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人がコーヒーを飲んでいる時の顔は、大抵仏頂面だ。こんな風に思うのは、この喫茶店は若者が友人同士で集うような、もっと言えばSNSで自慢できるような華やかなカフェではないからだろう。
狭くて、住宅街の片隅にあり、買い物帰りや仕事前、生活の隙間に一人で立ち寄るような、なんの変哲もない喫茶店。
柏木緑(かしわぎ みどり)38才独身、がここで働き始めて約1年。
喫茶店のドアが開く音がする。
「いらっしゃいませー」緑が平坦な口調で言う。
男はいつもの席に座り、ホットコーヒーを注文した。緑はいつもの手順でコーヒーを入れ始める。平日14時半ごろ、この客がこの店を訪れるのはいつもこの時間帯だ。
注文はコーヒー一杯だけだが、平日のこの時間帯に定期的に来てくれて、長居をせず去ってくれるこの客はありがたい。緑はそう思いながら、この客にコーヒーを出す。ただし、緑は喋りかけたりはせず、客と店員という距離感を崩さぬよう接客をしていた。
勤務は開店前の9時前から18時前まで、時給950円、火曜、日曜は休業。この地方のアルバイトでは悪くない時給で、家から15分ほどというのは、緑にとってよい条件だった。平日の火曜が休みなのも、親の病院や買い物につきあうのに都合がよかった。
昼頃、
「緑ちゃん、買い物に行ってきてくれる?」
マスターに、ちゃん付けで呼ばれると、いつももぞもぞする気持ちを抱えて、緑は「はい。」という返事共に買い物メモを受け取る。
元々緑のポジションは、マスターの娘さんがやっていたそうだ。緑より二つほど年下の娘さんで、結婚後も近所に住んでお店を手伝っていたとの事。しかし、二年前に不妊治療を経てめでたく双子を授かり、子育てに専念する事になったのだと、常連のおばさまから聞かされた。マスターから見れば、緑は娘と同じ年ごろで、ちゃん付けもおかしくないのだと、その話を聞いてからは府に落ちた。
いつもくるあの男性が、塾で働いているのを知ったのは、マスターに頼まれた買い物途中で、中高生が通う塾に入る所を見たからだ。
それを知った所で、緑は話しかけたりはしなかった。男性はメガネをかけていつも本を読んでいて、いかにもおしゃべりしたい常連のおば様達が持っている人懐っこさとは、およそかけはなれた雰囲気の持ち主だった。
接客、買い物、掃除を繰り返し行う事によって、喫茶店での時間は淡々と、でも小気味良く過ぎていく。そうこうしているうちに日は暮れる。
バイトが終わり、家に帰ると緑の母、和恵が夕食を準備しながら、
「お帰り~、もうご飯できるよ。」と声をかけ、
「ありがたやー、今日もご飯にありつける。」
と緑が茶化しながら食卓につく。
父が亡くなり、緑は親元に戻った。窮屈な思いをするかと思いきや、なかなか快適で心地よいぬるま湯生活を過ごせている。夕食の後は、食器を洗い、風呂を沸かしている時にラジオを聴くのが習慣だ。皿同士が水道水に当たって擦れ合う音と水が流れる音に混じって、パーソナリティの声がかぶさってくる。生活音に割り込んでくるその音は、ある種の華やかな無神経さがある。音と音の隙間からふいにラジオの言葉が耳に入ってきた。
「タイムマシンってあると思います?」
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