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舞踏会に行きたくて、でも行けなくて
「真田先生、生徒たちが心配しています。もちろん、他の先生方も」
魔法にかかって2週間が過ぎたある日、校長が家に来た。あまりにもの突然の事に茉莉は多少焦りながらも、校長を家に入れた。
茉莉の心の灰はすっかり消えて無くなっており、校長は茉莉を見た瞬間、「元気、なようですね」と驚いたように言った。
「校長先生は、私を引き戻しに?」
「ええ、ですが、真田先生のお気持ちを最優先に思っています」
「私がなぜこうなってしまったかは、ご存じですよね?」
「……ええ、検討はついています」
校長は言いにくそうに言うと、茉莉は紅茶を一口飲む。
「今は、誰が私に代わりに?」
「……佐藤先生です」
「……そう、ですか」
辺りに沈黙が広がり、茉莉はまた紅茶を飲む。校長も紅茶を飲むと、ちらりと茉莉を見て、それからカップを置いた。
「真田先生、もう少し早く対応していれば、このような事態には——」
「校長先生のせいではありません。これは、私の問題です」
「ですが——」
「校長先生。残念ながら、まだ戻ることは出来ないと思います」
茉莉は静かにそう言うと、校長が口を開いたり閉じたりしながら、「そうですか……」と呟いた。
「校長先生がわざわざ家に来てくださったのは、本当に嬉しく思っています。ですが、すみません」
「やはり、原因は佐藤先生ですか……?」
校長は言いにくそうな顔をすると、茉莉はこくりと頷く。
「怖いんです、会うのが。また、同じことを繰り返すんじゃないかと思って。誰も助けてくれない。当たり前です。私はもう、子どもじゃなくて大人ですから。問題は自分で解決しないといけません」
「真田先生……」
「ずっと夢を見ていました。教師になる夢です。ずっと、小さい頃から。だから、大学を卒業して、教員免許を取って、やっと教師になることが許されたとき、本当に嬉しかったんです。初めて生徒じゃなくて、教師として学校に登校した日のことも。仕事は大変でした。聞いてはいましたが、毎日残業で、鬱になる人もいて。でも、楽しかったんです」
茉莉はニコッと笑うと、校長が唖然とした様子で茉莉を見る。
「想像していた仕事とは、かけ離れていました。教師は授業を教えるだけじゃない。次の授業内容を考えないといけないし、プリントの作成や、宿題の作成、テスト作り、報告書の作成など。どれも大変だし、忙しいし、量は半端じゃないし。でも、すごく楽しかったんです。生徒のことを考えながら授業内容を考えたり、そういうのが。この子は、ここが苦手だから、ここは緻密に教えようとか、どうやったら楽しみながら授業を受けてくれるか、とか」
茉莉は紅茶を一口飲むと、空になったカップを置き、校長を真っすぐ見る。
「でもいつしか、朝を迎えるのが楽しみだったのに、それが段々と憂鬱になっていったんです。午前零時を過ぎるのが嫌で、明日を迎えるのが嫌で。ベッドから起き上がるのも、嫌で嫌で」
「佐藤先生が切っ掛けですか?」
「はい。こんなところでへこたれないって思ってたんですけどね」
茉莉は力なき笑みを浮かべると、校長が浮かない顔をしながら、心配そうに見つめる。
「人間って思っていたより、ずっと脆かったんです。大丈夫じゃなかった。ゆっくりと心に灰が積もっていって、それが段々と心を黒く、埋め尽くしていくんです」
茉莉はカップに伸びた手を止め、行き場のない手を足の上に乗せると、零れ掛けそうになった涙を必死に堪える。
「真田先生は、どうして教師になりたいと思ったんですか?」
突然、校長が茉莉に問いかけると、茉莉はぼんやりと過去の記憶を漁り出す。
茉莉が教師になった理由。
「私、昔から数学が得意で。テストとかでもいい点ばかりで、それでよく友達から数学を教えてほしいと頼まれて、数学を教えていたんです。放課後に、図書館で。その子、めちゃくちゃ数学苦手で。最初、私が言ったことも全然理解出来てなくて。それで、しばらく考えたんです。どうやったら、その子に伝わるかって」
校長先生は紅茶を飲むと、「それで?」と優しく言う。
「何度も何度も考えて、その子に数学を教え続けて、それでようやく、その子に伝わったんです。今まで解けなかった問題を当たり前のように解けるようになって、その子、泣いて喜んだんです。大袈裟だと思うかもしれません。でも初めてその子に伝わって、感謝されたとき、心が熱くなったんです。やった、伝わった、解けたって。その子と同じくらい、私も喜びました」
校長は穏やかな顔で何度も頷くと、空になったカップを見つめ、それから口を開く。
「それが、真田先生が教師になった理由ですね」
「はい」
「とても素敵な話ですね。久しぶりにそう言う話を聞いて、心がほっこりしました」
校長はにっこりと笑うと、ソファから立ち上がる。
「真田先生、今すごくいい顔をしてらっしゃいますよ」
茉莉もつられて立ち上がると、校長を玄関まで見送り、頭を下げる。
「今日は、お忙しい中、ありがとうございました」
「いえ。こちらも突然お邪魔してしまい、すみません」
「もう少しだけ、休ませてください」
「ええ、構いませんよ。ゆっくりでいいんです。真田先生には、まだまだ未来がありますから」
校長はそう言うと、ドアを開き、一礼してからドアを閉める。茉莉はまた頭を下げると、ドアが閉まってからもずっと、もう見えない校長に頭を下げ続けた。
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