ハルコさんの、なつやすみ。【PICNICAMERA 14】

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35歳の夏の朝、ハルコさんは覚醒前のまどろみを楽しんでいる。 夏休み1日目のような青空と、 オホーツク海高気圧のひんやりとした、乾いた風。 頬に、腕に、脚に感じる麻の清潔に乾いたシャリ感と、 優しく保護するように掛けられたタオルケット。 柔らかに差し込む青い夏の空の光に、心地よくまぶたを刺激される。 そろそろ起きようかな、と、ハルコさんは思う。 ハルコさんは、目を開ける直前、自分の口角がキュッと上がるのを感じる。 ● 2週間前、離婚した夫と住んでいたマンションから、 知事公館にほど近い、 1DKの、古いが手入れの行き届いたアパートに引っ越した。 夫は荷物の運び込みを手伝ってくれ、 作業が終わった晩には一緒に蕎麦を食べに行った。 最後までさわやかで、元気で情熱的で、背が高く、骨に響くよい声で、 酒を飲ませれば陽気で、初歩的な英会話には困らず、 休日には友人とフットサルをするのが趣味の、申し分ない夫だった。 そんな夫だったが、ハルコさんは結婚を継続することができなかった。 元気な夫の影響でハルコさんは著しく睡眠不足になり、 500円玉サイズのきれいな丸いハゲを4つ作り、 胃腸が動かなくなったため、食事が取れなくなり、 みるみる乾くようにやせていった。 ハルコさんは限界まで原因究明と結婚の継続を試みたが、 それが限界に達したとき、夫に離婚の意思を告げた。 夫は、承諾せざるを得なかった。 ハルコさんは、決して夫のことが嫌いなわけではなかった。 むしろ、結婚を決意したとき、穏やかに流れる運命の川へ、 モーターボートで繰り出すような、抗い難いものを感じたものだった。 恋というものや、 「この人と」暮らしをかたちづくっていく、ということを、 しみじみ味わい、清々しく覚悟していた。 ハルコさんはこの35歳時点では自覚していないが、 彼女には先天的な特殊能力、と言うと聞こえはいいが、 やっかいな不治の病のようなものを抱えていた。 例えばハルコさんは相対する対象の 「病巣」のようなものをスキャンする能力を備えていた。 少し対象物との関係の距離を縮めていくと、ふと「それ」を感じるのだ。 そして多くの場合、無意識にそれを癒すこととなった。 身体的なトラブルについては緩和的なケアができたし、 ハルコさんの手に負えないときには、しかるべき情報を相手に提供した。 精神的・感情的なマイナスのエネルギーについては、 その闇のようなエネルギーを光にそっと溶け込ませていくことができた。 ハルコさんによれば「なんとなく手が行く」とか「なんかそう言っちゃう」 「よくわかんないけど、そうなった」とかいう無自覚なものであったが、 相手からみると小さな奇跡を目撃しているようなもので、 そのハルコさんの「能力」についてのニーズは高いものだった。 残念ながらこの「能力」はハルコさん本人にはさほど適用されず、 ハルコさん自身が傷ついたり、痛みを抱えたりしたところで、 本人は対処法を得るまでに時間がかかったり、苦労したりすることが多かった。 さらに他者からのニーズが高いせいで、ハルコさんは自身を癒す余裕なく、 ほかの誰かをいつも癒し続けるという悪循環が生じていた。 そのピークに到達したのが、ハルコさん35歳のことだ。 そんなハルコさんを癒すのは、夫には荷が重すぎたのだった。 ● ハルコさんは朝のラジオを聴きながら、 湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れ、 そこに少し牛乳を足して生ぬるいカフェオレのようなものを作る。 「夫クン」は、気持ち悪がっていたな、と思い返しながら。 塩麹で作った鶏ハムを切り、トマトとバジルを添える。 きゅうりをゴロゴロと乱切りにし、 レモン汁とオリーブオイルと黒胡椒を振る。 トーストしたパンにバターとマーマレードをのせる。 バターの塩味が甘酸っぱいマーマレードの合間に感じられる。 サクッと、そしてふわっとしたパン。 香ばしく口中に広がる爽やかな愛らしさに、ハルコさんは満足する。 ハルコさんには、あと2週間ほど「なつやすみ」がある。 それまでハルコさんは結婚後、パートタイム事務員として、 ひたすらデータベースの整理をする仕事をしていたのだが、 離婚を機に一人暮らしに支障がない程度の収入を得るため、 就職活動をし、 「経営情報サービス提供会社の制作部門スタッフ」という、 正社員としての職を得ることができた。 初見の印象はいいが、結局のところ何をする仕事なのかよくわからない。 その仕事開始が、2週間後だった。 体調を崩していたハルコさんだったが、 一人暮らしを始めて3日目で固形物が食べられるようになり、 もう健康的な大人としてのバランスのよい食事を味わうことができる。 ハルコさんは夏の札幌の一角の景色を眺めながら、 今日の予定を確認し、やりたいことに思いをめぐらす。 今日の予定、 それは小樽から「シズオさん」がやってくるというものだ。 ● ハルコさんの父・シズオさんは、かつて東京で児童書の編集者をしていた。 ある夏、シズオさんのある種の療養のために2週間かけて 一家で北海道を巡り、 一家はすっかり北海道の地を気に入ってしまった。 暑くとも乾いた風、どこまでも続く道、遮るもののない青空。 「北海道」の広さを東京の人間が把握するのは難しい。 北海道に住むものすら、それを把握している者は少ないのだから。 シズオさんと、妻・ヨーコさんは「北海道」から、 より詳細な候補地を絞り込み、 娘ふたりを連れて小樽市に引っ越すことになった。 料理上手で社交的なヨーコさんと、緻密で万事が丁寧なシズオさんは、 小樽駅にほど近い場所に、使われなくなっていた古い商家を借り、 カレーと甘味が名物の喫茶店をオープンさせた。 ハルコさんが中学に上がるタイミングだった。 ● 朝食前に回していた洗濯機から、洗い上がった洗濯物を取り出す。 この小さな部屋には南西に向いた広い窓とベランダがついてる。 ハルコさんはシーツだのバスタオルだのを「パン! パン!」と 小気味よい音を立てながら毛足を立ち上がらせてシワをとり、 色と形の構成を考えながら干していく。 干しているそばから、水分の蒸発を感じる。 窓から入る風を、少しだけ冷やしてくれるだろう。 ハルコさんは青空を仰ぎ見る。 シアンの青に、刷毛でさっと掃いたような白い雲が映えた、札幌の空。 心に言葉を、一切置かずに。 仰ぎ見る姿勢は、ハルコさんに深呼吸をさせる。 空の色にふさわしい清々しい空気を、彼女の身体に取り込ませる。 ハルコさんは自分の心身が浄化されるのを感じながら、目を伏せる。 ● 父・シズオさんの店のカレーは、水を一切使わず、 野菜の水分だけでつくるものだ。 スパイスもたくさんの種類を入れ、 インドやスリランカの感じに少し似ている。 店で出しているのはチキンだが「自宅用」はもっぱらラムだ。 かたまりのラム肉が口の中でしっとりホロホロと崩れていくのが、 ハルコさんにとって至福の「オヤジの味」だ。 「いいうちを見つけたね」 シズオさんはハルコさんの小さな部屋を見渡し、満足そうに言う。 「探してくれたんだね」 父にはお見通しだ。 ハルコさんの離婚で、 怒りのようなものをあらわにした人は一人もいなかった。 やや感情的な混乱は見られたし、残念そうな意思表示をしている人はいたが、 みな、ふたりが出したこの結論を抵抗することなく受け入れた。 双方の母親たちは、少し戸惑いながらも、 共通の趣味である「韓流スターの追っかけ」のため、 現在も旅行の打ち合わせをしあうような仲だ。 「僕は彼のことが好きだったよ。いいコだった」 「そうだね」 「ラムカレーはどう?」 ハルコさんは笑顔で返答する。 シズオさんはそれを見て、満足そうに微笑む。 「窓からの眺めもいいし、風の通りもいいなあ」 「うん」 ハルコさんは、柔らかなシフォンの風を、肩や頬に微かに受けながら、 しみじみと父の意見に同意する。 ● ハルコさんに「ミッション」の材料を届け、 娘の新生活の様子を伺いに来た、父・シズオさんと、近所を少し散歩し、 知事公館を突っ切って小樽行きのバスが出る停留所まで送って行く。 北海道の開拓初期から養蚕の地として発展してきた 「桑園」と呼ばれるこのあたりは、知事公館を始め、街に緑が多い。 ニセアカシア、ポプラ、シラカバ。 アカシアの緑の成分を強く含む甘い匂いと、ポプラの飛ばす白いふわふわは、 ハルコさんにとって、夏の原風景のひとつだ。 今を、懐かしいものにするもの。 シズオさんと一緒に、三岸好太郎美術館のあたりから、知事公館に入る。 「近美にはよく来るけど、知事公館の中に入ったのは、初めてだな」 シズオさんは深く息を吸い込みながら、感心する。 「ハーちゃんは、いい住まいを見つけた」 「安心した?」 「安心した」 ハルコさんは、父の回答をほぼ正確に予測していたが、 ある種の礼儀のようなものとして、質問をすることにした。 「……離婚して、ガッカリした?」 父・シズオさんは、娘の発言に驚いたような手振りをしたが、 その実、瞳には驚きの色は一切なかった。 「我が家から男子がひとり抜けてしまったのは、イタいな」 ハルコさんはうなずいた。 「僕は彼が好きだったよ。  ハーちゃんが選んだ人だから、というのは、まあ、ある。  それを抜きにしても、周囲に気配りができて、明るくて、いい青年だ。  ご両親も弟くんも、みんないい人たちだった。よいご縁だったと思う。  ヨーコさんは、あちらのお母さんとケイちゃんと、  埼玉に韓流スターを追いかけに行くそうだしね。  今でもそんな風にしていただけるようなご縁は、君たちが結んだんだよ」 ケイちゃん、というのは、ハルコさんの4歳下の妹、ケイコさんのことだ。 ハルコさんは父の次の言葉を待つ。 歩く足の裏に、芝の柔らかさが優しく伝わる。 「……結局のところ、親だって他人なんだ。第一、僕には離婚の経験もない」 シズオさんは、自分から出てくる意見を検証するような顔をしている。 「人は、その願いが叶うことを無意識のうちに知って、願うんだ」 父は娘に微笑みかける。 「僕は、ハーちゃんが幸せな人生を歩みますように、と願っているだけだね。  幸せの形は、ハーちゃんが見つけて行くものだろう」 ハルコさんは、父らしい、と思う。 見上げた空は、午後の黄味を帯びた青に傾きつつある。 ● 夜。ハルコさんの部屋に吹く風は、昼より少しひんやりとしている。 湯上りのハルコさんは、しばらく扇風機に向かって声を当ててみたりする。 父・シズオさんが届けた「ミッション」。 それは「店のお客さん」から頼まれた手仕事だった。 福祉バザーで「アクリルたわし」を売ることになり、 本来、母・ヨーコさんが請け負うはずの仕事だったが、 「ハーちゃんが今、ヒマで、こういうの好きだから」 という理由で委譲されたのだった。 母・ヨーコさんが作ったブルーベリーチーズケーキを冷蔵庫から出し、 ふと思いついて、 「竹鶴」という名のウィスキーを「ひとなめグラス」に注いだ。 きいろ・オレンジ・きみどり。 あざやかな極太のアクリル毛糸のひとつをとり、 ハルコさんは毛糸をしゅるしゅると伸ばす。 左指に糸をひっかけ、くさり編みで作り目を作る。 かぎ針を持つなんて、いったい、どれくらいぶりだろう? ハルコさんは思う。 それでも指は、すっすと針と糸を動かし、 あっという間に作り目をこしらえた。 あとは、ひたすらこま編みで、正方形になるまで編む。 時折、懐かしい味がするケーキを口に含んで、ねっとりとした食感を味わい、 ひとなめグラスを手に取る。 芳香をたっぷり味わい、舌の上に液体を広げていく。 ハルコさんは、札幌の夏に生きながら、特注のなつやすみを満喫している。
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