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Chapter.10
華鈴は一緑と一緒にリビングの片隅に立っていた。
「そしたらここ、華鈴のスペースね」
A3サイズほどのホワイトボードに、一緑が華鈴の名前を書き込む。
「ありがとう」
ホワイトボードにはラインが引かれていて、左側に住人の名前が、上部に月~日までの曜日が書かれている。
交差するスペースにその週の予定を書き入れる、住人たちの簡易スケジュールボードだ。
「まぁ、忙しくて書かれへんかったりするから、目安程度やねんけどね」
名前は上から、黒枝、赤菜、鴻原、橙山、青砥、逵下、塚森、紗倉と記載されていて、それは住人たちの年齢順になっている、と一緑が説明する。
黒枝の欄には、開始と終了の月日に【海外出張】という記載があった。
「“鴻原”が紫苑くんで、“逵下”がキイロくんね」
「つじしたさんって読むんだ……」
「そう。最初見ただけじゃ読まれへんよね。ちなみに“キイロ”はカタカナで書くの」
「へぇ……珍しいお名前……」
一緑は住人の氏名を一通り説明して、「会ってないの黒枝くんくらいかな?」華鈴に聞いた。
「うん、そうだね」
黒枝の海外出張は二ヶ月ほどの期間が設けられていて、華鈴が初来訪したときからすでに渡航していた。
ボードの上にはボードと同サイズの紙にスローガンのようなものが書かれ、貼られている。
■赤菜邸ルール■
①家事は持ちつ持たれつ
②個人消耗品には名前書け
③予定、書けたら書け
④締切守れ
⑤戸締り用心 火の用心
「締切……」
「締切抱えるような職業の人が多いから、赤菜くんが戒めに決めたみたい」
「そうなんだ」
一緑は住人の職業について細かく説明する気がなさそうで、華鈴も詳細に聞き出そうとしない。しかし、いずれ知ることになりそうだなぁ、とも思う。
「んで、華鈴が帰ってきたときに新聞とか郵便物とか残ってたら、持ってきてあげてほしいねんけど」
「うん」
「自分の分だけ仕分けして、ほかはまとめてテーブルの上に置いといてくれればいいから」
「うん。郵便受けって鍵とかかかってる?」
「ダイヤル錠がついてる」続けて一緑が暗証番号を教えた。
「あったら回収するね」
「うん。俺とかシィちゃん……紫苑くんが仕事帰りに気付いたら取ってくるから、忘れちゃってもいいから」
「はぁい」
一緑からホワイトボードマーカーを受け取り、華鈴がボードに予定を書き込んでいく。
短い春休みが終われば、大学四年生になる華鈴は就活が始まる。バイトもあまり入れることができなくなりそうだが、内定が取れれば少し余裕ができそうだ。
「休みの日、この辺り案内するな?」
「うん、ありがとう」
「そしたら……そろそろお風呂入る?」
リビングにかけられた壁時計は20時を指していた。
在宅中の住人たちはすでに入浴を済ませているようで、いまは両方の浴室が空いている。
「うん、入ってこようかな」
「じゃあ、案内するから着替え持ってきて」
「はぁい」
華鈴は一緑に返答して、部屋へ戻ると入浴に必要なものを一式持ってリビングへ戻ってきた。
「シャンプーとか置いとく場所、中にあるから、そこ置いといてええからね」
「うん」
一緑が華鈴を連れて、浴室へ向かう。
赤菜邸のルールは掲示されている以外にもいくつかある。
それは明示されているものと暗黙の了解とされているものに分かれ、一階に二室あるバスルームのうち、誰がどちらを使うかは暗黙の了解の部類に入る。
洗面所兼脱衣所にはどちらにも小さめな衣装ケースがいくつか積まれており、各々の下着や部屋着が個人別に収納されていて、基本的にはそれらの衣服が常備されているほうを使用する。
両方のバスルームを同時に使うことも可能でバスタブも広く、住人達には好評だ。
「電気のスイッチここね。こっち換気扇。ここで鍵が閉まるから」一緑が指さしながら説明をする。
「うん」
「お湯の温度、中のパネルで変更できるから」
「うん」
「じゃあ……部屋で待ってる」
「うん、ありがとう」
礼を言って、華鈴は脱衣所の扉を施錠した。
七人の大所帯には、各設備が一つずつでは足りないのだろうなぁ、と思いながら華鈴は入浴し始めた。
* * *
お風呂から上がり、脱衣所で髪を乾かしてから飲み物を取りに冷蔵庫へ向かう。と、入れ違いに冷蔵庫前を去ろうとする赤菜と目が合った。
なにか会話をすべきか少し悩んで、無視するのもおかしいかと口を開く。
「こんばんは…。お風呂、いただきました……」
「おん」赤菜はそのまま華鈴から目を離さず「使うん」冷蔵庫を指した。
「はい」
返答を聞いた赤菜は冷蔵庫前から移動し、反対側のカウンターにもたれて華鈴の行動をじっと見ている。
なにか意図があるのだろうか。まだなにか冷蔵庫に用事があるのかも。と考えて、自分の名前を書いたペットボトルを取り出した。昼食後、一緑と一緒に買い物に行った際、購入したものだ。
冷蔵庫のドアを閉め、「使いますか?」と振り向いたところで、赤菜は壁ドンならぬ冷蔵庫ドンをして華鈴の行く手を阻んだ。
「いたっ」
迫られた勢いで華鈴が冷蔵庫のドアに頭をぶつける。少しうつむき加減になった顔を上げると、眼前に赤菜の端整な顔。身長差があまりないから距離がより近く感じる。
「あいつなんかやめて、俺にせぇへん?」
赤菜が低く、華鈴に言う。
「え……」
華鈴は状況が良く飲み込めず、ペットボトルを両手で持ち身じろいだ。突然すぎて上手い返しが出来ない華鈴に、赤菜の顔が迫る……次の瞬間。
「あー! ちょっと赤菜くん! やめてヨ! 俺のやから!」
螺旋階段を降りて来た一緑が赤菜を指さし、声を荒げて足早に近付いてくる。
赤菜は二人に聞こえるように「チッ!」と大きく舌打ちをしてから、「冗談やで」華鈴に低く言う。
「はい」
至極当然といった顔で答える華鈴を、赤菜は片目を細めて不服そうに見つめた。
「赤菜くん!」
離れる気配のない赤菜に一緑が声をかけると、赤菜は冷蔵庫に突いた手を外した。
「ジョークやん」
「冗談にもほどがある」口をとがらせる一緑に
「風呂入ってくるわ」言い残して赤菜がその場を立ち去った。
「もぅ~」一緑がふくれて、華鈴の肩に手を置いた。「お湯抜いた?」
「うん。軽く掃除もした」
「ならええか」
すっかり変態扱いされた赤菜を見送り、後頭部をさする華鈴に目線を戻す。
「あんまり無防備な格好でいたらあかんよ」一緑が来ていたネルシャツを華鈴の肩からかけた。
「うん、ごめん」
とは言え、風呂あがりに着たのは露出が少なめな七分袖のマキシ丈ワンピースで、言うほど無防備ではない。
(しかもノーメイクだし……)
けれど一緑の助言を無視するわけにもいかず、部屋着選びにも充分気を遣わなければならなくなった。
(あとでネットカタログ一緒に見てもらおう)
ペットボトルのキャップを開栓しながら、華鈴は思うのだった。
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