ごはんのこと 3

1/1
88人が本棚に入れています
本棚に追加
/21ページ

ごはんのこと 3

   気まぐれな猫みたいな男の言うことだから半ば冗談として受け取っていたのだが、黒川は自身の宣言通り毎日僕にごはんを作り続けた。  最初の頃は「長崎くん、何食べたい?」と問われても、自分が何を食べたいのかさっぱり思いつかなかった。「お任せします」としか返さない僕に、「そういうのが一番困るのよね」と黒川はおどけてみせる。  けれど、二人で食卓を何度か共にするうちに、不思議と頭の中に食べたいものが浮かぶようになってきた。と言っても、それはあの店の何が食べたいといったアグレッシブな欲求ではなく「この間作ってくれた厚揚げにチーズ挟んだやつ美味しかったです」と、黒川にリクエストをかます程度に留まる。  そんなこんなで、三週間。食べるのは大概朝を兼ねた昼食と夕食だから、単純計算で四十二回ほど黒川の”働き”を口にした事になる。  「これ、おいひいです」  熱々の肉団子を頬張りながら、飲み下すのを待てずに感想が口をついて出る。  今日も黒川と二人、夕食のテーブル(テーブルというよりは黒川がドンキで買ってきたちゃぶ台だ)を囲んでいるところだ。  「昨日の餃子の材料が余ったからさ。やっつけみたいで悪いんだけど」  「いえ、むちゃくちゃ美味しいですよ」  「そう。よかった」  よかったの言葉通り黒川は嬉しそうに微笑むと、缶ビールのプルタブを開けた。グラスを使わずそのままグビリとあおる。  僕にも勧めてきたので、一本だけ貰う事にした。お酒は好きだけど、強い方ではない。  一見生活感が希薄に見える黒川は、案外堅実な一面があった。ぼんやりした僕のリクエストを聞きながら、計画的に数日分の献立を組み立てるのだ。  「これ、なんて料理なんですか?」  「特に名前とか分かんないけど。豆乳で白菜煮て、肉団子作って入れたやつ」  「まんまですね」  「まんまだよ」  リュウの料理には名前があった。アクアパッツァとかカポナータとか、僕にとって謎めいた名詞で括られる食べ物だ。  リュウは料理が好きだったし、僕はリュウが好きだったからそれらの全てを美味しく感じた。が、僕たちの食事はいつも断片的だった。一食のために揃えられる材料は、次の食事に使われる事はない。  明日に繋がらない美しい一皿を、いつも不安と幸福を綯交ぜにしながら味わっていたような気がする。  ビールで口が滑らかになったせいか、気が付くと僕はその事を黒川に話していた。リュウの事を掘り下げるつもりなんて無かったのだが、餌付けされるかの如く自分はこの得体のしれない男に気を許し始めているのかもしれない。  「別に料理のせいだけじゃなく、僕はいつも怯えていたんだと思います」  「何に?」  「リュウが居なくなっちゃう事についてです。だから、食費や住む場所を提供する事で彼を繋ぎとめようと思ったけど、仕事なくなっちゃったし。そしたら、まんまとリュウは出て行った」  お金の話で一瞬我に返る。そういえば、黒川に食費を渡していなかった。  「あ、今更ですけど、食材いつも買ってきて貰っちゃって――」  急に慌てる僕に黒川は「今、いいから」と制し、話の続きを促す。  「リュウは僕の事を好きではなかったけど、嫌いでも無かったと思うんです。だから、生活出来る程度のお金しか渡せない僕と一緒に居てくれたんじゃないかな」  「長崎くんは、逆にそんな彼を好きだったの?」  「好きでした」  珍しく断定的な口調で答える僕に、黒川は少し意外そうな顔をする。  「僕には友達が居ません。高校の頃からの思い込みが根深く自分の中に巣食ってしまって、ずっと動けないんです。それを、少しだけ解放してくれたのがリュウでした」  高校の頃、僕は虐められてはいなかった。ただ、クラスのどの輪に入る事も出来なかっただけだ。いや、自ら入ろうとしなかったのだ。  ゲイバレしたのに、何か明確な事件や事実があった訳では無い。  ただ、何となくそんな雰囲気が僕の内側から駄々洩れていたのだろう。思春期なんだ、仕方がない。  「アイツはどうやら、ソッチらしい」という噂が流れ、囁かれる陰口に僕は抵抗する気を起こさなかった。  だって、そうだろ?  そもそもの存在自体が地味な僕の事だもの。人気者が転落するのとは、訳が違う。  世間話レベルで取り上げられる自分の話題なんか、放っておけばいつか空気みたいになる。そう、ちょうど僕みたいに。  「長崎くんは、学校に好きな人は居なかったの?」  「居ましたけど、別にどうなろうとかは無かったです。普通にノンケの人だったと思うし。その頃は僕の自己評価は既にどん底だったから、見ているだけで――みたいなのもおこがましい気がしてしまって。僕が好きなだけで、相手が汚れるとか思っちゃうレベルでした」  「そりゃあ、重症だね」  「もう、病気ですよね」  当時のヒリヒリしていた自分を思い、僕は少しだけ笑ってしまう。今考えると、逆に自意識過剰だけれど、その頃は大真面目に閉じていたのだ。  「高校、大学と順調に空気になり続けた僕は、社会人になって会社も組織も何も関係ないところでリュウと出会いました。こんな風に言うと大仰ですよね、単にナンパなんだから。しかも、そういう場所で」  「長崎くんもそういうトコに行くんだね。誰かに誘われて?」  「いえ、言った通り僕は友達が居ないので、普通にネットで調べて行きました。かなり緊張したし、お店に辿り着いた時にはもうそれだけで満足しちゃってた気がします」  「声をかけてきたのは、リュウくんから?」  「はい。空気だった僕を認識してくれたんです。それだけでもう、好きでした」  黒川は「そっか」と言うと、殻になったビールの缶を軽く握り潰して二本目を台所に取りに行った。  「長崎くんもビール要る?」  冷蔵庫の前で確認してくれる黒川に「僕はもう大丈夫です」と丁重にお断りする。体重が落ちてから、更に酒が弱くなったようだ。一缶空けただけで、世界がふんわりと優しく感じた。  「けどさ――」  戻って来た黒川が何やら不満げに口を開く。手にしてるのはビールでなく、缶入りのレモンサワーだ。途中で心変わりしたらしい。  「俺だって長崎くん見つけたんだから、ロジックで言えば好きになって貰える筈なんじゃないの?」  「リュウの時とはシチュエーションが違うし、そもそも僕は失恋したてだったんで」  「したてって事もないでしょ。リュウくん出て行ってから一カ月くらい経ってたんでしょ」  確かにその通りだが、簡単に傷が癒えるみたいな言い方をされると何だかムカつく。  「そんな単純な話じゃないし。そもそも、黒川さんこそ僕の事なんか本当に好きなんですか?」  「長崎くん、また自分を卑下するような言い方する。好きじゃなかったら、三週間もこの家に居ないよ」  「けど...その三週間、全然手を出して来ないじゃないですかッ」  言葉に出してから、しまったと後悔する。目の前の黒川が瞳を見開くのと同時に、僕の頬は赤く茹で上がった。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!