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慎二はいきなり、だがある程度の確信を持って切り出した。
「僕と付き合いますか?」
あの日言葉を交わしてから、緑と商店街で会えば挨拶するようになり、挨拶が立ち話になり、立ち話が別れがたくなるころには、ご飯の約束へと順調に進化していった。じわじわと緑の存在が生活の中に溶けこんでいく。勤務先の給湯室で、インスタントコーヒーの香りがしただけで、緑の事を思い出すようになっていた。教師を辞めてから塾講師として社会復帰したものの、教師時代の収入には遠く及ばず、実家で暮らしているこの状況で、また恋をするとは思わなかった。
慎二は教師時代に同僚と結婚していたが、体調を崩して教師を辞める際に離婚をしていた。元妻は慎二を支えようとしてくれたが、それが逆に重かった。お互いにこれから子供を持ちたいと考えていた30代の局面で、こんな事になり、
「僕は子どもの事はしばらく考えられない。だからごめん、別れてほしい。」と慎二の方から切り出した。当時妻は30代、子供を持つことにはタイムリミットもある。だが情もあり、妻の方から別れを言う事は難しいのではと慎二なりに察していた。それは偽善かもしれないが、慎二なりの精一杯のやさしさだった。
緑が喫茶店で開店準備をしていると、慎二の「僕と付き合いますか?」を思い出し、口の端が緩みそうになる。いい年をして、こんな浮かれた日々が来ようとは!思いもかけない僥倖に、神さまありがとうなどと言ってしまいそうになる自分に少し恥ずかしさもあった。
先日二人でご飯に行った時に、お互いの身の上話をした。狭いカウンターの居酒屋で、お酒を飲みながら話すうちに、アルコールの力でいつしか敬語がタメ口にグラデーションをつけて変わっていった。
「先生してたんですか。おお、採用試験難しいしすごいじゃん。」
「やめちゃったら、ただの人ですからねー。そっちこそ東京でアパレルの企画とか、かっこいいな。」
「いや、私じゃなくて、会社のネームバリューのおかげだよ。それに同じくもう辞めてるし。」
少し世間からズレたポジションにいる後ろめたさを共有できた事で、グッと距離は縮んだ。しかし、付き合いますかの決定的一言は慎二だが、その前の
「飲みにいきません?あそこの居酒屋気になってるんですよ。」は緑の思い切りによるものだ。どちらかというと、まだどうなるかもわからない二人の関係を決定づけた言葉は、前者ではなく後者であろう。
しかし実家暮らしの恋愛は、難儀な事もある。どうしても外出が増えるから、いい年をして親にイチイチ夕ごはんはいらないという事を報告しなくてはならない。母の和恵はうるさく詮索するタイプでもないが、今さら彼氏の存在を知られたくもなかった。やはり結婚について期待してくるからだ。
「今日ちょっと飲んでくるから夕飯いらない。」
とりあえず、誰と行くかは告げずに、夕飯の有無だけを強調することにした。いい年をした出戻り娘が、できる限り穏便な親との共同生活のために、知恵を絞っている。何だか滑稽だが、仕方ない。今はとにかく学生のように、恋にうつつを抜かしていたいのだ。
「緑ちゃん、ドアが開くたび、すごい振り返ってみてるよね。誰か待ってるの?」
冷静にいつも通りに仕事をしていると思っているのは、当の本人だけだったようだ。
この店の常連、近所のスナックを経営している佐々木のマダムからの鋭い一言で、緑は自分の浮かれ加減が、他人から見てわかるほどだったのだと気づく。
「いや、お客さんがこないかなあって、商売繁盛の祈願で振り向いてるんですよ。」
緑は微笑みながら返す。
「いやいや、違うでしょ。この前私見たんだよね。うちの2軒隣の居酒屋から二人で出てくるとこ。この店の常連さんでしょ?ごめん試すような事いって。でも気になっちゃって。」
「佐々木さん、謝らなくて大丈夫ですよ。別に悪いことしてるわけじゃないし。単におじさんとおばさんが付き合ってるってだけですよ。」
「いやいやいや、緑ちゃんまだ40前でしょ?最近は40で子供だってめずらしくないし、先の事考えたらのんびりしてちゃダメよ!」
「いや~佐々木さん、まだ付き合ったばっかですよ~」
「結婚も出産も勢いなんだからね!」
「なるほど、参考になります。それでは佐々木さんの結婚の決め手は何だったんですか?」
この後小一時間、佐々木さんの若かりし頃の話を聞く破目になり、店の備品の在庫チェックがはかどらなかった。しかし、自分の話を逸らすことには成功したと緑は安堵した。アパレルのトークで鍛えた、相手に話をさせて、自分に踏み込ませないスキルをこんな所で活かせるとは思わなかった。自分の生活状況は、世間から何かを言わせてしまう頼りなさがあるのだろうなとあらためて緑は思った。同世代は、結婚、出産、マイホームに加え仕事復帰にまでたどり着いているのだ。自分は周回遅れどころか、仕事を辞めて、親元でバイト生活という体たらく。心配させて当たり前だ。
だがこの生活は本当に楽しい、誰が何といおうと、世間に向かって大きな声でいえなかろうと。コーヒーの香りに包まれて働き、その空間に好きな人が来ることもある。働いたあとは、親が作るおいしいごはんを食べ、心地よい疲労感と共に眠る。それに好きな男との逢瀬は楽しい。ファミレスでも居酒屋でも、インターチェンジのラブホテルだろうが、そこが二人にとっての夢の国みたいなものだ。
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