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「これは、例えばの話なんですけど」
隣に座る彼女はしばらく黙っていたが、少し間をおくとそう言って切り出した。
「目の前にいる人間が、死にたいと主張し始めたとするじゃないですか」
「……お、おお」
「人間、生きていれば死にたいと思うこともきっとあるでしょう。それ自体を否定するつもりはありません。一方、対峙する私は二つの問題を抱えています」
グレーのスーツに細身のメガネをかけた彼女は、明らかに仕事のできる女性といった雰囲気を漂わせていた。理路整然とした喋り方が既にそれを物語っている。
「第一に、私は死にたいと思ったことがない」
「すごいな、一度も?」
「一度も」
きっぱり言い切った彼女は、目の前をまっすぐ見据えた。
「私はやり残したことが大量にあります。読みかけの小説のラストが気になるし、録画したドラマに全然手がつけられていないし、月末には友達と新しくできたカフェでお茶する予定が入っています。剥げかけたネイルの予約だって取ってあるのに」
「今のその爪も充分綺麗だが」
「ありがとうございます。ごまかしのプロと呼んでください」
艶やかなブラウンの爪に、品のいい金のラメが彩られている。色の取れた部分に、後からラメをのせると馴染むのだと彼女は語った。
自分にはおよそ縁のない話に感心していると、彼女は肩をすくめた。
「私は目の前で死にたいと主張している人間に対して、共感を示すことができません。かと言って、頑張って生きようよとか、そんなこと言わないでとか、そういう返事をするのも違うなと思うわけで」
「違うなと思うのか?」
「ええ。目の前の人間は、あくまで死にたさを主張しているので」
穏やかな秋風が吹き、頭上から楠の揺れる音が聞こえてくる。
「……第二の問題を聞こうか」
「この例え話には続きがあるんですけど、目の前で死にたいと主張する人間は、私に向かって『一緒に死のうよ』と誘ってくるわけです」
「げっ、なんだよそいつ」
「あくまで例え話です」
彼女は営業まわり中で、一休みをするためにこのベンチに立ち寄ったらしい。
あまりに長い間、何をするでもなく座っていたのでつい声をかけてしまったのだが、選択を完全に誤ったかと後悔し始める。
「先ほども説明した通り、私は死にたいと思ったことがありません。よって、誘いに乗る選択肢は存在しません」
「非常に明快な回答だな」
「ところが、死にたい人間は食い下がってきます。『どうしたら一緒に死ねるのか』と」
「……例え話なんだよな?」
「そういう体で話しています」
不穏な返事にこちらが黙っていると、彼女はおもむろに両腕を組んだ。
「死にたい人間と生きたい人間の折衷案を探るのは非常に難しいです。しかし目の前の死にたい人間は必死なので、私も一生懸命考えます。その甲斐あって、私はとっておきの解答を見つけました」
「すごいな。で、その解答って?」
「お互いに寿命を全うして、たまたま寿命の長さが同じだったら一緒に死ねる」
「た、確かに……」
「世の中、結構そういう話聞くじゃないですか。仲のいい老夫婦がいて、おじいさんが亡くなった三日後におばあさんも亡くなるとか。これなら、一緒に死にたいという意思を尊重しつつ、生きたいという私の意思も尊重されるわけです。これ以上の解答はないでしょう?」
「美しい結末ではあるな」
「残念なことに、一つデメリットがありまして。なんだと思いますか」
「あまりに先が長すぎる、とか」
「まあ、当たらずといえども遠からずという感じですね」
気づけば秋の日差しは傾き始め、楠の影も少しずつ色濃くなっている。
「デメリットは、死ぬまであとどれくらい時間があるのか、誰にもわからないことです。もしかしたら二人とも健康優良児で、百歳超えてもピンピンしているかもしれない。あるいは明日、二人で歩いている時に大型トラックが突っ込んでくるかもしれない」
「どちらにしても極端な事例だが」
「でも、このわからなさが、いい塩梅に折衷案になっていると思ったんですよ。死にたい人間と生きたい人間の」
はたから聞いていて、滅茶苦茶な話だと思った。
死にたい人間と生きたい人間の折衷案なんて、普通の人間であればまず探らない。
そんなものはこの世に存在しない。
淡々と語る彼女は、おそらく相当無理をしてその解答を導き出したのだろう。
「君の解決策は、結局受け入れられたのか」
「残念ながら。死にたい人間は今すぐ死にたいので、『どうして一緒に死んでくれないのか。冷たい奴だ』という返事になります」
「そいつは大丈夫なのか?」
「例え話ですから」
彼女は肩先で切り揃えられた髪を、何気なく耳にかけた。小さなシルバーのピアスが、音もなく揺らめいている。
「生きたいという主張をしたことによって、私は冷たい人間の烙印を押されました。……まあ、死にたい人間からすれば無理もないんでしょう。全く共感されないわけですから」
彼女の視線の先には、小さな拝殿が佇んでいる。
ぶら下がった鈴緒はすっかり色がくすんでいた。都内の一角にあるこの神社は立ち寄りやすいのか、比較的人の出入りが多い。
「ただ、私は別に、一人で生きたいわけじゃなかった」
「――」
「一緒に死にたいという人間と、一緒に生きたいと思っていました」
それまで淡々と話していた彼女は、一度言葉を切ると、視線をわずかに伏せた。
「第二の問題は、このジレンマに対する最適解が、全く見いだせないということです」
数刻前、彼女はふらっと神社にやって来た。
しかし参拝するわけでもなく、お守りを買うでもなく、楠の下にあるベンチにただ黙って座っていた。
神社に来て何もしない人間は珍しい。
初めは気に留めていなかったが、本当に何もしないので尋ねてしまったのだ。
「前置きが長くなってしまいましたが、先ほどの問いに対する答えはこちらです。この二人の願いを同時に叶える方法を教えて欲しい」
――何か、神様に願いはないのか?
「もしあなただったら、どう答えますか」
「答えないだろうな。そもそも、神様が返事をすることなんてない」
「鋭い指摘ですね」
彼女がふっと笑った時、振動音が響いた。ポケットから取り出されたスマートフォンには、新着メッセージの通知が点滅している。
「もう行かないと。ありがとうございました、例え話に付き合っていただいて」
「いや。先に尋ねたのはこちらだから」
ベンチから立ち上がった彼女は、こちらに視線を向けて言った。
「ちなみに、あなたは神様に何をお願いしたいですか?」
思わず口を開きかけた時、あたりに突然軽快な音楽が流れ始めた。
「すみません、それじゃ」
彼女は慌てて画面に触れ、スマートフォンを耳に当てながらカツカツと歩き出す。楠から離れていく足元には、細長い人影が伸びていた。
最後に残された問いを、脳裏で何度か反芻する。
もしも願いが叶うなら、自分は一体何を願うだろう。
自分が全く共感できない気持ちを否定することなく、生真面目に解決方法を模索するあの人間の気持ちを、肯定する人間が現れるように。
「……例え話に対して願ったところで、仕方ないな」
彼女が語ったのはあくまで例え話だ。
一体何を例えていたのかさっぱりわからないが、最後まで例え話という体のまま去って行った。あの話が本当に起こったものなのか、こちらには知るすべがない。
それに、彼女は結局何も願わなかったのだ。
だから、あの人間に今まとわりついている縁を、勝手に切ってしまうわけにはいかない。
自分の足元を見て、ゆっくりと目を閉じる。
境内には誰もいない。
薄暗くなった空の下、楠の葉の揺れる音だけが響いている。
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