神様のお座りになる大きな銀杏の樹の枝

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神様のお座りになる大きな銀杏の樹の枝

 銀杏の葉の金色に移り始めた。はてさてところで銀杏の黄葉は一体どこから始まるのだろう。樹のてっぺんのほうから。それとも一番下あるいは中間部あたりからだろうか。そう思いおちこちの銀杏を眺めてみても結局それは樹によってまちまちではないのか。その年の気象の状況と樹の立っている場所にもよるのか色づく時期も違えば黄葉の進み方も各々方!出会え!出会え!である。ある本には銀杏は枝先よりも枝元から先に黄葉の始まると説明のあるので上からか下からかは基本的には同じなのかもしれない。しかし銀杏の樹を眺めていると上の方から黄葉の進んでいるものもあれば下の方の枝の先に色づき始めているものもある。  山里の温泉地の真ん中を流れる小川の傍の神社の境内にも大きな銀杏の樹の一本立っている。その大木を少し離れて山櫻の2本枝を広げ樹下にはありがたき神の水の湧き出ている。境内の隣の空き地は温泉利用者の無料駐車場になっているので地元の人ばかりではなく湯に浸かりに来た人たちの大概は鳥居をくぐり社に掌を合わせ頭を垂れて行く。帰りにはちはやぶる神の水をありがたく頂戴し持ち帰る人も少なくない。わたしもその常連の一人である。神の湧水はどこか仄かに甘いとわたしは感じるけれどそれを言葉にして未だに共感を得たことはない。  境内の山櫻の花は早い。春されば敷地内の川に近い藪椿のダウンジャケットの袖に雪の降りかかる頃から咲き続ける紅色の花と山櫻花の一緒にそれ程広くはない境内を彩るようになる。淡紅色の櫻花の上の空には骨格標本のような銀杏の大木の透かして見える。そして境内の花の終わる頃から裏山の広葉樹の若葉の次々と萌え出て銀杏も若葉色の重ね着を幾重にも纏って再生を果たすのである。そしてまた移ろい始めた四季折々に人はふらりと神社に立ち寄っては勝手極まりない祈りを捧げて行く。 「どうか宝くじの当たりますように。」 「いえいえ決して一等の大当たりをなどとは申しません。二等でも三等でも。あ!なんなら一等の前後賞でもう十分ですから。」 「あの人とどうかうまく行きますように。」 「いえいえいえ・・・本当に出会えるだけ・・できれば少しでも話をできたら・・・ほんのわずかでも近くにいられたら・・それだけでもう・・」 「母の早く退院できますように。」 「来週のテニスの試合でどうか優勝できますように。」 「いえいえ決して神頼みだけしているわけではありません。毎日毎日猛練習をしてきました。だけどそれでもまだ力不足なんです。だからどうか神様ご加護をお願いします。」 「いえいえ正直に申し上げます。毎日確かに練習はしてはきました。しかしどうしても気合いの入らない日やきつい練習につい手を抜いてしまった日のあったのです。実は結構あったんです。だから。いや。だけど優勝したいんです。」 「みんなの人気者になれますように。」 「喧嘩に巻き込まれませんように。」 「来月の異動で昇任して給料も上がりますように。」 「腰と膝の痛みの取れますように。」 「可愛い猫を飼えますように。」 「今夜も美味しくビールを飲めますように。」 「いえね。毎日おいしくビールは飲んでいるんですけどね。だから。まあそうですね。神様ありがとう。乾杯!ってところですかね。」  春されば神様は一日に何本もの枝をお渡りになり新緑を芽吹かせ歩き秋風の立てば毎日一本の枝に悠揚と腰をおろされその時からその枝は時間をかけて黄葉の季節に移り行く。境内の社には勝手気ままな神頼みの声の屈託なく賑やかに響き時には声音さえ出ない祈りの呟かれている。時折大木の銀杏の木末の上の空を渡る雲を見上げながら神様は毎日季節の移ろいを指揮する重要な仕事に精を出している。  澄み渡った青い空に鰯雲の浮かび神様のお座りなった枝もすでに多く銀杏の樹の黄葉のかなり進んだ晩秋のある日のこと一人の男のふらりと神社にやってきた。鳥居の前で立ち止まり一礼して潜り抜け手に持った一本の一本の2リットル入りペットボトルを社に続く石畳の手前の地面に置くとせかせかと進み出て軽く二礼二拍手そして何やらぶつぶつ呟いておもむろに一礼し今度はのんびりと石畳を戻って行く。そしてペットボトルを取り上げると社に軽く頭を垂れ銀杏と山櫻の樹下に湧くありがたき神の水を汲みに向かった。どんなに高い枝の上でも神頼みの声は聞こえ社の前に立つ人の想像はつきその姿を見下ろすことなど普段からない神様は「おや?」と目を閉じ首を傾げた。 「やはりそろそろ引退を考える時のようじゃな。」 もう何年生きて来たのかはっきり分からないほどの歳ではあるものの定年なんてないので引退するには自分で後任を探さなければならない。現世の人の言う昔ならどこの神社も神官の手になる管理の行き届き少しくらい不在にしても何ら心配することはなかったけれど今はもう常住する神官のいなくなってしまったここのような神社を後任も決まらずに空けておくことはできない。  確かに境内に人のいる気配は届いてている。一人だ。そして男。若くはない。そう還暦前後くらい。顔は小さくフチなしの眼鏡をかけて毛髪は歳の割にはふさふさして白髪は少し混じった程度。武道か体をぶつけあうスポーツで鍛えたがっしりした体格。あえて見下ろすまでもなくその姿は手に取るように確かに感じ取れる。しかし。しかしだ。その神頼みの声の聞き取れないのだ。 「近くの声のいよいよ聞こえにくくなってきたか。」 神様の耳には遥か遠くの音まで近くの音と同じ大きさに聞こえている。なので近くの大きな音や声は案外と聞き取りにくいことはあっても小さな声や音を聞き洩らすことはまずない。ほとんどの人は小さな呟き声で神頼みをするし中には喉まで出かかった声を押しとどめてしまうことも多いけれどそれでも神様には明瞭に聞えている。しかし神様でも歳を取ると遠くか近くかどちらかの音の聞き取りにくくなるものなのだった。神様は境内の神の湧水のその男に意識を集めてみた。遥か遠くの音まで等しく聞こえる神様はなにか気に懸かることのあればほんの少し意識を傾けるだけでその場の様子を容易に知ることもできた。  男はちはやぶる神の湧水の前で一礼して確かに何か呟き眼鏡を取ると賽銭箱の縁に置いた。そして迸る湧水の前にしゃがみ両手を伸ばして手を洗い口を漱ぎ次いで顔を洗った。その後でペットボトルに四分の一ほど神の水を汲むと立ち上がって振り返り早くも落葉した櫻の枝越しに黄葉した銀杏の樹を見上げながら二度三度大きく深呼吸するとおもむろにペットボトルの水を飲み始めた。男はちょうど銀杏の枝の上に座る神様の方を凝視しながら一度も休まずに神の水を飲み干した。 「おお!見事じゃ!」 神様は思わず無邪気に賛嘆の声を発した。男に神様の見えているはずはないし声の聞こえている気配もなかった。 「う~む。やはりわしの耳の衰えか。」 男には邪悪の気も感じなかったし不穏な気分も察せられない。なのに男の神に向かって呟く言葉の聞き取れない。  男は銀杏の樹に一礼するとまた何事か呟きありがたき神の湧水の前にしゃがんでペットボトルに水を満たし始めた。すぐに一杯になって満足そうに立ち上がると一礼して何事か呟いた。 「どうしてだろうなあ。」 神様には一向に男の声の聞き取れない。確かに耳の衰えては来ているけれどこれほど全く聞こえないことは初めてであった。男は賽銭箱の縁に置いた眼鏡に手を伸ばした。 「もう帰ってしまうのか。」 神様は少し男を引き留めたくなりかすかな息を吹きかけて気を引こうとした。ちはやぶる神の息吹は例えどれほど手加減したにしても男は背中を押されて前のめり右足を一歩踏み出してかろうじて体制を立て直した。しかしちょうど手を掛けたところだった眼鏡を取り損ねて賽銭箱の内側に落としてしまった。あはれ眼鏡はお賽銭さながら急傾斜した互い違いの鉄の板の底にあっという間に吸い込まれて消えて行く。 「しまった!!」 神様は思わず声を発した。それと同時に全く同じ叫び声を聞いた。神様の思わず見下ろした境内に男一人呆然と立ち尽くしている。久しぶりに見下ろした境内はきちんと掃き清めた跡の残り一か所に掻き集められた落ち葉は色褪せ始めている。ちはやぶる神の湧水の周りの雑草も丁寧に除かれている。男は宙を見上げて一つ大きなため息をついた。 「ふむふむ。」 神様は今はもうその男の考えることの自分のことのように判った。そうか。ここから家までは30kmほど車を運転しなければならないのか。眼鏡なしでは到底運転はできないだろう。列車は通ってないしバスは一日にほんの僅か数本あるだけで直行する便はなく乗り換えなければならない。相当な遠回りになるし乗り換えのうまく行くか分からない。それにこの鄙びた山里の温泉地に眼鏡屋のあろうとも思われない。 「う~ん・・・いや~・・・困ったことになったもんだ。」 男は腰をかがめてお賽銭箱の側面に顔を近づけた。どこかにお賽銭の取り出し口はないのかな。あればきっと鍵の付いていて誰か管理している人もいるだろう。やはり眼鏡なしではかなり近づかないと見えないぞ。男は四面をぐるりと回り終えると腰を伸ばしまた一つ大きなため息をついた。そしてまた腰をかがめ箱の底を手で探っている。やはり底にも取り出し口はないようだ。だとしたらお賽銭を取り出すのは箱をひっくり返すしかない訳か。 「ふむふむ・・・そうか・・・神様は俺の力をお試しになりたいのか。」 「いやいや・・誰もそんなことは思っとらんぞ。」 神様には男の声も聞こえるし考えていることも良く分かるけれど男の方には全く神様の声も気持ちも届かない。それは当たり前なのだけれど。  男は神様の座っている大銀杏の中ほどの枝のあたりを見上げてぶつぶつ呟いた。 「神様。篤とご覧ください。」 「う~む・・・紛らわしい奴め。儂のことなど何も見えてはおらぬくせに。しかしこの男どうやら本当にお賽銭箱をひっくり返すつもりのようじゃ。やめておけ。後悔することになるぞ。」 しかし神様の声も気持ちも男には届かない。 「やめろ!」 神様の叫び声を上げた時にはお賽銭箱は見事に地面の上に横向きに転がっていた。二本並べたブロックの上に分厚い一枚板を敷いて置かれていたお賽銭箱は鉄製で少なくとも30~40kgくらいはあろう。男はそれを両手で持ちあげはしたものの地面に置こうとした時には耐え切れずに思わず地面に投げ転がした。中のお賽銭のジャラリンと音を立てた。男は一度腰を伸ばすと満足そうにお賽銭箱を見下ろした。 「うむ・・・まあ・・・それなりに見事ではあるな・・」 それから男の箱をもう一転がしすると逆様になったお賽銭箱から硬貨や紙幣の転がり出てきて地面に散らばった。それほど多くはないものの中には錆を浮かべた硬貨や古びて変色しかけた紙幣も混じっている。ちはやぶる神の水を頂戴する善良な人達の篤い信心の今も漂っているみたいだな。世の中にはこんなありがたいお賽銭を盗もうという不届き者もいるんだからまったく。本当にけしからんことだ。ん・・・う・・・・む・・・・・。男は突如呆然自失としてその場に立ち尽くした。 「だから言わんこっちゃない。」 う・・・・う・・・・む・・・ 「今だれか境内にやって来たらお前こそまさにその不届き者じゃ。」 男はがっくり首を垂れてしまった。 「なんだ。観念してしまったのか。」 そうか。世間的に名の知れた信用ある会社に勤めていてしかももう間もなく定年退職を迎えようとしていたのか。 「確かに観念する状況ではあるな。」 そんな男のあろうことか白昼堂々お賽銭泥棒!これは釈明は難しい。誰か真実に耳を傾けようとする人のいるだろうか。 「急げ!」 「とにかく急げ!お前の力の見せ所だ!」 なになに・・・とんだ誤解をうける状況にはなってしまったけれど俺はお賽銭泥棒じゃないのだから真実を主張し続けるだけだと。でも信じてもらうのは難しい・・・そうだろう。テレビドラマなら警察の中にどうもおかしいよな腑に落ちないなと単純な窃盗事件として片づけてしまわずにしつこく真相を解明してくれる風変わりな刑事の必ず居てしかも主役になるのだけど現実の警察署ではそんなはぐれ者の本当にいたとしても現行犯事件としてさっさと片づける同僚や組織の大波にあっさり押し流されてしまうだけだろう。 「この期に及んでなにをぐずぐず考えておる。急げ!急ぐんだ!」 なになに・・・一体俺はどうすれば良かったんだ・・・もう諦めたのか・・・やはり神社の管理人を探しに行くかせめてこの近くの人に誰か来てもらって一緒に賽銭箱をひっくり返しておけば・・・確かにそうだな・・・一番いいのは警察に来てもらって立ち合いか手伝ってもらうことだった。今からでも警察に連絡するか。自首?いやいや!そうじゃない。でもやってきた警察官のもしも融通のまったく利かずこっちの話など聞こうともしない奴だったらこの状況にどう対処するか。手柄の欲しいばかりの上昇志向の塊のやってきたらどうなるだろう。信じては貰い難い釈明を必死に叫び続けながら問答無用に現行犯逮捕となるかもしれない。う~ん。駄目だ。こりゃあ駄目だ。男は頭をがくりと垂れた。  しかし男は突如振り返り神様の座っている大銀杏の枝のあたりを真っ直ぐに見上げた。 「うん?」 男は普段はしまい込んだ記憶の底にある思い出をなぞり始めている。ふむふむ・・・ここに来るのは初めてではなかったのか。なになに・・・まずは眼鏡を取り出すのじゃ。それからお賽銭を拾い集めて入れ直し箱を元の通りに戻すのじゃ。今すぐやるんじゃ!急げ!だと。 「・・うん・・・誰と話しておるのじゃ?」 閑寂とした晩秋の昼間の境内に男以外の人そして神様のほかに存在の気配は感じられない。 「まあ良い。確かにその通りじゃ。急げ!」 男のもう一度お賽銭箱を今度は丁寧に裏返すと落とし込んだ眼鏡の転がり出てきた。そうだ。眼鏡に附いたお賽銭箱の錆は泥棒の汚名を晴らす唯一の証拠だから当分落とさないままにしておこう。そう考えて男は錆と土の付いたままの眼鏡をかけて地面に散らばったお賽銭を拾い集めてはお賽銭箱に戻し始めた。 「いいぞ!その通りだ。」 まだ誰か近づいて来る気配はない。 「運のいいやつめ・・・」 神様にとっても自ら手を下さずに順調に事の運んでゆく状況は楽だから決して嫌いではない。そうか!お札や硬貨に附いた俺の指紋も泥棒じゃない証明になるだろう。でもじゃあ一体こいつは何をやったんだ。警察署の中にテレビに出て来るような腑に落ちない些細なことを見過ごせない刑事のいてしつこく疑われ付きまとわれる場面を想像して男は嫌だ嫌だと首を振っている。 「うむ・・・」 「まずい・・・」 いつの間にか鳥居の向こうに一人の男の立っている。存在感の極めて希薄な男あるいは長い年月をかけ意識的に気配を消すことに努めてきた男であろうかさすがの神様もすぐ近くに来るまで気づかなかった。 「しまった!」 「いや!待て!待て!」 なになに。なんだ。同業者か。いやいや。こっちは本物の泥棒さんのようじゃな。ぴょこんと頭を下げて鳥居を潜り抜けて男は境内の様子を盗み見た。痩せてひょろりと背の高く黒い上下の作業服なのかスポーツ着なのかわからない衣装に身を包んでさすがの要領の良さで素早く賽銭箱の方へ視線を向け中にどれくらい入っているか想像し始めている。そしてちはやぶる神の湧水の傍らに視線を向けた時に飛び込んできた光景に思わずのけ反ってしまった。 「な!なんという大胆な!」 黒づくめの男はそう呟いたあと絶句したまま白昼堂々お賽銭箱を地面の上にひっくり返している光景を前に呆然と立ち尽くしている。それからやっと我に返って一言呟いた。 「人生を捨てちまった奴には到底敵わねえや。」 草木も眠る丑三つ時にこっそり密かにお賽銭をくすねるつもりだった泥棒は土の上に散らばったお賽銭を拾い集めている男の後ろ姿に手を合わせて深々と一礼するとひょろひょろとよろめきながら引き上げて行った。 「そうだな…人生投げちゃお終いよ。」 ・・うむ・・・なんだ・・聞こえているか?そんなはずはない。 「不思議な男だ。」 さっきかから男はどうも神様と同じことを思い浮かべたり考えたりしているようにみえる。しかしそれでうまく事の運び円く収まるのなら神様も楽であるし異存はない。神様は境内に近づいて来る人の気配を少し意識を集中して探ってみた。少し離れたところの道の駅と温泉の湯船の中にその気配は漂っている。この調子ならまだもう少しは大丈夫だろう。問題は最後にお賽銭箱を抱え上げて元の位置に戻せるかどうかだな。そこはお手並み拝見させてもらうこととしよう。ふっふっふっ・・・  鉄のお賽銭箱を抱え上げるのは思ったよりも大変だった。ブロック一枚分の高さから抱え降ろした時に最後は地面に転がしてしまった重量を今度は抱え上げなければならない。きちんと元に戻せるか不安ではあったけれど兎に角やるしかない。一度で決めなければ筋肉の疲労の重なり二度目三度目はますます難しくなるだろう。よし!男は大銀杏の神様の座っている枝の辺りを振り仰ぎ見て気合いを入れると地面に転がったお賽銭箱の角に手を掛けた。一転がししてお賽銭を投げ入れる面を上にすると両手で押して少しばかり前倒して浮かせた底の真ん中付近にまず右手をそれから次に左手を差込み腰を落とし腕を体から離さないように我慢してぐいと持ち上げた。なんとか上手く持ち上がった。しかしここからの数歩の思った以上に難儀だった。腰を伸ばして立ったのでは箱の重さで足は前に進まない。少し腰を落として前屈みになって摺足で前に進む。屈みすぎたり腕を少しでも下げたらそのまま前に倒れてしまうだろう。やや後ろに置いた重心を移さないよう注意深く摺足で何とか持ちこたえてお賽銭箱の置いてあった分厚い板まで辿り着いた時にはまだ少し腕力にゆとりの感じられた。それで板の上の真ん中に戻すように狙いを定めてお賽銭箱を降ろし手を挟まないように片方ずつ最後は少しばかり落として置いて見ると左の方にやや偏っていた。しかし一度置いてしまって安堵した身にはお賽銭箱はもう簡単には動かせなかった。それでもよくよく見れば幸いなことに分厚い板のお賽銭箱を動かした形跡となる色の違う部分は見事に覆い尽くされ余程に注意深く頻繁に見ている人でもこのわずかな位置の変化は気にすることことはないだろうと思われた。 「よし!よくやった!」 大銀杏の中間よりやや下の辺りの枝を振り仰ぎほっと一息ついた。  そこからは古いロープの綻びた残滓の幹に絡まり垂れさがっている。そのロープの糸を繰り蘇る昔の記憶に思いを馳せた。  あれは小学校四年生の時だった。転勤族だった父について家族でこの田舎の小さな温泉町に移り住んのはちょうど夏休みの期間で学校にも行けず友達もできないまま時々家の周りを一人でふらふら出歩いたりしていた。そんなある日のこと通りかかりにこの神社の境内に入り込んで大人たちのやるように神殿の前に進み手を合わせた。どうか友達のできますように。新たしい学校に馴染めますように。思わず声に出して神頼みをするとなんということか信じられないことに上の方から声の聞こえてきた。 「よくわかった。心配することはない。安心して学校に行きなさい。」 「え!」 びっくりして辺りを見回したけれど誰もいない。こんなことって本当にあるの?少し怖くなったけれど神様は案外と優しいことを言ってくれたし素直に信じる気持ちになって深々とお礼をして引き返し始めた。 「待ちなさい。」 また神様の声のした。 「は?」 今度は本当に怖くなったけれど逃げても無駄だと思い恐る恐る振り返ると神殿の右のやや奥に立つ大きな銀杏の樹の生気溢れる緑の葉の間から子供のひょっこりと顔を出して手招きしている。 「え?神様って子供だったの・・・」 思わず声に出してしまった。 「そんなはずないだろう。面白い奴だな。」 子供は銀杏の樹の上から見下ろしながら楽しそうに笑っている。 「登っていおでよ。」 黄色と黒の縞模様の工事現場とかでよく見かける頑丈そうなロープを銀杏の樹の根元までするすると降ろしてきた。 「それに掴まって最初の枝まで登るんだ。あとは枝を伝ってここまで来れるから。」 眩しい光を降り注ぐ太陽みたいに見えた瞳に吸い寄せられるように素直にロープを掴み最初の枝まで這い上ると言われた通り大きな枝に手と足をかけて難なくその子の所に辿り着いた。太い幹の裏側の夏の枝葉の繁茂して神殿の方からは全く見えない場所でその子は大きな枝に平然と腰かけている。 「ここは思ったより涼しいよ。」 なんと言ってよいのか分からない。もともと人見知りする方であったし子供同士ならすぐに打ち解けるものでもはないことは転校の多い身だからすでに幾たびも経験していた。 「まあ好きにしてくれ。」 案外好きになれそうだなとその言葉を聞いて思った。 「ここは神様の居場所だからな。」 「え?どういうこと。」 「まあすぐに判るよ。」 それから少しずつ話をしはじめた。その子はここの学校の生徒ではなく夏休みの間だけ親戚の家に預けられているから同じように友だちはいなのだった。話をしている間に神殿に参拝の人の来た時には打ち重なる緑の葉の間から密かに見下ろしては後でいろいろと想像を巡らせその人の物語を創りだして聞かせてくれた。それはとても面白くてついつい声を出して笑ってしまう。 「どうか宝くじの当選しますように。神さま。どうかよろしくお願いします。絶対に当たりますように。いえいえ。一等ではなくても構いませんので。どうかお願いします。」 また神殿に神頼みする声の聞こえてきた。 「よかろう。そなたの願いしかと聞き届けた。」 「え?」 参拝の人も驚いていたけれど同じく呆然としてしまった。 「大丈夫?やばくない?」 囁き声の聞こえたどうかは分からない。その子は悠揚としてさらに付け加えた。 「ただし宝くじをこれから先も買い続けるのじゃ。」 欲に塗れた参拝者は首を捻りながらもなにか考えている。 「まずいよ。悪戯だってばればれだよ。」 また囁き声で言ったけれどその子は全く気にしていない。 「このことは誰にも言ってはならぬ。誰かに言えば願いは叶えられぬ。」 「わかりました。どうか神様よろしくお願いします。」 それは大人の余裕なのか単なる欲にかられた打算だったのか神頼みの人は嬉しそうに境内を後にした。 「神様の居場所ってこういうこと?」 そう尋ねた時だった。樹の下から突然大きな声で怒鳴られた。 「こらあ!そこに登っちゃいかん!」 「早く降りて来なさい!」 「そこは神様の居場所だ!」 下に降りてから二人は神官さんにこっぴどく怒られた。  二三日してまた神社に行き大きな銀杏の樹の下に行ってみた。しかしあの子はいなかった。どこの家に泊まっているのかのもわからない。夏休みの間ほぼ毎日行ってみたけれどついにあの子には会えなかった。そして二学期の始まり今までとは違って不思議と新たしい学校にすぐに溶け込めた。だれかにあの子のことを聞いてみようと思った。だけどその時につい思い出してしまうのだ。 「このことは誰にも言ってはならぬ。誰かに言えば願いは叶えられぬ。」 「なんじゃ・・・そういうことだったのじゃな・・・・」 神様は黄金色に葉を染めた大銀杏の枝の上でからからと笑った。     
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