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実話怪談の収集法は人それぞれだが、私の場合は、とにかく人に会う事だと思っている。一人でも多くの人を紹介してもらうように常々色んな人に声掛けしているし、また、自分でも人が集まる場にこまめに足を運んで、出来るだけ多くの人に会うようにしている。
先日、とあるセミナーに出席した私は、その場でソムリエのAさんを紹介された。少し白髪の目立つ、50絡みの温厚そうな男性で、丁寧でありながら嫌味の無い話し方は、いかにもベテランのソムリエという感じだった。ワイン通ではないがワイン好きである私としては、渡りに船とばかりに、業界関連の色んな話を聞きまくった挙句、図々しくも切り出してしまった。
「……あの、実はこの後、すぐそこのワインショップで一本買って帰ろうと思ってたんですが、もしお忙しくなければ、その、見繕って頂くわけにはいきませんでしょうか……」
「ええ、よろしいですよ」
穏やかな笑顔を浮かべながら、Aさんは快諾してくれた。
ワインショップの中に入ると、銘柄ごとに分けられ、各ボックスごとに同じワインが各々10本くらいずつ入れられている。高いものは別に冷蔵庫で保管されているが、勿論、私の求めるものはそんな所には無い。一本千円以下で、という私の正直過ぎるリクエストに対しても、「承知しました」と快く頷いてくれたAさんは、まず一つの箱の前で立ち止まった。
一本税抜き900円の、フランス産赤ワインが箱の中に並んでいる。Aさんは徐にその中の一本を手に取ると、じっとその表面を眺めている。少しボトルを回転させてみたりしたが、ものの数秒で箱に戻すと、また新たな一本を手にとって、表面を眺めて、また箱に戻した。同じような動作を繰り返して箱の中のワインをひと通り眺め終わると、軽く首を左右に振ってみせた。
「もう少し見てみましょう」
ゆっくりと歩きながら、床に並べられたワインの箱を見て回っている。そこから三つほど離れた箱のところで、ふと歩みを止めた。「タイムセール。どれでも一本300円(税抜き)」という手書きのポップがつけられたその箱には、雑多な産地のワインが無造作に放り込まれている。
足を止めたAさんは、さっきと同じように、ワインを一本ずつ取り上げて眺め始めた。さっと目を通しては箱に戻す動作を三回ほど繰り返した後、一本のワインを手に取って、少しじっくりと眺め始めた。私が見たことのない、南アフリカ産の赤ワインで、エチケットを見ると、今から三年ほど前の年が記載されていた。
そのワインをしげしげと眺めていたAさんは、軽く頷くと、私の方に差し出してきた。
「これは、お買い得ですよ。保存状態も良くて、丁度飲み頃です」
「はあ……」
南アフリカのワインはあまり飲んだことがなかったが、どんなものだろう。正直、タイムセールで一本300円のワインに多くは期待出来ないだろうと思ったが、一応プロのソムリエが勧めてくれてるんだし、どうせ失敗しても330円か。私はそのワインを買うことにした。
Aさんも自分の為に、ワインを買った。やはり、同じように、さっと目を通しては箱に戻す動作を繰り返した後、チリ産とアメリカ産の、いずれも500円以下のワインを一本ずつ買っていた。
「お待たせしました」
「いえ、こちらこそ、私の買い物にお付き合い頂きまして、有難うございました。やはり、エチケットとか瓶が清潔に保たれてるかどうかって、凄く大事なんですね」
Aさんが、ワインの表面を眺めて選んでいたので、そう言うと、彼は少し照れたような笑顔を浮かべた。
「ええ、まあ……勿論汚れが無いかどうかも大事ですが、それだけではないんですけどね。まあ、長年の勘と言いましょうか、結局、そういうものが大切です」
なんだ、結局は勘と経験ってわけか。私としては少し拍子抜けしてしまった。
「さて、それでは行きましょうか。少々荷物が増えましたので、私はここからタクシーを拾ってしまおうかと思うのですが、K様はこれからどちらの方に向われますか?」
「私はS区の方です」
「そうですか。私はM市ですので、方向的に同じですから、よろしかったら、途中まで相乗りされますか?」
「えっ、宜しいんですか?」
更に色んな話が聴けると思った私は、図々しくもお誘いに乗ってしまった。
「勿論です」
穏やかな笑顔を浮かべながらAさんが道路脇で手を上げる。折よく、一台の空車が寄って来た。後部座席のドアが開くと、運転手に行く先を告げる為に、Aさんが半身を入れた。
ところがその途端、彼の口から「あっ!」という小さな声が漏れたと思うと「すみません、間違いです。失礼しました。どうぞ行ってください」と慌てた様子で運転手に謝っている。怪訝そうな顔をした運転手はドアを閉めると発車してしまった。
今度は私に向って、Aさんが平謝りに頭を下げる。
「申し訳ございません。実は、その……今、持ち合わせが無いことに気付きましたので、やはり電車で帰ることにします。どうも大変失礼致しました」
ロマンスグレーの頭をぺこぺこ下げるAさんがなんだかお茶目な感じがして、私は思わず笑顔になっていた。
家に帰って、一時間ほど経ってから、開けてみる。無精な私は、余程のことが無い限り、デカンタとか使わない。ましてや、言ってはなんだけど300円のワインでもあるし、一応、澱には気を付けながらも、直接グラスに注いでしまう。
まずは香りを嗅いでみる。鼻先をグラスに近づけた瞬間、おや、と思った。ワインの液面からは、馥郁たる香りがあとからあとから立ち上ってくる。こんなに香りが持続するワインに出会ったことは無かった。高まる期待に急かされるように、一口含んだ瞬間、その豊かな香りが凝縮された状態で、口内一杯に爆発した。そして、果実味豊かで複雑な味わいが、私の舌の全面を心地よく刺激し始める。
「……すごい……」
思わず声が漏れてしまった。さしたるワイン歴があるわけでもないのだが、そんな私でも、こんなものが滅多に出会えるものではないというのは、すぐに分かった。タイムセールの箱に放り込まれていたものの中から、外側を眺めただけでこんなに素晴らしいものを見つけ出すなんて。流石プロのソムリエだと感心しながら、私はあっという間にボトルを空にしてしまった。
その翌月、二回目のセミナーの会場で、私はAさんに再会した。
「この間は、素晴らしいワインを見繕って頂いて、有難うございました。美味しいだけでなく、なんと言うか、元気を貰えたような気がしました」
私がこの前のお礼をすると、Aさんも満面の笑みで応えてくれた。
「お気に入り頂けたなら何よりです。今、元気を貰えたと仰いましたが、まさにワインの持つ生命力を感じられたのでしょうね」
「生命力、ですか」
「ええ、生命力です。ワインは実際に、生き物なんです。葡萄の果実に集約された植物の生命は、収穫され、搾りこまれて液体になっても、単に形が変わっただけで、樽の中で、そして瓶の中で、ずっと生き続けています。そこにはまさに生命力が輝いています。当然、そのようなワインは味わい豊かで、色も香りも盛りを迎えていますから、素晴らしい味わいをもたらしてくれるのです」
Aさんの言葉がだんだんと熱を帯びてくる。
「そして、生き物である以上、ワインも一本一本、違います。人も動物も、生き物である以上、一つとして同じ個体は無いですよね。見かけ、体臭、活力、体格、密度、性質……同じ畑の葡萄で同じ醸造所で作られても、出来上がってくるものは、実は一本一本違うのです。今言った”生命力”にも、もともとばらつきがあるわけです。
「そして、それらが何百キロ、何千キロという距離を輸送され、何か月も保管されてから、皆様のお手元に届くのです。その間、強い衝撃や、急激な温度や湿度の変化に曝されるものも沢山あります。勿論、最近では輸送や保管の技術も、それなりには進歩してますが、現実問題、全てのボトルが理想的な環境で届けられるなどということは、不可能です。当然、ワインの健康や生命力、果ては寿命なども大きく影響されます。そこでも、また一本一本、ワインたちの”運命”が細かく分かれていくというわけです。
「そして、どんな生命であれ、時が経つにつれ、各々の生命力は少しずつ衰え、今度は劣化という過程が進み始めます。生命力が衰える一方、生き物としての劣化が進行していく……すなわち、”老化”が始まるわけです。そして、それは留めようもなく進行し、やがて”死”を迎えるのです」
にこやかに話していたAさんの表情が、どことなく厳粛なものになっていた。
「この仕事を長年続ける中で、毎日毎日何十本というワインに触れているうちに、抜栓しなくてもボトルを外側から見るだけで、それがどんなワインなのか、段々とわかるようになってきました。生きているもの、それもまだまだ成長する力に満ち溢れているもの、反対に、病んでいるもの、死に向って歩き始めたもの、もはや死にかけているもの……そして既に死んでいるもの。ボトルを通して発散されてくる、生命のオーラ、そして死のオーラ、両方を正確に感じとる事が出来るようになったのです。更には、いつ頃それが死ぬのか、といったことまで読み取れるようになりました」
こういったAさんの話は、流石に少し突飛な感じもしたが、それだけに非常に興味深いものでもあった。私は、話を合わせながら、更にAさんの言葉を引き出そうとしてみた。
「ワインの寿命までわかっちゃうなんて、凄いですね」
「ワインだけではありません」
「ワインだけじゃない……?」
「ええ、ワインだけではないのです。およそ、"生きているもの"であれば、何であれ、誰であれ……」
私にはAさんの言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。
(およそ生きているもの……それじゃ、例えば動物や植物……人間なんかも……?)
私の心を見透かしたように、Aさんは幽かに笑った。
「まさか、と思われますか?でも、本当なんです。先日あそこでワインを買った後、私が一度タクシーを止めて、乗ろうとして慌ててやめたのを覚えていらっしゃいますか?」
覚えている。持ち合わせが無いことに気付いたと言って、慌てて乗るのをやめたんだった。
「実はお金が無かったわけではないのです。乗るのをやめた理由は、あの運転手の顔を見た時、彼が間もなく死ぬ運命にあることがわかったからなんです」
「……まさか……」
いきなりそんな話をされても、私には信じられなかった。
「調べて頂ければわかりますが、あの日、午後三時半頃、つまりあれから約30分後、Y通りの交差点で、T交通のタクシーが大型トラックに衝突され、運転手と乗客一名が亡くなられております」
「じゃあ、それが……」
「そうです。私達が乗ろうとしていたタクシーだったんです」
私には、俄にはAさんの言う事が信じられなかった。だが、確かにあの時Aさんが乗ろうとしてやめたのは、特徴的な塗装が目立つT交通の車だったし、あそこからS区経由でM市に向かうとすれば、間違い無くY通りを通る筈だ。もし、あのタクシーにそのまま乗っていたら、私達が事故に巻き込まれていたなんて……私は思わず身震いした。
つまりAさんは、色んな人の外見だけでその寿命を判断出来るというわけだ。それも、もともとはワインの状態を見極める能力を応用したのだと言う。
「あの、ソムリエの方って皆さん、そうやって人の寿命がわかるものなんですか?」
興奮した私は、思わず馬鹿な質問をしてしまった。
「いや、そんなことはないですよ。あくまでも私の個人的な事情によるものです」
Aさんは穏やかに笑いながら、私の質問に答えてくれた。
「今申し上げたお話も、何といいましょうか、もともと私が持って生まれた資質のようなものが関連しているように思います。もともと私の生家は、とある田舎の方にある、小さなお寺でした。そこの住職である私の父は、その地域の葬儀葬祭関連を一手に取り仕切っていました。いきおい、自分の住居にすぐ隣接しているお堂の中に、ご遺体が持ち込まれることは珍しくもなく、更には、仮通夜等の為にご遺体が一晩そこに安置されていることもありました」
自分の生い立ちを語るAさんは、どこか懐かしそうな表情になっている。
「そうこうしているうちに、未だ幼い頃から、私は”そういうもの”を見聞きする能力がすこしずつ養われていたのかもしれません。はっきりとは分からないが、何となく感じる、程度にはなっていたように思います。ただ、このままそれが進んでいったとしたら、いつかはっきりと見聞き出来るようになってしまうかもしれない。私にはそれが恐ろしかったんです。だって、”そういうもの”が、常にはっきりと見えたり聞こえたりしたら、それこそ怖いですよね。幸いにも自分は次男だったので、寺の後継者は長兄に任せ、高校を卒業するとさっさと寺を出て、外の世界に仕事を求めました。そのまま現在に至る、というわけです」
Aさんの話を聴いているうちに、ますます私の関心は高まって来た。お寺育ちで、わずかながらも”視える”能力を身に着けた人が、ソムリエを続けているうちに、ワインの、更には様々なものの生命と死を感じ取る能力を身に着けた……ひょっとして、この人は色々面白い体験談を持ってるかも……これは凄い鉱脈を掘り当てたのかもしれないと思った私は、ストレートに本題に踏み込むことにした。
「色々お話頂いて有難うございました。実は私、不思議な話や奇妙な話、要は怪談と言ってもいいんですけど、そんな類のお話を集めているんです。それで色んな方にそういう類のお話が無いか、いつも聞いて回ってるんですけど……お話を伺っていると、色々貴重なご経験をされているようにお見受けしますが、宜しければ、その体験談をお聞かせ願えませんでしょうか」
「そうですね……私も自分自身の体験が誰かのお役に立つのなら……というか、私自身、この"能力"が自分にもたらした不思議な体験を誰かに聴いて頂けるなら、何やらほっとするような気も致します……わかりました。もしご興味がおありなら、私の体験をお話をするのに吝かではございません」
私の目をまっすぐ見据えたAさんは、生真面目な表情で了承してくれた。やった!これは期待できそうだ。
「有難うございます!では、今度ゆっくりお時間を頂いて……例えば、再来週くらいで如何でしょうか」
「……再来週ですか……」
Aさんは少し難しい顔をした。
「ご都合悪いですか?でしたら来月でも」
「いえ、早い方が宜しいかと思います」
私の目をじっと見つめ直したAさんは、妙に固い表情で続けた。
「……出来れば一両日中にも」
[了]
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