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ごはんのこと 2
朝チュンならぬ高く登った日の光で目が覚める。どっちにせよ、昨晩ヤッた訳じゃないけれど。
隣で寝ていた筈の黒川の姿が無い。
――帰ったのか?いや、昨晩の事自体が全部夢だったのでは...。
混乱と共に眠い目を擦りながら身体を起こすと、バターの香りがふわりと鼻先をくすぐった。
――?
「あ、長崎くん、起きた?」
台所から朗らかに顔を覗かせる黒川は、夢ではなく確実に現実世界に存在していた。
「コーヒー飲みたかったから台所漁ったんだけど、粉どころかカップも無いんだもん。そんで、スタバ行こうとしたら、スタバも無いからさ」
朝っぱらから、いやもう昼だけど――ハイテンションな黒川が、台所でいそいそと立ち働いている。人の家で勝手に何をやってるんだと思いつつも、食欲をそそる香りに誘われて僕はのっそりと立ち上がった。
「...スタバ、ありますよ」
「え、うそ。なかったよ」
「ありますって。家と反対の駅向こうの方」
「そうなんだ。残念」
黒川は、ちっとも残念じゃなさそうな笑顔でフライパンを片手に振り替える。
「で、何してるんですか?」
「だからさ、スタバが無かったんだよ」
「はい...?」
「けどさ、ドンキはあってさ。まぁ、ドンキあんならスタバもあんだろって、俺ももう少し粘れば良かったんだけどね。まぁ、いいや。で、長崎くんち何もなかったからちょうどいいかなと思って、ドンキで色々買ってきた」
黒川が身体をずらすと、物置と化していた台所には見慣れない調理器具や食材が姿を現す。
「...ちょっと、流れが分かんないんですけど」
「言った通りだよ。長崎くんとコーヒー飲もうと思ったんだけど、何も無いしスタバも無いからさ。どうせなら、朝食も作っちゃおうと思って道具と材料買って来たんだ」
「僕と...?」
「そこ?」と黒川は笑い、もう出来るから顔洗ってくるようにと母親のように言った。
「うまっ」
一口食べて、思わず素の声が漏れた。
「よかった」と黒川が満足そうに微笑む。
即席の調理器具とコンビニで揃う食材で作られた朝食は、ハムを添えたスクランブルエッグとフレンチトースト、コーヒーというメニューだった。
ちなみに、コーヒー以外は全てフライパンだけで作れるという事実を、僕は知らなかった。調理は全て恋人が担当してくれていたから。
「長崎くんの家は、散らかってる割には何にもないんだね」
「色々捨てちゃったので」
「それって、出て行っちゃった恋人さんの思い出にまつわる的な?」
「...普通聞きにくい事を、黒川さんは普通に聞きますね」
「俺、デリカシーに欠けるからね。やだった?言いたくなかったら、別にいいけど」
別れた恋人の話をするのが嫌な訳では無い。いや、今まで話す相手すら居なかったから、それが辛いのかどうかもよく分からないのだ。
ただ、この黒川という僕の人生に無関係な男には、何となく話してもいいかなという気になった。そもそも、出会いからして情けない姿を晒している訳だし。
「料理は、いつもリュウが担当してくれてました。だから、道具も全部アイツが揃えてて。コーヒーカップもまんまとお揃いだったし...」
「リュウくんっていうんだ、元恋人」
”元恋人”という単語に胸の奥がきゅっと掴まれる感じがするが、痛いという程ではなかった。むしろ、言葉にしてしまうと潔いというか、分かりやすいというか...要するにそれだけの事なのだ。
「はい。ただ、本名だったのかとかは分かんないです。出会いもナンパだし、同棲っていっても僕の家にアイツが転がり込んでただけなんで」
「なんだ。じゃあ、俺と一緒じゃん」
口いっぱいにパンを頬張りながら事も無げに言い放つ黒川を、一瞬きょとんと見つめてしまう。そして、僕は自分でも意外だけど小さく噴き出してしまった。
黒川が不審げに眉根を寄せ、口の中のものをゴクリと飲み下す。
「なんだか、黒川さんは物事を簡潔にしますね」
「え、どういうこと?」
「ウジウジ考えてる方が馬鹿らしいって事です」
「それって長崎くんにとってはいいこと?」
「そうなるといいと思いますけど」
「そっか」と言って、黒川がふわりと笑う。
”俺と一緒じゃん”というが、黒川のその笑顔はリュウのそれとは全く違っている。登り切った昼の日差しのようにのんびりと取り返しがつかない――諦めを許してくれるような、そんな感じだ。
「ねぇ、長崎くん」
話題を変えるように黒川がコーヒーを啜る。
「なんですか?」
「昨日、俺たち一緒に寝たじゃん?」
寝たじゃんの意味に一瞬戸惑い、僕はパンを喉に詰まらせて咳き込む。
「大丈夫?長崎くん」
「うん」
ゴクリとコーヒーを飲み干す黒川の喉ぼとけが何だかいやらしく目に映ってしまい「大丈夫だから先を続けてください」と、僕は話の続きを促す。
「長崎くん、痩せてるよね」
「はい...?」
「それって、前から?」
「元々貧弱だったけど、最近何も食べる気しなかったから。痩せたんですかね?」
「ヘルスメーターとか無いの?」
「あるように見えます?この部屋」
「確かに」
黒川は暫く考え込むと、何かに思い当たったように「長崎くん」と僕の目を見据えた。
「君は自覚してないかもしれないけど、明らかに痩せすぎだよ。昨日一緒に寝てて、正直骨ばった体が当たると、何かぎこちない感じがした」
”ぎこちない”がしっくりこなかったが、黒川が言いたい事は何となく分かる気がする。
「不快な思いをさせちゃってスイマセン」
「いや、不快とかじゃないよ。ただ、心配で心許無くなったんだ」
「僕なんかのためにですか?」
「やめなよ長崎くん、そういうの」
「はぁ」
何をやめれば良いのか、黒川が言いたい事が今一つ分からない。そんな僕の心境を慮ってか、黒川はとても明確な実装方法を提案してきた。
「ねぇ、長崎くん」
「はい」
「俺、結構料理は上手なんだよ。いや、料理に限った事ではなくて、俺って大概の事は上手く熟せちゃうんだけどさ」
「それはそれは」
傍若無人な態度に歯向かうべく多少の揶揄を込めて相槌を打つか、全然効いていないようだ。黒川は自身のペースを崩さずに続ける。
「ただここで飼って貰うだけだと申し訳ないしさ。せめて、長崎くんの元カレくらいの働きはしないとね」
「...働きですか?」
「そう。だから、ごはんをね」
「はぁ」
「ごはんを作ってあげるよ、毎日。そうだな、長崎くんにまともな体力が戻るまでとか」
「はぁ...」
はぁとしか繰り返せない僕は、それでも口の中で甘く溶けるフレンチトーストを久しぶりに美味しいと認識していた。
この一カ月口にしていたファーストフードや菓子パンやピザは、何を食べても全て同じ味がしたのだ。いや、味なんてしなかった。惰性で、動けなくなると何かを口にしていただけだった。
菓子パンやファーストフードが悪い訳ではない。僕だって、昼休みや学校の帰りに友達と笑い合ってそれらを食べる思い出があったら、口の中で砂を食むような気持にはならなかったかもしれない。
リョウとああだこうだと話しながら食べるごはんは美味しかった。今、飲み下したフレンチトーストみたいに。
それを思い出した途端、堪えきれずに涙が溢れた。
「長崎くん!?」
笑ったり、泣いたり、短い時間で情緒不安定に表情を変える僕に黒川が戸惑う。
「あの...」
「なに?言いたい事あったら言って」
「うれしいです。ごはん作ってもらえたら」
「ああ、うん。全然オッケーだよ」
受け入れて貰えた嬉しさに加えて、飄々と本性を見せない黒川が動揺する姿に僕はちょっとだけザマァミロと思ってみた。
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