口癖

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知らんけど、と彼は付け足した。 「そうなの?」 「せやせや、俺はほんまにそうおもてるよ、知らんけど」 知らんけど。 彼のほんまとやらを淡くする、いつも通りの彼の口癖。 ------ その言葉の意味を聞いたことがある。 その知らんけどっていう言い訳にもなっていない言い訳はなんなのと。知らなかろうが知ってようが自分の言葉には責任を持つべきじゃないのかと。 あれは確か付き合ってから割と経った頃。 旅行の計画を全然考えない彼に対して、私は気が立っていた。 どこか行きたいところはないの、と聞いた返事が「北海道とかええんちゃう?知らんけど」だった。 貴方の行きたいところを聞いて、貴方の意見が知りたくて、それで出てきた答えが知らんけど。 じゃあ誰なら知ってるの、と私は彼に激怒した。 彼は口を半開きにして、おん、おん、せやなと相槌を打ち、ごめんとぼそっと謝った。 それ以降、「知らんけど」と言う言葉は使わなくなった……と彼は思っていることだろう。 決してそんなことはない。 最初の方は彼も頑張っていて「知らん……こともないけど」なんて思わず笑っちゃう有様だったけど、数ヶ月もすると「知らんけど」はいつも通りの「知らんけど」に戻っていた。 いつだったか、テレビで虐待の問題が議論されていた時「虐待する親はもうさっさと死んだええねんな……知らんけど」と彼は呟いた。 以前聞いた話だが、彼は家族と仲がないそうだ。「良くないとか悪い、じゃなくてないねん。わろてまうやろ?」いつも涙が出るほど笑わせてくれる彼だけど、この時はもう全く笑えなかった。 テレビでは見知ったコメンテーター達が議論を続けている。 親を救うことこそが重要ではないかという女性弁護士のセリフは彼の舌打ちで最後まで聞こえなかった。 「子供を可愛がられへん親なんか……いやまぁ親になったことないしほんまのところは知らんけどさ」 私はそこではたと気づいた。彼は本音を語る時、更に言えば言いにくい本音を語る時に語尾を一つ長くするのだと。 意見を自分から切り離し曖昧にすることで、ようやく言いにくい本音が言える彼のめんどくさくも繊細で優しい人柄。 そんな彼の人柄が、私にはとても魅力的に映った。 -----‐ 彼の魅力は日が経つにつれて一層恋しくなっていく。 パリに旅立つのをやめようか、と思うほど。 「そろそろやろ?」 彼の言葉で我に戻った。彼は大きな電子時計を指差している。 そろそろ飛行機に乗る時間。彼と離れ離れになる時間。 朝の成田空港は私達以外にも人が沢山居た。皆が皆忙しそうで、だからそこしんみりせずに私は日本を立つことができそうだった。 「離れ離れやな、しばらく」 「そうだね、まぁ帰れる時には帰ってくるよ」 「その言い方、飲み会行けたら行くってのとおんなじやん」 私は笑った。彼はあんまり笑ってなかった。 「冗談や、冗談。そらやることやるまで帰られへんわな」 私が本場でピアノを学ぶか悩んでいた時、背中を押してくれたのは彼だった。 「パリって寒いん?」 「そこまでじゃないらしいよ。北緯は高いけど北海道よりかはあったかいって」 「そらええな。誰かさん寒がりやから何年か前に行った北海道旅行のとき終始キレてたもんな」 「あぁ、誰かさん発案の北海道旅行ね」 「めっちゃトゲある言い方するやん。だから俺あんとき北海道って提案するの嫌やってん」 お互いクスクス笑い合ったあと、彼は時間やなと言って手荷物検査の列に向かって歩き出した。 目的のゲート前に着くまで私たちに会話はなかった。 「じゃあ、俺はここで」 列のそばまできて、彼は立ち止まった。 「そうだね」 また会えるよね。メールしてよ。たまには電話もしたいな。ご飯ちゃんと食べなよ。浮気はやだよ。寂しいな。 全ての感情を込めて私はたった一言 「好きだよ」と彼に言った。 彼は目を赤らめて、目を拭って、鼻を啜った。いや、鼻を啜ったのは私かも知れない。知らないや。 「さっきも言ったけどさ」 涙声で彼は続けた。 「お前やったら向こうでも絶対有名になるから」 「ほんと?」 「ほんまやほんま。たぶん向こうでも有名になって、人気出て、あっちの生活が中心になって……あっちで大成功するんやと思う。……知らんけどな」 「ふふっ、知らんけど」 「あぁ、知らんよ。結局やるのはお前やから」 「そうだね、がんばる」 淡くて優しい彼の言葉を大事にしまって、私は列の最後尾に並んだ。
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