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私が引き摺っている男は、私の彼氏でも何でもない。
敢えていうなら冨士原将史という名を持つただの男。
彼はまだ名残惜しそうにホテルの方を振り返る。これ見よがしに、私に殴たれた左頬をさする。挙句、溜め息を吐いたりと、生意気な態度をとるので、私は澄ました顔で叱責した。
「あんたは浮気症を治す気があるの?」
「……あるに決まってる」
「ならなんで私の言うことが聞けないのよ?」
「ちゃんと約束は守っただろ?」
たしかに約束は守ってくれた。
女の子と遊びに行くときは、誰と何処に行くか事前に連絡するっていう約束通り、
『エリカちゃんっていう子とホテル行ってきます。済んだらまた連絡します』
という、ひとを舐め腐ったメッセージを送ってきやがったのだ。
仕事終わりにその通知を見た瞬間、危うく制服のまま、職場であるデパートを後にするところだった。更衣室入口の鏡に映る、プラダのバッグを掛けたまぬけな制服姿に気づき、じたばたと着替えを済ませ、全速力の駆け込み乗車で阪神電車に乗り込んだ。
東梅田のホテルに向かっていないことが余計に腹立たしい。彼はわざわざ、梅田発の電車を一本乗り逃したらどうあがいても間に合わない今津のラブホへ移動したのだ。
でも私は間に合った。息も絶え絶えに、意地でも間に合わせた。
そりゃ彼のスマホを勝手に操作してGPSアプリをダウンロードした時分には少なからず罪悪感が募ったものだ。
けれど、何よ、その顔は。
今まさに浮気現場を押さえられた男の顔じゃないでしょうが。
ひょうひょうと煙草を銜える仕草を見ていると、罪悪感どころか殺意が湧いてくる。
「『誰とどこにいるか連絡する』っていう約束の意義を考えてみて? そもそも別の女の子とそーゆーことするっていうのが間違ってるの」
「じゃあ今日はセーフだな。今日はまだしてないから」
「“今日は”ーっ!?」
初めて将史の顔に動揺の色が浮かんだ。私の言葉の意味によってというより、単に大声に驚いたという様子だ。
音量はそのまま、私は彼に問い質した。
「一体いつしたのよ!?」
「あの彼女とは今日初めて会ったところでして」
「あの彼女以外とは?」
「……あのね、すずちゃん。ラブホテルってそーゆーことするところだよ。すずちゃんともしてるだろ、何度も」
彼が私──溝渕菘のことを、「すずちゃん」などと甘えて呼ぶときは、私の機嫌をとりたいとき、そして何も考えていないときだ。
自分の無責任な発言が、私を怒らせたり悲しませたりするということを、何も考えていないとき。
「行くよ」
「わかった」
と、元来た方へすたすたと歩いて行く将史。私は彼の襟首を掴んだ。
「どこ行くの」
「ホテルだろ?」
「……家に帰るの!!」
もう二度と自分から口を開くまい。
そう心に決めて、無言で駅まで目指した。
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