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  「行ってきます」  オレは二人にそう言って、アパートの玄関を出た。  駐輪場から自転車を引き出して、路上に漕ぎだすと、まだかすかに青みの残る早朝の空気で肺が満たされてゆく。  小学生の登校時間にもまだ早いこの時間帯、駅へと向かう人影はまばらだ。  住宅といくつかの商店が並んだ通りを抜け、大緑川に掛った人道橋を渡って川沿いをしばらく走る。  道は駅の方向へゆるやかにカーブしており、突き当りを左折すれば駅だ。  だが、オレは左折する直前、スピードを落とした。  カーブのどんつきにある、神社の石鳥居の前になにか大きな物が落ちていた。 「狛犬?」  それは鳥居の足元にいつも鎮座している石製の狛犬だった。  どういうわけだか、台座から転げおち歩道のまんなかに横倒しに放置されている。   「いたずらかな」     オレは自転車を降りて、狛犬に近づいた。  見たところ、割れたり欠けたりしている箇所はなさそうだった。 「誰がこんな罰当たりな」  オレは狛犬を抱き上げて、元通りに台座の上に置き直した。  ざらざらと苔むした無骨な手触りの石は、かなりの重量があった。  落ちた時の衝撃で、割れなかったのが不思議なくらいだ。 「助かりました、お若いの」 「わぁ!」  狛犬が礼を言ったのかと思って、オレは思わず声を上げた。 「ときどき、こやつはお役目を忘れて遊びに出掛ける不届き者でしてなぁ」  振り返ると、神社の参道から巫女の恰好をしたお婆さんがこちらに笑顔を向けていた。 「おはようございます」 「台座に戻る前に夜明けが来たのでしょう、あんな場所で寝たりして」    本気とも冗談ともつかない朗らかな笑顔のまま、巫女さんはつづけた。 「はぁ……」 「あなたが元に戻してくださって、本当に助かりました。なにせ、重たくて」 「割れなくてよかったですね、たしかに重かったです」 「力がおありですね、なにか運動でも?」 「柔道部なんです」  今は高校の柔道部に所属しているが、物心ついた頃から親父と一緒に稽古に通い始めた。 「そうでしたか、鍛えておられるんですね」 「今日もこれから朝稽古……あ!」    慌てて腕時計を見る。  電車に間に合うかギリギリの位置に長針がいる。 「あの、遅れそうなんで失礼します」 「では、感謝のしるしにこれをお持ちください。あなたの心からの願いを一つ、叶えてくれますよ」  慌てるオレの手に、巫女さんがお守りを握らせてそう言った。 「ありがとうございます、それでは」  まさか巫女さんに、要らないとも言えず、オレはその黒地に赤い糸で『願』と刺繍を施したお守り袋を受け取った。  それから急いで自転車に飛び乗り、駅に向かって全力ダッシュ。  発車のベルを聞きながら、きわどい所で快速電車に飛び乗ることが出来たのだった。
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