋で寝たそうだ。一晩中聞こえてきた母さんの泣き声からするに、多分三人とも寝ていないが。僕はと言うと、みんなが二階に上がった後も居間にいた。居間で一人、昔のことを思い出す。母さんが、僕と死にたいなんて考えていたのは初耳だった。そこまで、母さんを追いつめていたのか。果たして僕に、明日、美希さんの気持ちを考えるという役目はできるのだろうか。そんなことを考えて、少し頭を冷やすために窓を開ける。時計は五時を示していた。冷たい風が頬を撫でる。ふと、昔のことを思い出す。まだ幼かった時の母さんのことだ。 「純一、人の気持ちなんてね、結局は本人にしかわからないんだから。文を読んだだけでわからなくても、気にすることはないよ。」 そう言って僕の頭を撫でる母さん。僕の手には、三十点しか取れなかった国語のテストが握られていた。あぁ、そうか。これが答えなんだ。 「おじさん、起きて、朝だよ。」 コタツで寝てしまったらしい僕を起こしたのは健太君だった。美希さんが後ろで申し訳なさそうにしている。 「おはよう、健太君。昨日はよく眠れた?」 体を起こしながら尋ねる。 「うん、おばあちゃんがね、みにくいアヒルの子の話をしてくれたんだ。」 僕も子供のころよく聞いていた気がする。 「よかったね」 そう言いながら健太君の頭をわしゃわしゃと撫でる。次に弟夫婦が起きてきて、挨拶をする。 「純一兄さん、おはよ。明けましておめでとうございます。」 そう、弟に言われ、 「おめでとうございます、今年もいい年になりますよう。」 と返す。後ろで愛菜ちゃんが、覚えたてのように楽しそうに、たどたどしく明けましておめでとうございますを言って回っている。コタツを弟夫婦と愛菜ちゃん、美希さんと健太君、父さんと兄さん、そして僕が囲む。そこに母さんが 「おはよう!」 と言っておせちを並べ始めた。弟の嫁さんと義姉さんが慌てて手伝いに行く。母さんと父さんの目にはクマができていた。母さんは化粧でごまかしていたが、何年振りかもわからない化粧をしてることで、泣き腫らしてクマのできた目を隠していることは明らかだった。兄さんは何も言わず、魂が抜けたように父さんの隣で大人しくしている。昨夜、酒を飲んだ人達にしじみ汁が出されて、コタツに料理が出そろう。母さんが座るのを待って、みんなで合わせて挨拶をする。 「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」 挨拶をした後は、健太君と愛菜ちゃん優先でおせちを取り分けて、みんなで食べた。愛菜ちゃんは昨日電話越しに聞こえたように、海老が好きなようだった。健太君は野菜以外は満遍なく取っている。器用に野菜を避けて… 「健太君、この中で苦手なものは?」 僕が聞くと 「黒豆」 と即答する健太君。 「愛菜ちゃん、苦手な食べ物は何かな?」 と愛菜ちゃんに聞くと 「くりきんとん」 と返ってきた。僕はふと思い立って、 「黒豆と栗きんとんを食べれたお利口さんにはお年玉をあげます」 と二つのポチ袋をジャケットから取り出してみた。苦い顔をしながらそれぞれ、黒豆と栗きんとんを取る子供たち。 「でもさ、おじさん。昨日、お年玉はくれるって言ってた!」 黒豆を食べたくない健太君が駄々をこねる。愛菜ちゃんは頑張って食べてるみたいだ。 「健太君、おせちには意味があるって知ってる?」 首を振る健太君。 「黒豆にはね、一年間、元気で暮らせますようにっていう願いが込められてるんだよ。黒豆だけじゃない、ここにある料理には全部意味があるんだ。知らないなら、食べ終わってから一緒に調べようか。」 そう言って僕は黒豆を口にする。少し考えて、健太君も黒豆を食べた。 「ごちそうさまでした」 みんなで合掌して、また一年が始まった。 「おじさん、お年玉は?」 という健太君と 「明けましておめでとうございます!」 と言いながら頂戴のポーズをする愛菜ちゃん。二人の後ろではそれぞれの父母がコラッと言っている。僕も、礼儀を知らない頃はそんなだったな、と思いながら、二人に 「明けましておめでとうございます」 と言いながらお年玉を手渡す。何も知らない愛菜ちゃんはその場でポチ袋を開けてしまい、弟に怒られている。健太君は、僕の袖をつかんで 「本屋さん」 と言ってくる。美希さんと健太君を離していいものか、と考えた後、父さんの隣の覇気のない兄さんを見てから、美希さんの方を向く。 「お義姉さん、三時間、か、それ以上になるかもです。健太君をお借りしてもいいですか?」 美希さんには、休養が必要だと思った。 「安心してください、目を離しませんし、トイレに行くときも連れていきます。」 そう付け加えると、美希さんはやっと、うなずいてくれた。 「健太をよろしくお願いします。」 と言って。  実家を出るとき、美希さんから財布を渡されたけど、丁重にお断りした。 「ゆっくり休んでくださいね」 そう言うと、こちらの意図を理解したのか、 「ありがとうございます。」 と言って、礼をした後、居間に戻っていった。健太君が不思議そうに聞いてくる。 「なんでお母さんは付いてこないの?」 健太君の手を引いて歩きながら 「お母さんはね、疲れちゃったから、ちょっとお休みが必要なんだよ。」 そう言うと、 「どうしたら疲れが取れる?」 と聞かれる。疲れの取り方は人それぞれだけど、今はそういうことを言うべきじゃない、そう思って、小さい頃の記憶を辿る。記憶の中で母さんが 「純一の笑顔を見ると疲れが吹っ飛ぶよ」 と言って笑っていた。 「健太君、本屋さんの後に、百円ショップに行こうか。」 そう言うと、 「なんで?」 と聞いてくる健太君。 「お母さんに、いつもありがとうっていうカードを作ろう、材料を買って、おばあちゃんの家でお母さんに内緒で作ろう。それを、健太君が笑顔で渡せば、お母さんもきっと疲れが取れるよ。」 綺麗事かもしれない。でも、実家の、母さんの部屋には、僕と兄さんと弟が小さい頃に作った、ありがとうを込めた手作りのカードが飾られている。 「わかった。」 そう言って、握った手に力を込めてくる健太君。 健太君は五千円のお年玉の半分を使って動物図鑑を買った。本屋で目をキラキラさせていたから、てっきり、全部図鑑につぎ込むものだと思っていた。約束通り、体図鑑と、健太君が欲しいといった植物図鑑も買って、本屋を後にする。正月から、お店が並んだショッピングモールは多くの人でにぎわっていた。健太君を心配したが、人混みは大丈夫な様子だったので、そのまま百円ショップに行く。カードの材料になりそうなものを選んでいると、健太君が買い物かごを持ってきて、商品を次々と入れ始めた。買いたいだけ買ってやるか、と思って、満足した健太君と一緒にレジに並ぶ。お会計は…と言われ、財布を出すと、健太君が 「おじさん、抱っこ」 と言ってきた。手に握っているのは、お年玉の二千円。僕は、健太君がやろうとしてることがわかって、持ち上げてやった。高い位置にあった会計のトレーに二千円を置く健太君。レジのおばさんが、状況を察して、おつりと商品の入ったレジ袋を健太君に渡す。  帰り道、海に面した道で、嬉しそうにレジ袋を振り回していた健太君が突然、足を止めた。 「海を見て帰りたい」 そう言って、僕の手を引いて防波堤の上に上る。深夜に見るのとは違い、眼下には、晴れやかな気持ちにさせてくる景色が一面に広がっていた。 「僕ね、本物の海を見たのは二度目だったんだ。」 健太君がぽつりと言う。 「それで、珍しくて、ずっと見てた。波ってなんであるんだろう、とか、不思議に思って、ずっと考えてた。楽しかった。お母さんはね、僕の後ろでずっと海を見てたんだよ。僕に上着貸してくれて、優しいんだよ。僕がずっと海を見てたから、お母さんは泣いちゃったのかな。」 悲しそうに言う。 「健太君も、もう少しお母さんのことを見てあげたらよかったかもね。」 と僕は言う。健太君は悲しそうにうつむく。 「でもね、お母さんが泣いた理由、僕も考えてみたんだ」 そう言うと顔が上がる。 「健太君のせいでお母さんは泣いたんじゃないと、僕は思うよ。ちょっと、疲れちゃったんだと思う。健太君は悪くないよ。考えてみたんだけど、これ以上は僕じゃわからなかったんだ。きっと、お父さんにも健太君にもわからないと思う。人の気持ちは、その人が感じたものを言葉にして、初めてわかるんだ。お母さんの気持ちは、お母さんにしかわからない、と僕は思う。」 締め方がわからなくて、最後の方はぎこちなくなってしまう。 「お母さんに聞けばわかる?」 と健太君が尋ねてくる。 「わかると思う、けどね、全部をわかろうとしなくていいんだよ。お母さんと健太君は別の人間なんだから、わからない気持ちがあったっていいと、僕は思う。」 健太君が難しそうな顔をして考える。 「検索しても、本を読んでもわからないから、これだけは、これから、健太君が学んでいくしかないんだ。」 そう言って、海の方を見る。 「円周率を覚えるより難しいんだね。」 そう言って、僕の手をぎゅっと握る。 「そうだね、人の気持ちは、円周率よりも難しいね。」 僕は笑ってそう言った。
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