初めての落書き

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真璃は窓の外を見つめていた。ここからはグラウンドが見下ろせるが、この時間は体育をやっているクラスはないようだ。誰もいないそこは広く静かで、見つめていれば今いる空間からぽっかり離れてしまうような気がした。 黒板に視線を戻せば、教科書で見た言葉が並んでいた。隅の方にはよくわからないイラストが描かれている。日本史の授業では、時折黒板にイラストが登場するが、どうやら先生は絵が苦手らしい。 真璃は優秀だった。どの科目も成績は上位で、生徒からも教師からも一目置かれていた。特に文系科目が好きで、一番得意なのは古典だった。普段はこの日本史の授業も真剣に受けているのだが、今日は違った。顔は前を向いているが、ノートを滑るペンの動きはスムーズでなく、先生の声はまるでBGMのようだった。ぼんやりとした頭のまま、昨晩の出来事を思い出していた。 高校三年生。季節はまだ春だが、まもなく受験シーズンを迎える。三年生になって早々『進路希望調査』というものを書かされた。確定でなくて良いので、今の時点で考えている卒業後の進路を聞きたいらしい。真璃は理系クラスに在籍していながら、『四年制大学文学部への進学を希望』と書いて提出した。それが昨日の三者面談で親に知られ、口論になったのだ。 『お前は医者になれと前々から言っているだろう!』 父親にそう言われ、真璃は反発した。その言葉はもう聞き飽きた。私には夢があるが、それは医者ではない。だから、医学部には行かない、と。しかし、親は聞く耳を持たない。『お前のためを思って言っているんだ』と付け加えれば、何を言っても良いと勘違いしているのではないかと思うほどだった。それが頭から離れず、今日は一時間目から集中力が行方不明になっていたのだ。 ふと、机の木目が目に入った。日本史は世界史との選択制のため、人数が少ないこちらは空き教室を使っている。だから、この机には、日本史の授業のときにしか会えないのだ。そう考えると、特別な存在に思えてくるので不思議である。 「よーし、落書きしちゃお」 週に二回しか座らないこのきれいな机を見つめていたら、なんとなく汚してみたくなった。シャープペンを握り直し、さあ描いてやろうと意気込む。が。 「……何を描けばいいんだろう」 いざ描こうとすると、何も浮かんでこなかった。落書きといえばなんだろうかと考えてみるが、落書きなどしたことがない真璃には、何を描けばいいかわからなかった。せっかく面白そうな遊びを思いついたのに、なんだか悔しい。 どうしたものかと考えを巡らせていると、ふとひらめいた。絵ではなく、文字でも良いのではないだろうか。落書き=イラストだなんて、そんなのいつ決め込んでいたのだろう。 それからは早かった。思いついた言葉を、思いついた順に書き出していく。別に誰に読まれるわけでもない。ただの自己満足だ。どんな汚い字だろうが、どんな支離滅裂な文章だろうが、何も気にする必要はないのだ。机は驚く速さで汚れていった。机の右半分の真ん中あたりから書き出したそれは、右下、机の角まで達したところでようやく止まった。そこで我に返った真璃は、一つ息を吐いた。 大したことを書いたわけではない。お腹が空いただの、この前読んだあの小説が面白かっただの、なんの脈絡もない文章を並べただけだった。でも、なんとなく気分がすっきりしたような気がする。初めてやった落書きという行為は、楽しいものであった。どこから湧いてくるのか、妙な達成感も感じている。気分転換をしたわけだし、ここからはいつも通り真面目に授業を受けよう。そのかわり、落書きはこのままにしておこう、と思った。消してしまうのは少しもったいない気がして。 びっしりと書かれた文字を見つめたあと、視線を前に向けた。落書きの上にノートをかぶせ、今度はすらすらとペンを走らせる。再び見た黒板のイラストは、平安時代の十二単だとすぐにわかった。 終了のチャイムと同時に授業は終わった。皆片付けは早いもので、席を立ちパラパラと教室を出ていく。真璃も教科書とノートをまとめ、席を立った。しかし、後ろの席の川瀬は、まだ突っ伏していた。どうやら寝ているらしい。特にめずらしくもないので驚きはない。このままにしておこうかという悪戯心が湧くが、後で文句を言われても嫌なので、遠慮がちに肩を叩く。眠りが浅かったのか、川瀬はすぐに目を開けた。そして、真璃を見上げ、「ありがとさん」と薄く笑った。 そこから3年C組の教室までは、階段を上らなければならなかった。教室に戻るとにぎやかで、すでに弁当を広げている者もいた。真璃は席に向かうと、さっそくパンをかじっている丸井に声をかけた。 「川瀬ってば、今日も寝てたんだよ」 肩を叩くの何回目かしら、とわざと呆れた表情をつくれば、丸井は思わず吹き出した。 「起こさずにそのまま放置してくりゃよかったじゃん」 「それも考えたけど、ほら私優しいから」 「歴史の教科書は字が小さいから仕方ねーだろ」 遅れてやってきた川瀬に目を向けつつ、真璃も弁当箱を開けた。 真璃の右隣が川瀬の席だ。その後ろに丸井が座っている。自分の席から移動することはなかったため、いつの間にか三人で昼食をとるようになっていた。ものすごく親しいわけではなかったが、気さくに話しかけてくれる川瀬と丸井のことが、真璃は好きだった。彼らにとっても、多くの女子生徒と違い下心なく接してくれる真璃は話しやすかったのだろう。 しかし、楽しい時間は過ぎ去るのが速いのだ。五時間目の予鈴はすぐに鳴った。鞄から教科書を取り出そうと探っていると、真璃の脳裏に再び父親の言葉がよぎった。 「どうした?」 斜め後ろから丸井に声をかけられ、思わず振り返る。そこで、自分が溜息をもらしていたことに気がついた。 「ううん、なんでもない」 丸井は一瞬眉根を寄せたが、「そうか」と言って視線を真璃からそらした。真璃もすぐに向き直り、予習してきたノートのページを開いた。
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