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第1章:不思議な本との出会い
1、貴重なもの
しとしとと、いつやむとも分からない雨が、ここ、リーン・バードの町に今日も降り注ぐ。
もう1週間連続だ。
毎日カーテン越しに雨音を聞いていると、鳥が空を飛ぶのが当たり前のように、雨とはやまないで降り続くのが当然のものと思えてくる。
黒のTシャツにジーパンを着た小柄な体格のリルは、ライトブラウンの髪をくしゃくしゃさせていた。
湿ったボロ安アパートの一室の中、ベッドの上で頭の後ろに手を組んだまま寝転がると、とりとめもないことを考え続けるのだった。
「一体なんでこんなに雨が降り続くんだ?おかしいじゃないか。この地域は雨って1ヶ月に4回ぐらいしか普段降らないだろ?1ヶ月に直すと大体週一回ぐらいだ。それが1週間連続で降るとなると、これから降る分の雨が先に降ってしまったわけだから、計算するとえーと…」
今後7週間は雨が降らないのかな、なんて思ったりする。
せっかくの休みが何もせずに過ぎていく。
時間という名の雨が大量に降り注ぎ、無駄に捨てているようなものだ。
リルはリーン・バード高校一年生。今はまだ夏休みに入ったばかりなので、時間を大量に捨てたとしても、休みはたっぷりあるのだが。
リルの故郷はリーン・バードではなくロインの町。
ロインには高校がないので、リーン・バード高校に通うために一人暮らしをしている。
高校生で一人暮らしは心配だという親の意向により、知り合いのランじいさんがいるこの安アパートに住んでいるのだった。
隣の部屋のドフとは幼なじみで、ここに住んでいるのもリルと同じ理由だ。
寝癖のひどい黒髪のドフは、太っていて黒ぶちの眼鏡をかけている。
自分の寝癖を「ワックスをつけてるみたいでかっこいいだろ」としきりに言うが、周りの人はあまりいい評価をしていない。
ここリーン・バードの町では、ロイン以上にアレン・ドーラのおとぎ話に対する関心が深い。
町の中心にあるカヌイ広場には、町のシンボルとしてフェニックスの白い勇者の像があり、その存在が関心の深さをうかがわせる。
何か起こると「フェニックスの白い勇者が守ってくれるから大丈夫だ」とか、「ご加護がありますように」と祈るなど、アレン・ドーラのおとぎ話を心のよりどころにする人が多い。
しかし、ロイン出身のリルには全くそれが理解できない。
ロインでももちろんアレン・ドーラのおとぎ話は知られているが、親が子に聞かせる昔話程度の認識しかないのが一般的だ。
信じるどころかリルは、この話は胡散臭いと思っていた。
ガキ一人で世界征服を企む国を滅ぼしたというのが、いかにも真実味がないと考えたからだ。
それはさておき・・・。
湿った空気をさらに湿らすようにして、雨はまだ降り続いていた。
雨が降るというのは自然現象だが、雨がずっと降り続いていてやまないのは不自然ではないか、などと思っているとき、部屋のドアをたたく音がした。
「誰だよこんな雨の日に!」
ずっと寝ていたら誰もが抱くような気だるさを感じつつも振り払い、腹筋と反動で上半身を起き上がらせて、ベッドの横にあるサンダルを履いた。
ドアを開けようとすると、向こうから勝手にドアを開けてきた。
「どうもこんにちは」
茶色いシャツにチノパンを穿いた、愛嬌のある優しそうな顔のフサフサした白髪の老人。
彼こそはリルの保護者代理のランじいさん。
リルは、この少し変わった行動をすると認識されるお年寄りの存在を、何かにつけて用を頼んでくるうっとうしい存在だと思っていた。
だから今も、さっさと出て行ってもらいたいと嫌悪感を抱きながら応対していた。
「どうもこんにちは。何か御用ですか」
「ちょっと私の家に来てくれないか」
「何でまた急に?」
「私の重要な本がないんだ、本が・・・。おまえさん若いだろ。一緒に来て探してくれないかね?」
「申し訳ありませんが、今日は部屋の掃除をしなくてはいけないので、ちょっと・・」
「手伝ってくれたらいいものをあげるぞ」
「前もおんなじセリフを言われて手伝いましたけど、くれたものは最低でしたね」
あきらめさせるために、精一杯の毒々しい思いを言葉にした。
…しかしリルの言っていることも、あながち的外れではない。
というのもランじいさんがくれる物はいつも、いらなくなったけど捨てるのはちょっと・・・という理由でよこす思い出の品ばかりだからだ。
全くこの変わり者のじいさんは困ったものだと言わんばかりのリルの表情にも、ランじいさんは顔色一つ変えない。
「今回は本当にいいものだぞ」
「そのセリフも何回も聞きましたよ」
「私も渡すのが惜しいくらいなんだがな。・・・まあ、ほしくないなら別にいいよ。これは本当に貴重なものなんだがね。そうか、掃除をするのか。まあがんばってくれたまえ。探すのは隣りのドフに手伝ってもらうからいいよ」
思わせぶりな態度のまま、とうとうランじいさんは行ってしまった。
雨の音にまぎれて遠ざかっていく足音に耳をすませながら、腕組みをしたリルは閉じたドアと少しの間、にらめっこする。
(本当に貴重なもの・・。本当なのか?でも今まで何回もだまされたし・・。うーん・・。今回もやはりだまされるのかなあ。でももし、本当にいいものだったら・・。ええい、どうせ本探すの手伝うだけだ。だまされたってどうってことないや)
もし本当に貴重なものなら、ドフの手に渡ってしまうのがたまらなく嫌だった。
そう思うといてもたってもいられなくなり、ランじいさんがドフの部屋へ行く前に追いつこうと決意した。
ドアを開けると、軽く愛嬌のある笑みを浮かべたランじいさんが、さっきのやり取りをしたまま、時が止まっていたかのようにして立っていた。
「あれ、行ったんじゃ・・」
「フェイントだ。本当に若いね、君は」
アパートは5階建てで、リルの部屋は4階。
ランじいさんの部屋は5階である。
ランじいさんのような老人がこんなボロ安アパートになぜ住んでいるのかが、リルには不思議でならない。
夏はいいが、冬は寒くて仕方がないこのアパートは、年寄りの身にこたえるのではないかといつも思ってしまう。
そういうところも、ランじいさんは変わっているとリルに思わせる理由の一つである。
今日もまた変わり者にだまされたくさいなと、後悔の念に駆られるリル。
しかし、その思いとは反対の方へと足を運び、ついにはランじいさんの部屋に着いてしまった。
「さあ本を探しておくれ」
「探しておくれって、何の本を探すんですか?」
見ると、椅子に深々と腰掛けてすでに寝てしまっている。
まさに瞬間芸だ。
憤るリルを察知してか、ランじいさんは目をつむったまま静かに口を開いた。
「そうそう、本の題名は“楽しい老後生活”だからね」
「その本は文庫ですか、それとも・・・」
「グーグー・・・」
「・・・」
静かな寝息をたてているランじいさんの横顔に、あきれてため息。
このまま起こさないでそっと帰ってしまおうかという思いがよぎる。
しかし、それでは“貴重なもの”がもらえなくなってしまうので,仕方なく探すことにした。
探すといっても、部屋の中はそんなに広くない。
奥に本棚とベッド、中央にテーブルと椅子に座っているランじいさん、脇にはキッチン、木彫りのタンス、それからトイレに行く扉と・・・。
奥の大きい本棚が怪しいので、ざっと上から下まで眺めてみる。
老後の暮らしに関する本、辞書、それから内容がよくわからない、数合わせのために置いてあるかのような本がたくさん詰まっていたが、お目当ての本は見あたらない。
どうやら読んだ後、本棚に戻さないでどこかに置きっ放しにしたらしい。
一体どこへ?
テーブルにふと目をやると、そこには黒々とした焦げ跡がある。
喫煙しながら居眠りしたんだなと、勝手にリルは想像した。
その後、部屋を3周して隅々まで探したが、ぜんぜん見つからなかった。
「見つかったかね?」
しょぼしょぼとした眼のランじいさんがこっちを見ている。
「いいえ。部屋の中を3周もしたのですが」
「何、まだ見つからないのか? 探す努力をしてないんじゃないのか」
そう言うと、また目を閉じてしまった。
その姿を見ていると、“貴重なもの”なんかどうでもよくなり、自分も部屋で寝たくなってきた。
リルはトイレに行って戻ってきたら、この部屋から出ようと決心した。
もううんざりだと・・・。
トイレの中は、ハーブの香りがする。
ランじいさんの家のトイレはいつもきれいだ。
部屋は汚いくせに、トイレはきれい・・・これは何を意味するのだろうか。
いや、多分何も意味はしないだろう。
トイレはスペースが狭いから掃除がしやすい。
自分の部屋は広いから年寄りが掃除するには大変。
ただそれだけだ。
そんなんだから、本を無くしたら俺に頼みに来たんだ!と、一人憤るリルの足元に・・・なんと、「楽しい老後生活」という本が置いてあるではないか!
「そうか、トイレで読んでてそのまま置きっぱなしにしたのか。さっきの煙草の焦げ跡といい、本当だらしないな!」
新しいきれいな本だ。
トイレのフタを閉じ、その上に腰掛けてなんとなくパラパラとページをめくってみると、すぐにあることに気づく。
まず、ページの紙が普通ではない。
紙のような厚さだが硬くて、黒い鏡のようなものでできていて、1枚1枚のページには、よくわからない記号のような文字が書かれていた。
「なになに、えーと…読めないな」
見たこともない不思議な文字…。
ブックカバーだけが普段リルたちが使う文字だ。
おそらくカバーと中の本は別物なのだろう。
なぜわざわざこんなことをするのか?
リルはいぶかしげにカバーを取る。
中味の本の表紙は青い革表紙でできていて、見たこともない文字で題名が書かれていた。
本の内容は、もちろんさっぱり分からない。
しかし、この本をランじいさんが読んだことがあるのは確かだった。
というのも、“テーブルの上に置きっぱなしは×”、“光の道しるべ”、などとそれぞれのページにリルたちが普段使う言語の文字で、黒のマジックの書き込みがあったからだ。
その書き込みの中には“禁止”、“危険”、などもあり、特に最後のページに書かれた“世界の終わり”という書き込みは、読み手に恐怖を与えるために書いてあるかのようだった。
「なんだろう、禁止って? 書いてある文章を訳すと、禁止って意味になるのか?」
不自然な表紙のカバーが、リルには本の中身を隠すためのカモフラージュのような気がしてきた。
ひょっとして、この本には人に見られてはいけないような、何かとんでもないようなことが書いてあるのでは…?
この本に何が書かれているのか知りたい!という強烈な衝動に駆られ、急いでトイレを出る。
「ランじいさん、起きて下さい! 本、ありましたよ」
「おお、見つけてくれたか」
「この本は一体何の本なんですか? 中に書いてある字は全然読めないんですけど」
困ったような顔をしたランじいさんは視線をそらし、言葉をつまらせた。
「…楽しい老後生活について書いてあるんだ」
なんという下手なウソだ。
というより、人に知られたくないような本探すために、他人を使うなよとリルは思った。
「本当は?」
テーブルの上をドンッと叩いてリルが問い詰めると、今度はうつむいてしまった。
「・・・申し訳ない。教えることはできないんだ。これだけは教えることができない」
「どうしてですか?」
「私が君のことを信用できないからだ。今君に話したら君はこのことをみんなに話すだろう。だから教えることはできないんだ」
本探している最中、安心して居眠りしていたくせして、今さら信用できないはないだろうと思ったが、ここで引き下がっては教えてもらえなくなってしまうので、今までのことは水に流し、なんとしてでも教えてもらおうと思った。
「わかりました。じゃあみんなには絶対に話しませんから教えて下さい」
「いや、でも…」
「お願いします!!」
リルが大きな声で叫んだその刹那、外で大きな雷の音が鳴った。
雨の中、激しく響く雷鳴とリルの懇願する切なる叫び。
まるでランじいさんから聞きだすためにリルが雷を呼んだかのようであり、雨も雷の音を合図に前にも増していっそう強くなったようだ。
ランじいさんは観念した表情を浮かべ、静かに口を開いた。
「わかった、わかった。話すよ。でも…これから話すことは誰にも内緒だよ…」
2,本の秘密
「こないだ、カヌイ公園の広場で年に一度の古本市がやっててね。もちろん私は楽しい老後生活を送るためにあの本を買ったんだ。古本のわりに表紙がきれいだったしね。ところが本の中身はというと、見てのとおり。当初は古本屋に騙された…なんて思ったりもしたが、気を切り替えて、私はこの本の文字は何語で書かれているのかを調べるために、図書館に向かったんだ」
「辞書で調べてみたんですね」
「しかしどの辞書にもこの不思議な文字は載ってなかったんだ」
「それじゃあ読めなかったのですか?」
「そう結論を急がないで、話を最後まで聞きなさい。・・・というのもね、この本は読むのではない。書いてある文字に意味があるんだ」
「はあ?」
「ちょっと見ててごらん」
ランじいさんは開いた本をテーブルに置き、そこに書かれた謎の文字の文章を、ちぎったメモ用紙にすらすらと書いた。
書き終わると、さっとまるめて、同じくテーブルの上にある灰皿の中に入れた。
「何やってんですか?」
リルがあくび混じりに言った瞬間、まるめた紙から煙が出てきた。
なんと、紙にはまもなく火がついて勢いよく燃え出したではないか!
「ええ!!」
その光景に、信じられないという顔でリルはひたすら見とれていた。
「この本はどのページを開いても、横書きで不思議な文字の文章が書かれている。それで、例えば今開いたページの文章を書くと、なぜか火が出るんだ」
「へえー」
リルは胸をドキドキさせて、開いたままの本を眺めた。
「ところで、どうしてこの本には火がつく文章が書いてあるのに燃えないんでしょうか?」
「そう言われてみれば、うーん…よくわからないが、おそらくこの文字が書いてあるページの物質が、特殊なものなんだと思うけどね」
ページの上を、リルは手のひらでスーッとなでてみた。
さっきも思ったが、これは本当に不思議な物質だ。
黒い鏡のような物質に同じく黒い字で書かれた文章は、光の反射の角度によっては非常に読みづらい。
「この本は見ての通りかなり分厚い。老人の私にはちょいと重すぎてね、図書館にまで持っていくのに一苦労だ。かといって図書館では、辞書は貸し出し禁止になっている。そこで私は文章の一部をメモして持って行こうと思いついた。文章を書き終えて万年筆をポケットにしまっていると、なんとテーブルの上で紙が燃えているではないか!おかげでテーブルを焦がしてしまった。不思議に思い、紙にまた書いてみたが何回書いても火がつく。それで他のページも試してみたところ、この不思議な文字で出来た文章は、書くと現実に何か現象が起こるのだということがわかったんだ」
ランじいさんは、生き生きとした表情で武勇伝を語った。
それは、さっきまで「絶対話さない!」と言っていた人と、とても同一人物とは思えなかった。
「なるほど、それでこのページは“テーブルの上に置きっぱなしは×”って赤ペンで書いてあるんですか。他のページにも書き込みがあるところを見ると、いろいろ試してみたようですね」
「そう。例えばこっちのページの文章を書いてみると…」
ランじいさんはメモ用紙を一枚破ると、別のページの文章を書いてみせた。
何も変化した様子はない。
リルはあれっと思い、恐る恐るそっと手に取ってみる。
すると、紙が金属製の板のように硬くなっているではないか!
「すごい!!」
「まあこんな感じにいろいろなるんだ」
どういうメカニズムで紙が硬くなるのだろうと一瞬リルは考えたが、考えるだけ無駄だということに一秒で気がつく。
「そういえば、危険とか禁止とか、…あと世界の終わりって書いてあるページがあるんですけど…。これは一体?」
「わからない」
「どうしてですか? 試してみて危険だ、と思ったから危険って書いたのでは?」
「違うんだ。言っただろ、この本はバザーの古本市で買ったんだ。つまり、前の持ち主が書き込んだんだよ」
「とすると、前の持ち主が危険だと思って書き込んだ…」
「そう…危なそうだからそういうことが書いてある文章は、まだ書いたことがないんだ。私はこの文章が、アレン・ドーラのおとぎ話と何か関係があると思うんだが・・・。私も君と同じロイン出身だから、あのおとぎ話についてリーン・バードの人々ほど詳しいことは知らないんだけどね」
「そうですか…」
小さい頃親に聞かされたアレン・ドーラのおとぎ話が急に話に登場したので、リルは思わず面を食らう。
あんなインチキ話は関係ないと、少し不愉快な顔をして、話題を変えた。
「古本市に店を出していた人に聞けば、前の持ち主が誰だかわかるのではないでしょうか?」
「それは無理だ。あそこの古本市には、全国から一気にいらなくなった本がごちゃ混ぜになって運ばれて来るんだ。売っている人はただのアルバイトだし、管理している人も、運搬している人でさえもおそらくわからないだろう」
ランじいさんは心配そうな様子で、絞りだすような声で言った。
「今日見たり聞いたりしたことは絶対に誰にも内緒だからね」
3、一通の手紙
自分の部屋に戻ると、夕方になっても降り続いている雨の音をバックサウンドにして、椅子に腰掛けて温かいミルクココアの入ったカップを両手で包むようにして抱えて飲みながら、さっきのことを思い出した。
「なんで文章を書くだけで火がつくんだ? ・・・よくわかんないよなあ。・・・待てよ。そうなると・・・世界の終わりと書き込みがあったページの文章を書くと、世界の終わりが起きるのか? まさかね・・・。紙切れ一枚に文章書いただけで世界の終わりが来るだなんて。でも…実際に文章を書いただけで確かに燃えてたよな。・・・何なんだあの文字は? どうしてあんなにすごい本を、前の持ち主は手放してしまったんだ?」
トントン。湿った空気にドアを叩く音が響く。
「またランじいさんか? さっきのことで何か補足でもあるのか…」
「こんにちは、郵便です」
小雨を背景に、征服を着た男性が気合のない声でそう一言だけ言うと、一通の封筒をリルに渡してさっさと出て行った。
再び椅子に座り、ビリビリと封筒を破いてみる。
差出人は級友のコリー。
手紙の内容は次のようなものだった。
『元気か、リル。降り続く雨のせいで、最近カヌイ広場には誰も集まらないな。話は突然変わるけど、あさってみんなで集つまらないか? もちろん広場じゃないぞ、俺んちだ。一人で家にばかりいても退屈だろ? っていうよりも、俺が暇で仕方がないんだ。レイとジールも来るって言うからさ、お前も来いよ。いいだろ? 俺達の夏休みは俺達がどう使おうが自由なんだ。天気なんかに束縛される筋合いはないぜ。…とは言ったものの、実際は今日も雨降ってるせいで、先週から計画していた魚釣りをキャンセルしたんだけどな。それにしても最近本当雨ばっかりだな。おかしいよな、この異常気象。まるで世界の終わりが近づいているかのようだな。アレン・ドーラの王国が滅んだときに、良く似ている・・・。なーんてね、俺が悲観的になってもしょうがないよな。これも雨が降り続いているせいだ。脳天気な俺がこういうこと言うのも珍しいし。全く俺の心が異常気象だな。まあこんなことばかり書いてても仕方がないし、お前もあんまり活字能力がないし。これ以上長い文章書くと頭がオーバーヒートしちゃうからな。よし、とにかくあさっては来てくれよな。久しぶりにみんなで騒ごうぜ、じゃあな』
手紙に出てきたレイは、リルと同級生の女の子。
ジールは一歳下の女の子で、リーン・バード中学校3年生。
リルとコリー、そしてレイは同じクラスだが、ドフは違うので、このメンバーで集まるときには声がかからない。
ジールは学年が違うわりに、なぜかいつも一緒に話している。
活字能力がないとは失礼なとむっとしたが、確かにこれ以上長い文章書かれるとまた後で読もうということになるから仕方がないかと思い直した。
「世界の終わりか。世界の終わり…」
時間が経ったせいでだいぶ冷めたミルクココアを全部飲みほすと、大事なことを忘れていたのに気づく。
「そういえば、ランじいさんから“貴重なもの”、まだもらってなかったな」
働いたんだから報酬はちゃんともらわないと無料奉仕したことになる。
そうなるとお互いの関係がギクシャクしてしまうから良くないと、自分にだけ通じる理論を盾にランじいさんの部屋へと向かった。
「すみませーん」
「おお、君か。どうしたんだ?」
「実はその、えーと…あの、“貴重なもの”をまだもらってなかったんですけど…」
「ああ、そうだったな。ちょっと待ってておくれ」
ランじいさんはそそくさと引出しを開けて、なにやら汚いアクセサリーを取り出した。
汚れてはいるが、一応セルシウスでできた首飾りらしい。
セルシウスとは銀色の金属で、重さも銀と同じくらいだが銀に比べて極めて安い。
持ってきた首飾りには、白色の透明感のある天然石がぶら下がっている。
「はい、これ」
「首飾りですか。若い頃使ってたけど、今は肩がこるからいらないってオチですか」
「あげるんだからそういう言い方はないだろ? といっても、図星なんだけどね。これは私が若い頃、君のおじいさんが博打で負けて、お金を払えないというんで譲ってもらったものだ。懐かしいなあ。あの時は私もべろんべろんに酔っ払ってたからなあ」
こんなところでじいさんの形見をもらうとは・・・。
複雑な心境で、首飾りを受け取った。
「この石は、何ですか?」
「これは、えーと…確かカナリア水晶だったと思う」
「カナリア水晶…。聞いたことがないですけど、きれいな名前ですね」
「カナリア水晶の語源はよくわからないけどね。水晶とは言うものの、カナリア水晶は、普通の水晶とは全然違う物質であるということをどこかで聞いたことがあるよ。・・・まあそれはどうでもいいから、とにかくもらっときなさい。それと、私は明日から一週間、部屋を留守にするから。くどいけど、君はさっきのことは誰にも話してはだめだからね」
「わかってますって。安心してどこへでも行ってきて下さい」
お礼を言って部屋に戻ると、せかす気持ちを抑えつつも、早速首に掛けてみた。
上の方から斜めに入った亀裂をテープで止めてある洗面所の鏡に映る自分は、わりとおしゃれな感じだ。
黒のTシャツとその上にある白の透明感ある天然石が、きれいにコーディネートされている。
「えーと、カナリア水晶だっけ? あさっては久しぶりにみんなで集まるし、ちょっとはかっこつけたいからこれして行くか。でもこの首飾り、だいぶ汚れてるな」
テーブルの上で、きゅっきゅっとクロスでセルシウスの部分を磨いてみたが、表面の汚れだけ落ちてセルシウスは相変わらず黒ずんでいる。
どうやらかなりさびているようだ。
「年寄りが若い頃にしてたアクセサリーだからさびてて当然だな。よし、明日はセルシウスを磨く道具を買いに行くか!」
4、ショッピングへ
リーン・バードの町にはたくさんのお店があるが、とりわけこのリーン・バード・マーケットには揃わない物は何もないというぐらいにたくさんのものが売られていて、お城のような外観をしていた。かなり老朽化した建物なのだが、中はわりときれいなので初めて訪れる人は、そんなに古い建物だなんて夢にも思わないだろう。それに年月を経て色あせてきたお城のような外観は、ますます王族の住むところを思わせるような荘厳な雰囲気をかもし出していた。
外は相変わらず小雨が降っているが、お店の中は子供連れの親子や若者たちでにぎわっていた。今日はドフと一緒に買い物。ドフは、グレーのTシャツに黒のコーデュロイパンツを穿いていた。太った体の大きいドフと小柄なリルが二人並んだ後ろ姿は、保護者と子供の関係に見えないこともない。
「いらっしゃいませ」
グリーンのエプロンに三角巾をした感じのいいねーちゃんが笑顔で挨拶するや否や、ドフは急にあさっての方を向くと、焦った様子で一階の食料品売り場を早歩きでズンズン進んでいく。寝癖頭の太ったグレーの巨体がスムーズに人ごみの中を抜けていくのを見て、リルは一瞬唖然としたが、慌ててサンダルが脱げないように気を配りながらも追いつこうとする。
「何で急に歩くスピード上げたんだよ?」
「目を合わせると、意識しているのがバレるだろ!」
体のわりに、ドフはシャイだ。しかし、いちいち人の性格なんか考えないリルは、無視してさっさと本題に入る。
「セルシウスのさび取る道具ってどこに売ってるんだ?セルシウスは金属だから、工具とか売ってるとこか?」
「さっきの人に聞いてみるといいよ」
ドフは少し照れながら、うつむき加減にぼそぼそと言った。なぜ照れる必要があるのか、リルには謎だった。巨体をもじもじさせているドフを尻目に、冷めた表情のリルは戻ってさっきの店員に話しかけた。
「ちょっとお尋ねしたいんですけど、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「この首飾りのさびを取りたいんですけど、そういう道具ってどこで売ってますか」
「そうですね、3階のアクセサリー売り場ならあると思いますけど」
「そうか、アクセサリー売り場か」
お礼を言って、二人は3階のアクセサリー売り場に向かった。
階段を上がっていく途中、ドフがあれこれとリルにしゃべりかけてくる。
「さっきの店員の女性。近くで見ると、別にそこまできれいというほどの顔ではなかったね。そういえば遠くで見るととても美しいけど、近くで見ると泣いてるように見える少女の絵を以前バレンス美術館で見たことがあるんだけど。絵の名前は確か“アイラ嬢”だったかな。まああれと同じか。というよりも、さっきはあんまりちゃんと顔見てなかったけどね。まあ、二次元の絵と三次元に存在する人とを仮にも比べるなんて失礼か。あははははははは」
比べちゃ失礼なら最初から比べるなよと、リルは思った。ドフは自分の活舌ぶりに上機嫌。
「それにしても、よく一回見ただけの絵の名前なんか覚えてたな」
「まあね。実を言うと、僕は絵とか美術作品にはうるさくてね、しゃべらせればちょっとした評論家なんだぜ。あはははははは」
ますます上機嫌。人見知りしないで、初対面の人にもこのくらい堂々と話せばいいのにと、チラッとドフのこぼれるような笑顔に視線をやる。しかし、雨が降っているのにも関わらず、むりやり誘った買い物について来てくれたドフに、リルは少なからず感謝の念を抱くのだった。
アクセサリー売り場には、たくさんのガラスケースがあり、中にはいろんな種類の指輪やブレスレット、それに首飾りなどがある。売り場の上手なレイアウトが、引き込まれるようなアンティークの世界をめいいっぱい表現していた。
リルたちはとりあえず、二人で手分けして探すことにした。
「お金がないから最近アクセサリー売り場ってあんまり見てなかったけど、たまに来るとやっぱいいな。気分がウキウキするし。こういうの選んでいるときが一番幸せだな~。まあ見るだけで買うお金はないけど」
ふと顔を上げて回りを見渡せば、さまざまな光景が目に映る。一様に腰をかがめて、狙った獲物は確実に捕らえるとでも言わんばかりにガラスケースの中へと眼光を光らす若者たち。その年でこんな物に興味持つなよと思わず言いたくなるような、ガラスケースを一生懸命背伸びしてのぞこうとする4、5歳の男の子。あまり熱心そうでない二人組がいるなあと思っているとカップルだったりして、リルはそういうのを見つけると、うらやましいという気持ちがこらえきれずにふつふつと湧いてくるのだった。
「ちょっとこっち見て」
「どうした、あったのか?」
「見て、似合うかい?」
うれしそうなドフの首には、店の値札がついたままの、剣がワンポイントの首飾りをしていた。似合うのか似合わないのか、いまいち分からないリルは、リアクションに困った。
「…似合うと思う、多分」
「だろー! フェニックスの白い勇者が愛用していた、剣のミニチュア版を連想させるみたいだろ!」
フェニックスの白い勇者とは、世界征服をたくらむアレン・ドーラの王国を滅ぼしたとされる伝説上の少年のことだ。・・・それにしても、ワンポイントが剣の首飾りを見ただけでフェニックスの白い勇者を連想する人なんているのだろうか?疑問に思うリルをよそに、またもやドフは大はしゃぎ。今日はドフの日だ。
「しかし、俺と同じロイン出身のドフが、フェニックスの白い勇者を慕っているとは意外だね」
「この町にいると、アレン・ドーラのおとぎ話一色じゃん? だんだんとその雰囲気に感化されてくるよね」
「そうかあ? 俺は相変わらず胡散臭いと思っているけど・・・買うのか、それ」
「もちろん。で、リルはこっちのやつを買うの?」
ドフはガラスケースの上に大量に置いてある容器を指差した。液の入った、赤くて透明な丸い容器だ。
「この液体につけると、一瞬でさびが取れるって」
「へえー」
「少し高いけどね」
見ると…確かに高い。買えないことはないが、結構フトコロが痛い。
「二人で買って、あとで半分個しないか?僕もこの首飾りを買うから、お手入れのために必要だしね」
「サンキュー、助かったよ」
ドフは寝癖の頭をかきながら大口開けて笑っていたが、突然真顔になった。
「その代わり、頼みがあるんだ」
「何? 何でも言ってくれよ」
「お金渡すから僕の首飾りも一緒に買って来て。アクセサリー売り場の店員の女性はとってもセクシーで、視線がとても気になるんだ」
リーン・バード・マーケットから外に出ると、外では久しぶりに雨がやみ、真昼の温かな日差しがそこにはあった。太陽の光を再び見られるだなんて、何だかとても不思議な感じがした。
「珍しいな、雨がやむだなんて」
「違うよリル。雨はやむのが普通なんだ。一週間も降り続いた今週が珍しかったんだ」
「そりゃそうだな」
「それにしても、いつにもまして太陽が輝いて見えるよ。この一週間も姿を見せなかった美しい太陽を、誰か絵に書かないかなあ」
「ドフは自分で絵を書いてみるといいよ。高校一年生で絵の評論なんて出来るやつ、そんなにいないぞ。多分絵の才能があるんじゃないのか」
「まあね。いやあ、まいったね。あははははは」
部屋に着くと、椅子に腰掛けてテーブルの上で買ったばかりの、例の液体が入った容器を開けてみた。首飾りごと一気に容器の中に入れてみると…銀色の光沢を取り戻したではないか!
閉じたカーテンの隙間を縫って差し込むやわらかな日差しが、遅すぎる夏の始まりを告げていた。
5、カナリア水晶
コリーの家で、テーブルの真ん中にスナック菓子を置いて、ほおばりながらみんなで話し込んでいた。コリーの部屋はきれいに整っているので、見ていてとても清々しい。本棚、床、タンス、勉強机など、みんなほこり一つない。あっけらかーんとしているわりに、意外ときれい好きなんだなあと、リルはコリーの違った一面を見た気がした。
集まったのは4人。赤いつばつきの帽子にダラーンと垂れ下がった赤のTシャツ、そしてジーパンを穿いたコリーは肩にかかる長さの金髪のがたいのいい少年。彼のジーパンはリルが着ている色の濃い古着風のものとは違い、色あせただぼだぼのものだ。首には大きな十字架の首飾りがかかっている。麦わら帽子をかぶり、ベイズリー柄のトップスに淡いピンクのスカートを着たレイは、コリーと同じくらいの長さをした金髪を後ろで一本にして縛り、前髪は真ん中分けで耳には良く似合うセルシウス製のリングピアスをしている。安そうなチョーカーに茶色いロングワンピースを着たジールは髪を茶色く染めてはいるが、染めてからだいぶ経つので生え際が黒く、長さは短い。
レイはよくしゃべりよく笑うが、ジールはわりと無口だ。それで場の空気のバランスが取れているのだろうか、このメンバーで集まると、不思議と居心地がいい。
「明日こそカヌイ川でメイを10匹釣るから見に来てくれよな!」
コリーは天気が晴れたのがよほどうれしかったらしく、熱っぽくしゃべっていた。メイとはこのあたりで取れる細長い川魚で、食べると意外とおいしい。リルとレイはうなずきながら楽しそうに聞いていたが、一歳年下のジールはあまり興味なさそうにしていた。
「でもコリー、一週間雨が降り続いたせいで川は増水しているって話だ。釣りに行くのはもう2、3日待った方がいいんじゃないのか」
「大丈夫だよそんなの。第一俺は泳ぎが得意なんだ。流されたって何とかなるさ」
「いいんじゃないの、流された方が邪魔なやつが消えるじゃん」
悪意のないレイの冗談に、コリーは笑いながらレイを軽く小突くまねをした。時折レイは、リルの方をチラチラと見ていたが、リルは特に気がつかない。無口なジールは、ぎこちない作り笑いをしていた。
頭をぽりぽりかくと、コリーはため息をついて言った。
「仕方ない、2、3日待つとするか。心配しながら釣りしても楽しくないもんな」
夕日が足元の砂利の一つ一つを丁寧に赤く染めている帰り道で、リルはジールと二人になった。
「さっきはジール、おとなしかったね」
ジールが少し顔をほころばせながら答える。
「私はいつもあんな感じですよ。盛り上がっている雰囲気が苦手なんです。笑い方も不自然だし。でも、友達がいないと寂しいから誘われると行くんです」
「ふーん、そうか」
ジールの心中を打ち明けた言葉も、無頓着なリルの心には少しも響かない。
ジールも別段、そのことを気にしなかった。
「ところでリルさんは、絵とかお好きでしょうか?」
「絵?あんまり見たことはないけど。好きでも嫌いでもないって感じかな」
「今バレンス美術館が50周年記念で、明日から3日間入館料が無料なんですよ。私、一人で行くとなんだか寂しいんで、よかったら一緒に行きませんか?最初レイさんを誘ったんですけど、予定があるって言うんで。どうです?」
「別にいいよ、どうせ暇だし」
「よかった。じゃあ明日、正午に入り口付近で待ってますので」
「うん、じゃあな」
部屋に着くと、まもなくドフが遊びに来た。首には、例の首飾りをちゃんとしていた。リルが椅子に座っていると、ドフは勝手にベッドの上に座った。
「首飾り、わりとさまになってるじゃん」
「ありがとう。新品だけど、昨日のやつで一応きれいにしたんだ。そうしたらさ、ますます輝きを増してね。まるで、これからの僕の未来を暗示しているかのようだよ」
ドフはうれしそうに、首飾りの剣の部分をつかんで見せた。
「俺のやつも磨いたんだ」
リルもドフと同じように、首から垂れ下がっている首飾りの飾りの部分を手に持って見せた。
「本当だ。ずいぶんきれいになったな。買ったばかりの状態にタイムスリップしたみたいだ」
「ああ。こんなに効くとは思ってもみなかったよ」
リルの首飾りは、本当に新品同様のようだった。ドフは感心しながらリルの首飾りを見つめていた。
「ところでその石は何?」
「カナリア水晶っていうやつさ」
「え、カナリア水晶? カナリア水晶…か」
ドフはリルの言葉を聞くなり難しい顔して黙り込んでしまった。
リルは突然ドフが黙り込んでしまったので、一瞬戸惑った。
「どうした? カナリア水晶がどうかしたのか?」
ドフは人差し指で眼鏡の真ん中を少し持ち上げて、眉間にしわを寄せながら口を開いた。
「磨くとき、多分その石も液体に触れただろ?」
「ああ、触れたけど?」
目を大きく開き、ドフは立ち上がった。
「それはカナリア水晶ではないね」
「なんでそんなことがわかるんだ?」
ドフは再びベッドに腰をおろす。
「磨く液、まだある?」
「まだだいぶ残ってる」
リルは、液体の入った丸い容器をドフの方に投げた。
「この液体の成分を見てごらん。アンビナリンって書いてあるだろ? カナリア水晶はケロン石のことなんだけど、ケロン石はアンビナリンにつけると赤茶色く変色してしまうんだ」
「昨日確かに漬けたぞ。でも赤茶色くなってない…」
「そう。つまりその石はカナリア水晶ではない…。そもそもカナリア水晶ってのは、アレン・ドーラのおとぎ話にまつわる天然石なんだ。あのような恐ろしい国ができないようにと、平和を願って人々はカナリア水晶を身に付けるようになったらしい。まあ本当かどうかは分からないけどね。ある学者は、アレン・ドーラなんて国は最初っから存在しなかったって言ってるしね」
夜になって、ベッドで寝転がりながらリルは考える。
「この石は何で出来ているんだろう?」
人差し指と親指で、その白い透明感のある石をつまんで上に掲げてみた。天井の明かりから来る光が、石と首飾り全体をやさしく包む。
「よく見ると、中の方は少し黒く濁ってるな」
これ以上考えても仕方がないと思い、テーブルに置いてあった冷たいミルクココアを一気飲みした。リルは雨の夜に冷たいミルクココアを飲んで寝ると、どういうわけか次の日はお腹が痛くなるのだった。本当は冷たい方が好きなのだが。最近は雨の日が続いていたので、冷たいのが飲めなくて残念だったのだ。しかし、今日は晴れていたので、冷たくしておいしく飲んだ。
リルは明かりを消して、眠りについた。この夜、また雨が少しずつ降り出した。
6、バレンス美術館にて
バレンス美術館の入り口は、大きな二つの彫刻にはさまれていた。左が冠をかぶり、ドレスを着た女神で、右がローブを着た男神である。雨でぬれてはいるものの、その彫刻は見事なものだった。
「リルさーん。こっちです、こっちです!」
傘をさしながら、雨音に負けじと大きな声で女神の前で立っているジールが言った。
「早く中に入りましょう、雨にぬれちゃいますよ」
普段は無口な女神のせかす言葉に後押しされて、さっさと美術館の中に入った。
「えーと、受付は…」
「無料キャンペーンのため受付には誰もいないですよ。早く行きましょうよ」
今日のジールはずいぶん積極的で、昨日とは別人のようだ。
リルは年下がリードするのが気に入らないので、なるべく前を歩こうと努めた。ところがジールのおしゃべりは、流れるように出てくる。
「入り口の、あの彫刻って何を意味しているのか知ってますか?」
「いや、知らないけど」
「あれはですね、フェニックスの白い勇者を産んだ女神と男神を現しているんですって」
「へえ」
「おとぎ話を彫刻の題材にするだなんて、なんだかロマンチックですよね」
中に入ると、床が赤いじゅうたんで敷き詰められ、天井にはいかにも金持ち趣味なシャンデリア。絵の入っている額も、高そうだ。客は思ったよりもたくさんいない。やはり、雨のせいだろうか。
「この絵はなになに、題名は“真夏の果物”か。ようするにスイカの絵だろ?回りくどい言い方だなあ。こっちの絵は“新しい日々”。どうしてトマトの絵なんだ? “新しい日々”とトマトに一体何の関係があるんだ?」
リルは絵を楽しんでいるというよりも、絵と題名の間にある溝に落ちまいと、ヒーヒー言っているような感じだった。
ジールのほうにチラッと目をやると、真剣な顔をしてスイカとにらめっこしている。
「なあジール。ここの美術館の絵、食べ物ばかりだな」
「二階に行きましょうか。二階は確か、人物画があるみたいですよ」
二人は二階に向かった。
階段もまた赤のじゅうたん。手すりは茶色くて、ニスを塗った木材で出来ている。
「それじゃあここからは自由行動にしようか。一時間後にここで待ち合わせで」
「そうですね。じゃあそうしましょうか」
リルは無理やり行動の主導権を取った。ジールが反対しないで従ってくれたので、目上としての面目が果たせてよかったとほっとした。
リルはとりあえず一通り見ようと思った。
「きれいだな、この絵は。へー、“改心した堕天使”か。でも改心しようがしまいが、美形な人は美形なんじゃないのか」
そう思っていると、下に解説が書いてあった。
『この絵はあえて改心したということを題材にすることで、いかに堕天使であろうとも改心してそこに現れる神心そのものが、天使の本当の美しい素顔なのだということを描写している』と書かれていた。
「なんだかわかったようなわかんないような文章だな」
リルは難しい文章を読むのが苦手だったので、これからは題名と絵しか見ないと、心に決めた。
半分くらい見たところで、リルは腹が痛くなってきた。
昨夜、眠りについた後に雨が降ったせいだ。
リルは急いでトイレに駆け込んだ。
それからしばらくして戻ってくると、だいたい約束の一時間が過ぎていた。
「ジール!」
「あ、リルさん」
「そろそろ帰ろうか」
「帰る前に、お互い一番いいなって思った絵をそれぞれ一枚、最後に見ていきましょうよ」
「そうだな」
「じゃあまずリルさんから」
リルは絵の方に向かいながら思った。
(また行動の主導権握られた! どうも今日のジールは調子狂うな。ひょっとして絵が得意なのか?得意分野なら負けても仕方がないか・・・)
リルはとりあえず自分自身を納得させる理由を、無理やり心の中で作って言い聞かせた。
「この絵だ」
「ああ、“セイレーン”ですね。これは、船が通りかかると不思議な歌を歌い、その歌を聴くと船から海に飛び降りたくなるという、上半身は女性の姿をした、化け物を題材にした絵ですよね」
「よくそんなこと知ってるなあ」
「さっき、下に書いてある解説を読んだんですよ。リルさんも読んだでしょ?」
「ええ!? ああ、…読んだよ。読んだ。書いてあったな、うん」
年下なのにこんな小難しい文章、よく読んだなと、リルは思った。自分は最初のやつで挫けてしまったのに・・・。
「ジールの絵は?」
「私は、奥の部屋の絵です」
リルは奥に部屋があるとは知らなかった。途中でお腹の調子が悪くなっちゃったせいで、全部見てなかったからだ。
リルはジールの後ろをついて歩いた。もう主導権のこととかはどうでもよくなっていた。
「この“アイラ嬢”という絵です」
アイラ嬢は、白い幾つものフリルがついたドレスを着た、赤い髪の少女の絵。
(“アイラ嬢”…。どこかで聞いた気がする…。えーと・・・。そうだ、ドフが言っていた絵だ)
「すばらしい絵なんですけど、この絵は解説が書いてないんですよね」
「この絵はだな。遠くから見ると美しく見えて、近くで見ると泣いてるように見える絵なんだ」
「へえーっ。リルさんよく知ってますね」
「まあね」
本当はドフが言ってたことをそのまま言っただけなのだが・・・。リルは早速その絵を遠くから見てみた。すると・・・まあ普通の表情だ。近くで見ると・・・確かに少し泣いてるようにも見える。それに遠くで見ると気がつかなかったが、何か黒いもやもやしたものが書いてある。画家のサインかなと思い、顔近づけてみる。しかし、下手くそな字で読めない。まあサインってだいたい読みづらいような字で書いてあるけどなと、あきらめずに読もうとする。それにしてもこれは読みにくい変な字だ。
(いや、変な字というよりも…。ん、これは…ひょっとして!!)
なんと、そこにはランじいさんの本に載っていた不思議な文字が書かれていたのだ。
(なぜこんなところに? 待てよ・・・ということは、この絵には何か不可思議な現象が起きているのでは? この絵は燃えてないみたいだから硬くなってるとか? もしくはやわらかいとか冷たいとか。・・・見た目じゃわからないからちょっと触ってみるか)
リルが絵に触れようとすると、上から手をつかまれた。
「お客様、申し訳ございません。ここにおいてある絵は全て、触るのはご遠慮して頂いております」
「リルさん何やってるの、もう!」
「いや、ちょっと…」
年下のジールに恥ずかしいとこまで見られて、リルは本当にさんざんな一日だった。
でも、どうしてあの絵には例の不思議な文字が書かれていたのだろうか・・・。
7、アレン・ドーラの謎
昨日、帰り際にジールの家に寄り、本を借りた。本の題名は“アレン・ドーラのおとぎ話”。リルがアレン・ドーラの話に興味があると言ったら貸してくれたのだ。・・・正確に言えば、今だにこのおとぎ話をリルは馬鹿にしている。しかし、ランじいさんが「この文章が、アレン・ドーラのおとぎ話と何か関係があると思う」と言っていたのが、どうも気になって仕方がない。それでジールに借りたのだった。
読み始めると、普段は活字慣れしていないリルも、吸い込まれるように物語の中へと入って行く。
その内容は、以下のようなものだった。
この地にまつわる伝説で、かつて2000年前にアレン・ドーラと言う名前の王国が存在した。そこにはここ、リーン・バードの町の人々と同じように平和に暮らす、人々がいた。彼らは平凡な毎日を繰り返し、まさに平和と言う単純な言葉でも表すことのできるような日々を送っていた。昨日のように今日が過ぎ、今日のような明日が来る。それが、アレン・ドーラの王国だった。
そんな平和な日々が続いたのは、まさに王様の君徳によるものであり、国の民は王様に心から感謝をするのだった。王様も、そんな民のためにますます頑張る。そうした良き循環の中でこの国の運命は動いていた。
王様の一人息子のガイセン王子も、アレン・ドーラの次期王位継承者としてその名に恥じぬよう日々学問にいそしみ、武芸をたしなみ、日夜努力に明け暮れるのだった。しかし、ガイセン王子には心の中に小さな不安感が常につきまとっていた。自分にも、父のような立派な王になれるのだろうかと。その不安感をばねにますます日々精進を重ねるガイセン王子を、人々は彼もさぞかし素晴らしき名君になるだろうと期待する。人々の思いとは裏腹に、年を重ねるごとにガイセン王子の不安は募るばかり。どんなに努力しようとも、神のように高潔な父になれない自分・・・。毎日の血の出るような努力以上に、将来に対する不安感が、異常なまでに彼を苦しませた。
そんなある日、王子は王国の北部にある山に薬草を採りに行った。・・・薬草なんか、王宮にいれば一言の指示ですぐ手に入るし、町でも簡単に買えるのだが、日々心を縛りつける茨のトゲにうんざりしていた彼は、気分転換をしたかった。どうしてもついて行くと言うお供の申し出も断り、たった一人で行く。彼は武芸にも秀でているので、そんな彼が一人で行こうとも、別段誰も心配しなかった。
ところが山を歩いている途中、ものすごく濃い霧が発生してしまい、道に迷ってしまう。どうしようかと途方にくれているとき、一人の老人と出会う。彼の招きによって、この山で一人暮らす彼の家に、一晩止めてもらうこととなった。
その老人は、アレン・ドーラの北の山奥に住む偏屈な怪しい老人と噂され、辺境の地で一人寂しく暮らす彼のことを、人々は世捨て人として影で冷笑していた。
ガイセン王子はそんなこととは露知らず、孫と二人で暮らしていたが、ある日こんなところに住んでいるのはもういやだと言って唯一の家族が出て行ってしまったことなど、老人の話す言葉の一言一句を一言も漏らさず真剣に耳を傾ける。今まで誰も相手にしてくれなかった自分の話をちゃんと聞いてくれる素直な若者に、老人は言いようもないほどの好感を覚え、ついに、心を開く。
その老人がこんな人里離れた場所に住んでいるわけは、自分が研究している内容があまりにも危険であり、他の人に知られてはまずいからなのだと言う。その研究こそは、他ならないあの不思議な文章なのだった。文章を書くだけで火がつく、硬くなる、幾つもの不思議な現象が起きる・・・。老人が見せたその光景は、ガイセン王子には天地を支配する神の力をまざまざと見せつけられたかのように映った。そして密かに思う。これこそが、神のごとく立派な父のようになるのに、足りなかったものなのだと。
ガイセン王子は事情を説明し、その老人に自分の側近となってくれと必死に頼む。王族の者に嘆願された老人は、ついに断りきれずに引き受けてしまう。
そして、王宮で暮らすこととなった老人は、毎日後世の人のために本を書いていた。老人は、人々が便利で楽しく暮らせるようにと心から願い、筆を走らせたのだった。
ガイセン王子が王位を継承する頃、老人はまもなく帰らぬ人となる。あとには老人が書き残した、一冊の本だけが残った。
そんな矢先、平和だったアレン・ドーラの王国を、隣のガルシア王国が攻めてきた。普段戦争などしていないこの国の兵士たちは、百戦錬磨のガルシア軍勢になすすべがない。そこで、アレン・ドーラの王となったガイセンは、あの不思議な文章を戦に使う。
勢いづいたガルシア軍が、王宮に近づこうとした瞬間。足元にあらかじめ不思議な文章が書かれていて、突然地面が大爆発したかと思うと、一瞬にしてガルシア軍は総崩れとなる。そこからは形勢逆転となり、不思議な文章を多彩に活用し始めたガイセン王の軍は、ついには勝利を収めたのだ。
勝利に導いたガイセン王を、国の民は賞賛していた。しかし、これに味をしめたガイセン王は、次々に他の国も不思議な文章を利用することで占領していく。自分は父よりも素晴らしい名君なのだということを人々に知らしめてやりたいがためだけに、行なっていた。そして、おもしろいようにアレン・ドーラの国土は広がっていった。皮肉にも、人々の幸せを願って作られたその文章は、殺戮のために使われたのだった。
この頃になると、ガイセン王にもはや人の心はなく、ただ父を超えて世界の王になるという野望に、心を完全に奪われていた。
不思議な文章を駆使するアレン・ドーラの魔法団は、まさに無敵の軍隊だった。全く武器らしい武器を持たずして最強と言う呼び名をほしいままにしたアレン・ドーラの魔法団。この王国が世界を支配することになるのは、もはや時間の問題のように誰もが思っていた。
ところが、そんな栄華を手にしたアレン・ドーラの王国は、一瞬にして滅びることになる。どこからともなく現れた、フェニックスの白い勇者と呼ばれる一人の少年によって滅ぼされたのだ。
そして、世界に平和が訪れた。
と、大体こういうような内容だった。
読み終わったリルは、すぐに立ち上がった。
「そういうことだったのか! ランじいさんが帰ってきたら、一刻も早く報告しないと!」
8、謎の少女の絵
「おいリル。ランじいさんが来いって言ってたよ」
ドフが突然部屋のドアを開けるなり言った。
「あれ、一週間留守にするって言ってたのに」
「そうなんだけどさ、今日の朝帰ってきたみたいだよ。リルは朝寝坊するから、起きたら伝えておいてくれって頼まれたんだ」
「分かった、ありがとう」
ドフが出て行くと、リルは朝飯のパンを一枚食べた。蜂蜜を切らしているので何もつけていない。
代わりにミルクコーヒーに入れる砂糖を多めにして一口飲み、その口に残っている味でパンを食べた。
朝はミルクコーヒー、夜はミルクココア。これがリルの生活習慣だ。
食べ終わると、すぐにランじいさんの部屋に向かった。
今日もまた雨だ。
「こんにちは」
「おお、君か。中へ入りなさい。お土産にキャラメルポップコーンを買ってきたんだ。一緒に食べよう」
「ありがとうございます」
「さあ、そこに腰掛けて」
リルはランじいさんが進めるがままに、丸い背もたれのない椅子に腰掛けた。お尻のところに座布団が引いてあるので、尾底骨はあまり疲れない。
「実はですね…」
リルはアレン・ドーラのこと、それからアイラ嬢の絵のことをランじいさんに話した。
「やっぱり私がにらんだとおり、アレン・ドーラのおとぎ話と関係があったのか。そうか、そうか・・・。それで、君はアイラ嬢の絵に書いてあった文章はどんなものだったのか覚えているのかね?」
「いや、それはちょっと…」
「そうか。でもバレンス美術館は入館料を取られるから行くのはちょっとなあ」
「あ、それでしたら大丈夫ですよ。昨日から三日間50周年記念とか何かで無料なんですよ」
「なるほど。それなら今からこの本を持っていくとするか」
リルとランじいさんは、傘をさしてバレンス美術館へと向かった。
「また雨ですね」
「そうだな。でも、私は2日間ロインの町に行っていて、現地の人に聞いたんだけど、ここんとこ一週間雨は降ってないそうだ」
「へえー、そうなんですか。それじゃあ局地的に降ってるってことですかね」
「そういうことになるな」
「毎日のように雨が降っていて、カヌイ川の堤防は決壊しないんですかね?」
「間違いなく決壊するよ。これがずっと続いたらね。でも、それは今のところ気にする必要はない。やまない雨はないよ。この雨だっていつかはきっとやむし、絶対に大丈夫だから」
「そうですか…。ところで話は変わりますが、アイラ嬢の絵の文章は何を表しているんでしょうか」
「さあね。絵の中のアイラ嬢が知ってるんじゃないのかい」
「絵に書かれた文章を消すと、絵の中から本物のアイラ嬢が出てきたりなんかして…」
バレンス美術館に着くと、リルはアイラ嬢の絵のところに案内した。
「この絵です。触っちゃだめですよ。昨日僕は注意されましたからね」
本を開くと、黒い鏡のようなページの上を、美術館のシャンデリアの光がゆらゆらとゆれているのが見える。ランじいさんはアイラ嬢の絵の前で、本の文章と絵の文章との照合を始めた。
しかしやり始めてすぐに、ランじいさんは疲れてしまった。
「ちょっと君、代わりにやってくれないか。私は少し休んでるから」
そう言うとランじいさんはどこかへ言ってしまった。
リルがアイラ嬢の絵の近くに立つと、警備員がキッと厳しい眼差しでこっちを見てきた。昨日のことを考えれば無理もない。本をパラパラとめくってみると、ページ数が書いてないけれども全部で300ページぐらいありそうだ。この中から同じやつを探すとなると、かなりしんどい。確かに年寄りには無理だ。
面倒くさい気持ちと戦いながらも、調べ始めた。
1時間後、ついに同じ文章のページを見つけた。
ランじいさんはというと・・・。年寄りが居そうなとこを想像してみる。…あそこだ!
案の定ランじいさんは、廊下のベンチでうつらうつらと寝ていた。
「起きて下さい。同じ文章がありましたよ」
「おお、そうか」
ランじいさんを連れて再びアイラ嬢の絵の前に来た。
「どれどれ。うーむ。確かに同じだ」
ランじいさんは、そのページにアイラ嬢と赤い字で書き込んだ。
「よし、いったん戻ろう」
ランじいさんの部屋に戻ってくると、まもなくランじいさんはメモ帳を一枚破ってその文章を書いてみた。すると…。
8、アイラ嬢
外はまだ雨が降っている。風はないようだ。
少し古い茶色い明かりのランじいさんの部屋では、リルとランじいさんの二人がじっと一枚の小さな紙切れを眺めていた。
「この紙、何か起きたんですかね」
「わからない」
ランじいさんがしわしわの手をそっと伸ばした。
その紙切れを両手でつかみ、まるめたり広げたりしてみた。
「どうですか?」
「うーん」
ランじいさんは紙切れをテーブルに置き、首をかしげた。
「別に何ともないぞ」
今度はリルが紙切れをいじってみた。しかし、それはただの紙切れだった。
「文章を書き間違えたんじゃないんですか」
ランじいさんはテーブルにおいてある本のページと紙切れの文章を見比べてみたが、やがて首を振った。
「同じだよ。大丈夫だ」
リルとランじいさんは顔を見合わせた。
「どうして何にも起こらないんでしょうかね?」
「本当にどうしてなんだ?」
「この本の筆者が、文章を書き間違えたのかもしれませんね」
「ああ、そうかもしれないな」
ランじいさんは静かに目を閉じて言った。
「あるいはもう、何か起きているのかもしれないな・・・。ただ、私達が感知できないでいるだけかもしれない・・・」
「えっ…」
リルはアイラ嬢の絵を思い出してみた。
あの絵には、どうしてアレン・ドーラの文章が書いてあったのだろうか。肩にかかるくらいの赤い髪に、白いドレスを身にまとい、悲しみの表情を浮かべた少女の絵…。あの絵は一体…。絵の中にアイラ嬢が閉じ込められてでもいるというのか?
「少なくともこの文章に何か効果があるということだけは、間違いないと思いますよ」
「どうしてそんなことが言い切れるんだね?」
「だって、意味がないならどうしてわざわざ絵に文章を書く必要があるんですか」
「そりゃそうだ。うーん」
目を閉じたままだったランじいさんは軽く目を開き、何かを思い出したかのようにして静かに話し始めた。
「確かバレンス美術館は明日まで無料なんだったね。とりあえず、明日またバレンス美術館に行ってみよう。あそこの館長とは古くからの知り合いでね、彼なら何か知っているかもしれない」
9、孤独な芸術家
翌日、再び二人でバレンス美術館に行った。
また今日も雨だ。
「よし、今日こそアイラ嬢の謎を解こう」
「そうですね!」
絵になんかまるで興味がないリルが、ついに3日連続で美術館に通う羽目になってしまった。
リルはランじいさんとともに関係者以外立ち入り禁止の部屋の方へと進んだ。
館内の赤いじゅうたんは少しも汚れていない。
毎日のように雨が降っているのに、どうして汚れていないのだろうか。よっぽど掃除に命をかけているらしい。入館料無料なのに、全く割の合わない話だ。
関係者以外立ち入り禁止の部屋の中に入ろうとすると、慌てて警備員が来た。
「すみません、お客様。恐縮ですが、こちらの部屋は関係者以外立ち入り禁止になっておりまして…」
「私はラン・ジリーニ・デルという者だ。ここの館長のジャンとは古い友達なんだが、会わせてもらえないだろうか」
「館長のお知り合いですか? 少々お待ちを」
そう言うと、その警備員は立ち入り禁止の部屋へと入って行った。
待ちながら、ランじいさんはリルに小声でつぶやく。
「彼にはアレン・ドーラの文章のことは、内緒だからね」
警備員は、まもなく一人の老人を連れて戻ってきた。
「ランじゃないか。久しぶりだな」
「ジャンも元気そうだな」
ジャンという老人は、髪の毛はほとんどないが、白いひげを生やしていた。細いやさしそうな目をしていて顔はしわだらけだけれども、どこか気品のある顔立ちをしている。
「わざわざ尋ねて来て、今日は一体どうしたんだ」
「実は、この館内に飾ってある絵について少しばかり聞きたいことがあってね」
「ほう、どの絵だ。案内してくれ」
二人はジャンを、アイラ嬢の絵のところへと案内した。
「この絵だ」
ジャンは絵の前に立つと、すぐに手をポンと叩いて言った。
「ああ、なんだ。何かと思えばタルサーム伯爵の、娘さんの肖像画じゃないか。この絵が一体どうかしたのか?」
「タルサーム伯爵?」
「カースブレッドに住んでいたんだ。彼の娘が中学校に上がったのを祝って描かれた絵らしい。この絵は三年前に出来た絵だから、アイラ嬢は今高校一年生じゃないのか」
カースブレッドは、リーン・バードの東に位置する町だ。とはいっても、カヌイ川を渡り、それからかなりの距離を行かなければいけない。このあたりは、町と町の距離が相当あるのだ。それゆえに一番近い町に行くのも困難で、商売人以外は積極的に街から出ようとはしないのだった。
(アイラ嬢、今現在実際に存在する人物だったのか! しかも俺と同じ学年だったとは!)
ジャンの話を聞いたリルは、驚きを隠せない。
「ジャンよ、この絵の作者は誰だかわかるか?」
「作者はタルサーム伯爵自身だ。ほら、絵の右下に書いてあるだろ?」
ジャンは絵の右下を指差しながら言った。
ジャンは顔を近づけて、字のあたりを注意深く凝視した。
「えーと、読みにくいサインだな。いや、サインというよりもこれは…。何だ? 見たこともない文字だな…。んん、これはひょっとして! いや、そうだ。間違いない。間違いないぞ!」
ジャンの声にランじいさんとリルは驚く。ひょっとして間違いないってまさか、ジャンもあの不思議な文字を知っているのか・・・?
「何が間違いないんだ?」
ランじいさんは一応確認のために聞いてみた。
「この絵は以前、ちゃんと作者の名前がサインしてあったんだ。それが…どういうわけか、上から消してこの変な文字に書き直されている」
「ええっ!!」
二人は顔を見合わせた。
作者の名前をわざわざ消して、この不思議な文字に書き直した…。一体何のためにそんなことをするのか?
「ジャン。どうしてそんなことになっているんだ?」
「わからない。ただ…」
「ただ?」
「この絵は、もともとはここ、バレンス美術館に飾っていた絵ではないんだ。2年前、この絵は3週間だけタルサーム伯爵から借りてこの美術館で飾ったんだ。その後返したんだけれども、この絵をもう一度見たいという地元住民からの依頼が殺到してね。それで去年、伯爵から買い取ったんだ。彼は、妻と娘を連れてその後引っ越してしまった。どこへいったかは知らないがね。・・・ところで、他にも彼が描いた絵はうちの美術館に飾ってある」
「それはどの絵なんだ?」
ジャンは絵から顔を離してリルたちのほうを向き、右に指を差した。
「こっちだ」
ジャンは別の人の絵をリルたちに紹介した。
その絵は、赤い髪のさえない顔をした中年のおばさんの絵だった。その女性は水玉模様の服の上にエプロンをし、頭に三角巾をしている。題名には、タルサーム夫人と書いてあった。
「この絵は伯爵が結婚20周年のお祝いに、奥さんに書いてあげた絵なんだ」
絵をじっと見ていたランじいさんが、不思議そうな顔をして言った。
「貸すだけならわかるが、娘の絵といい夫人の絵といい、どうしてタルサーム伯爵は、自分で描いた思い入れの多い家族の絵を、簡単に売り渡したりするんだ? そんなのは普通、大事に家にとっておくものだろう?」
ジャンは、少し困った表情をしていたが、やがて口を開いた。
「その、なんていったらいいか…。彼は完璧主義者でね。彼は自分が描いた人物画を、実物の寸分も狂いがないものに仕上げたかったんだ。ところが人というのは生き物だろう? 実物の寸分も狂いがないものを描くなんて、そもそも無理な話なんだ。それが気に入らなくて彼は、別に家族の絵だけではなくて、すべての絵を彼自身の手で売り払ってしまった。それと…これはあまり関係のない話かもしれないが…。ここだけの話、これは私のカースブレッドに住む友人が言っていたのだが、ときどき伯爵は怒り狂い、家の中で暴れていたらしい。それも、何の前触れもなく突然それは起こるそうだ。それがなければ普段はいい人なのだが。それに奥さんと娘は、ひどく悩み苦しんでいたそうだ。彼の優秀な画家としての繊細な感性は、裏をかいせば病的なまでのヒステリックな神経だったんだ。そう、・・・彼は孤独な芸術家なんだ。それでも彼の絵のすばらしさは、多くの人々に認められているがね。というよりも、今の話を知っている人は、ごくわずかしかいないのが現状だが」
リルはアイラ嬢に同情を抱くとともに、彼女が今どういう生活を送っているのか知りたくなってきた。
「アイラ嬢と会うにはどうすればいいでしょうか?」
しばし流れていた沈黙を破ったリルの言葉にはっとしたジャンは、その表情のままリルを見た。
「そうか、君は確かアイラ嬢と同じ歳なんだっけかな。会いたいのなら、彼女の通っていた中学校の友達にでも聞いてみたらいいんじゃないのかね? 多分何か知っていると思うよ」
帰り道は薄暗い。
ランじいさんが、雨にかき消されそうな弱々しい声で言った。
「アイラ嬢と会ってどうするんだね?」
何て答えようか、言葉に悩む。
「・・・わからないです。ただなんとなく、会ってみたいなあとふと思いまして…。特に深い意味はないんです。単なる思いつきです」
「そうか」
傘をお互いさしているので相手の表情はあまりよくわからなかったが、ランじいさんはなにやら考え事をしている様子だった。
やがて何かを決心したのか、静かに言葉を発した。
「明日、私の部屋に来なさい。大事な話がある」
「え…あ、はい。…わかりました」
そこからは、二人とも一言も話さなかった。
永遠に降り続く雨の音だけが、リルの耳には聞こえていた。
10、旅立ちのとき
冷たいミルクコーヒーをゴクゴク飲んでいると、昨日の光景がリルの脳裏に浮かんできた。
「大事な話って一体なんだ? 話ならあのまま帰り道に話せばよかったのに。年寄りはやたらともったいぶる傾向があるよな」
リルはミルクコーヒーを全部飲みほして、ランじいさんの部屋へと向かった。
「ランじいさん、おはようございます」
「おお、入りたまえ」
ランじいさんは起きたばかりなのか、眼がとても眠そうだ。
椅子に深く腰掛けながら、大きくあくびをした。
「君がこんなに早く起きるとは思わなかったよ」
外からは雨音が聞こえる。また今日も降っているようだ。
「それで、大事な話とは一体なんでしょうか」
「うん、そのことなんだけどね」
ランじいさんは煙草に火をつけて口にくわえた。ふうっと出した息は、薄い白い煙そのものだった。
「君にこの本を、あげようと思うんだ」
「ええ! どうしたんですか、急にそんなことを言い出すだなんて」
ランじいさんは煙草の先端の灰を、灰皿にちょんちょんと落とした。
リルはそんなことはお構いなしに、ランじいさんの眼を見ていた。
「私は見てのとおり、もう年だ。これ以上君と一緒に行動することは出来ない。本のことは別に、他の誰かに話しても構わないよ。ただし、君が信用できる人だけにね」
そう言うと、ランじいさんは煙草を口にくわえながら左手に本を持ち、リルの方へ差し出した。
「あ、ありがとうございます!」
リルは深々とお辞儀をした。
ランじいさんは本を探すことを頼みにきたときと同じように無表情であり、黙って煙草を吸いつづけた。
リルは、受け取った本を大事そうに両手で抱え込んだ。
心の中は、ワクワクする気持ちで一杯だった。
リルがドアの前に立ち、部屋を出ようとすると、ランじいさんは煙草の火を消しながら言った。
「困ったことがあったら、いつでも来なさい。力になるから」
ランじいさんは、軽くニコッと笑った。
リルは、その言葉と笑顔がうれしかった。
自分の部屋に戻ってきたリルは、椅子に座ってあの本を読み始めた。とはいったものの、なんて書いてあるのかさっぱりわからない。
とりあえず、リルは火がつく文章のページを開き、実際に紙に書いてみた。
書いた紙をフライパンの上に置いてみると――――
「・・・おお、火がついた! すごいすごい! ほかのもいろいろと試してみるか。えーと・・・」
リルがあっちこっちページをめくっていると、あの恐ろしいことが書いてある箇所を思わず見てしまった。
危険、禁止…そして、世界の終わり…。
「結局、これって何を意味してんのかな? ・・・試しに書いてみるか? ・・・いや、書いてみて、もし万が一のことがあったら・・・」
リルは、椅子に深く座りなおし、ため息をついた。
いくつものクエッションが、頭の中に浮かんでは消えてゆく。それを何回も繰り返していた。
「この本は何のために書かれたんだ? 世界の終わりとか書いてあるし、やっぱり世界を滅ぼすために書かれた本なのかな。・・・この本をもらった俺は、これから何をするべきなんだ? このまま一人で、今までどおり調べていくべきなのか? それとも、直ちにこの本は処分した方がいいのかも・・・」
どうしようもないくらい不安な気持ちで一杯だった・・・。
受け取ったときはよかったが、今目の前にある事実は、一人で抱え込むには荷が重過ぎた。
足がガタガタと震えてきたり、周りを思わずきょろきょろ振り向いてしまったりして、なんとも落ち着かない。
「落ち着け、俺! リルよ、落ち着くんだ。冷静になれ!」
そのとき外でピカッと雷が光り、少し時間差でゴロゴロっと音が鳴った。リルは思わず床にうずくまり、ぎゅっと目を閉じた。
再び椅子に腰掛けながら、縮こまって考える。
「だめだ・・・。一人では無理だ。仲間がほしい・・・。一緒に考えてくれる仲間が・・・」
ふと、さっきランじいさんが言っていた言葉が思い出された。
『本のことは別に、他の誰かに話しても構わないよ。ただし、君が信用できる人だけにね』
「信用できる人、か。かつては俺も、ランじいさんに信用できないと言われて拒否されたっけな。俺にとって信用できる人・・・。考えてもわからないな。とりあえず、身近な仲間にだけは知らせておこう。何か、突破口が生まれるかもしれない」
リルはメッキの剥げかかった金属製の小さな引出しから、そそくさと何枚か紙を取り出した。手紙を書き、身近な友達にことの詳細を伝えるつもりだった。
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