湯気の向こうで

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 「タカシ、起きろよ」  台所から水を使う音がしている。  フライパンに卵を落とす、じゅわっと景気のいい音と、ほんのり漂う味噌汁の匂いも。  冷蔵庫を開けたり閉めたり、電子レンジも朝からフル稼働だ。  でかい背中を丸めて、親父がいつも通り二人分の弁当を詰めている気配。 「タカシー」 「うあぁい」  朝はたいして食欲もないし、あと10分寝かしておいてもらえないものだろうか。  オレは幸せな体温で満ちた布団からどうしても抜け出せなくて、もぞもぞと寝返りを打った。 「朝飯、出来たぞ、タカシ」  襖が開いて、親父が顔をのぞかせた。  白い物が混じりはじめた角刈り頭に三角巾を律儀に巻き、オレが小学生の頃父の日に贈ったエプロンを付けた姿で。   「朝練だろ、遅刻するぞ」 「ん~」 「父さん、今日夜勤だから晩飯は冷蔵庫な」    親父は警察官だ。  生活安全課で日夜、街の平和を守る公務員。  そして独りでオレを育ててくれてるシングルファーザーでもある。 「ほら、時計みて動けよ」 「やばっ」  オレは時計の針を見て跳び起きた。  顔を洗って寝ぐせを直し、先に食べ始めた親父の正面に腰を降ろした。 「夜勤なんだ、今日」 「おう、戸締りして寝ろよ。晩飯、袋煮とおひたしな」 「袋煮? オレあれ、好き」  袋煮とはうすあげを開いて、中にツクネともやしを詰めて楊枝でとめ、甘いダシで煮る親父の得意料理だ。 「そうか、ありがとな。けど、母さんが作る袋煮はもっと美味かったんだぞ」  親父はタンスの上に飾ってある母さんの写真を見ながら言った。  袋煮と甘い玉子焼きは、何度チャレンジしても母さんには敵わない、が親父の口癖だ。 「初めて食った時、美味くて感動したもんだよ」  母さんはオレが2歳の時、病気で亡くなった。  もともと体が弱く、妊娠もリスクだったのに、母さんは頑張った。  心配したり、反対する周囲を押し切って、オレを産んでくれたのだ。 「2年だけでも、一緒に暮らせてお前の世話ができて、母さんは幸せそうだったよ」  と語るときの親父は、切なそうで嬉しそうで、ちょっとうらやましいくらいののろけた顔をするのだった。  うらやましい……。  たしかに抱いて、笑いかけてもらったはずなのに、オレには母さんの記憶は一切ない。  オレにとっての母さんは、写真の中の小柄で優しげな女性であり、親父ののろけ話越しに存在を認識する甘やかな概念でしかない。  母さんて、どんな声で笑うんだろうな……。  と、しんみりなりかけたところで、テレビ画面の片隅の時刻が目に入った。  駅まで自転車を飛ばして10分。  そろそろ出発する時刻だった。 「ごちそうさま、オレもう出るわ」 「気を付けて行けよ、弁当忘れるな」  あわただしく朝食の残りを詰め込んで、オレは席を立った。  タンスの前で写真に手を合わせ、行ってきますと呟いてからあらためて写真の中の女性を眺める。  肩辺りまでのゆるいウエーブのかかったショートボブ、丸いおでこ、片方だけえくぼの寄った頬、なかでも目を引くのは、人をそらさない力強く快活そうなおおきな瞳だった。  美人だな、と面映ゆいながらも素直にそう思う。  美しい、というよりは、小動物みたいで可愛いタイプ。。  こんな可憐な人が、パトロール中の親父に一目惚れして交際をせまり、あれよというまに押しかけ女房になるんだから、事実は小説よりなんとやらだ。  オレにもいつかそんな出会いがあるのだろうか。
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