ごはんのこと 1

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ごはんのこと 1

 ワンチャン冗談かと思いきや、黒川は当然のように僕の後を付いてくると遠慮の欠片も見せずに家の中へと上がり込んできた。  「うーわ、想像通りに荒れてるね。長崎くんは裏切らないなぁ」  散らかり放題の部屋を見渡して、黒川が何故か嬉しそうに感想を述べる。  アパートの二階の1DKが、大量のゴミ袋と脱ぎっぱなしの服やら何やらで溢れかえっているのは言われなくても分かっている。――分かってはいるのだが、どうにも掃除する気になれないのだ。  いや、掃除に限った事では無い。碌に食事も摂らず、殆ど外出もせず、かと言って部屋の中で何する訳でも無く一人ぼんやりと過ごす、そんな僕の日常は無気力そのものと言えるだろう。  仕事をクビになり、同棲していた恋人が出て行ってからの一カ月はずっとそんな感じだ。  「ねぇねぇ、これってどこで寝んの?」  「......」  「長崎くん?」  「あ、ごめん...なさい」  猫の脱走からラブホを挟んでの珍客乱入、という目まぐるしい展開に頭が付いていかないらしい。気が付くと、茫然と佇む僕を黒川が呆れたように眺めていた。  「もう、立ったまま寝る気?」  「流石にそれは無いです」  目の前の黒川を押し退けるようにして、足元に散らばるゴミ袋を乱暴に拾い上げる。寝床はあるのだ。ゴミや洗濯ものを払いのけさえすれば。  ただし、布団は一つだ。恋人の分は捨ててしまった。匂いが染みついていて辛いから。  「ここ使ってください。気持ち悪くなければですけど」  やっと姿を現した万年床を、黒川に明け渡す。  「長崎くんは、どうするの?」  「適当に台所とかで寝ます。布団、これしか無いんで」  黒川は暫く思案すると、何かの企みを含んだ笑顔で僕を覗き込んだ。  「ねぇ、長崎くん」  「...なんでしょう?」  「一緒に寝ようよ。寒いしさ」  「え、ここで?...ですか」  「だって、ここしかないんでしょ?」  「いやまぁ、そうだけど...」  ――やはり、ホテルでの中途半端な行為が不満だったのだろうか。  僕のに触れながら黒川も方も固くしていたのは分かっていた。中途半端な状態で僕が拒否ったからバスルームで抜いたのかな、などと都合の良い解釈をしたのだが...。  そんな逡巡を察してか、黒川は困ったように笑いながら僕の手をふわりと取った。  「長崎くん、そういうんじゃ無いから心配しないでよ」  「心配というか――」  「後ろめたいんでしょ」  「......」  図星を突かれて更に後ろめたい気持ちになる。  図々しいように見えて、黒川には想像力がある。卑怯で陰鬱な僕の心情を見事に言い当て、そして何故か親切にフォローするのだ。  「ほら、もう朝になっちゃうから寝ようよ。俺、もう限界だしさ」  握った手を強引に引っ張られ、布団の中へ招き入れられる。  一瞬、抵抗を検討するも、僕も心身ともに疲労しきっていた。なんでもいいやという気持ちになって、結局は素直に寝床へと収まる。  「うーさむっ」  薄っぺらいせんべい布団の中で、黒川が身に着けていたダウンとカーディガンをゴソゴソと脱ぎ捨てる。「誤解しないでよ」と言いながら、ズボンと靴下も布団の外に放り投げる黒川は、身軽じゃないと上手く眠れないそうだ。  僕は特に拘りが無いと言うか、仕事が忙しかった時は会社のデスクで仮眠して朝を迎えるみたいな事がしょっちゅうだったせいか、どんな環境であっても眠れるという妙な特技を身に着けていた。もっとも最悪が重なったこの一カ月は、ストレスで常に不眠という状態ではあるのだが。  「長崎くん、そんな着こんだまんまで肩こんないの?」  「別に、気にしないです」  「そっか」  なるべく身体が密着するのを避けようとするが、狭い布団の中では限界がある。それに、「寒いから離れないでよ」と黒川がひっついて来るのだ。  引き剥がそうかとも思ったが、Tシャツを通して伝わる肌の感触はホテルでシャワーを浴びたのが台無しなくらいに冷え切っていた。  何だか申し訳ないような気持ちになって、黒川に背をむけつつも身体を離すのを諦める。  「痩せてんのに長崎くん体温高いね」  背中から黒川のくぐもった声が聞こえる。眠気のせいか語尾が曖昧で、その言葉は何だかひどく幼く響いた。  「...黒川さんは、なんで僕と一緒に居たがるんですか?ヤリたいって言っててヤレてもいないのに」  「うーん...別に俺がしたいようにしてるだけなんだけど」  ――したいようにしているのは分かる。黒川の表現を借りる訳ではないが、まるで身勝手で美しい猫みたいな男だと思った。  「僕、何にも返せないっていうか、何にも持ってないですよ」  「そんなの俺だって――」  言葉が途中で寝息に代わる。  スゥスゥと甘やかに繰り返されるリズムにつられるように、いつしか自分も深い眠りに落ちていた。  
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