冬の彩度

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 透明で淡い光が流れるように窓から差し込み、白く濁った湯の上で戯れる。その煌めきをそっと両の手ですくい、はらはらと指の隙間からこぼれる水の音を聞きながら窓を見上げると、そこには儚くも澄んだ冬の空があった。  ああ、今日も一日が終ろうとしている――空は寂しいのに日が暮れる少し前、明るいうちにこうしてお風呂につかるのが、何よりも贅沢な気がして、私は好きだった。  遡ること二日前、目覚めるとそこは雪山かどこかに違いないと思った。これは夢か、もしくは死後の世界なのかと。六畳一間のワンルーム、左手にその存在感を放つエアコンは、うんともすんとも言わなくなっていた。  十二月に入って一週目。暖房の効かない部屋で、震える手に息を吐きながら電話した相手は幼馴染の茉央(まお)だった。大家さんは旅好きですでに地球の反対側、来月までは戻らない。年末、静岡の実家へ帰るまでの数週間余り、どうか泊めてほしい。その切なる思いは条件付きで叶えられた。  それは茉央の働くカフェ兼ホステル、「ミスルトウ・ハウス」を手伝うこと――こうして有り難くも二階の一室を貸してもらえることになった。  住宅街の一角にあるそれは、隅田川沿い、清澄白河あたりの最寄りの駅から10分程度歩いたところにあった。ホステルの宿泊客は海外からきたバックパッカーが中心で、カフェスペースはオープンなので誰でも入れるようになっている。ソファ席に囲まれた南側の一区画はちょっとしたスペースになっていて、絵とか陶器とかアクセサリーとか、近くの美大生が時折小さな展示会を開いている。  命からがら抜け出した冷凍庫のような極寒のワンルームから、昼も夜も温かいコーヒーの香りに包まれたこの空間へ、大げさなスーツケース一つを携えて踏み込んだ昨夜。ここは天国かと思った。  お風呂からあがると、リラックスした部屋着用のワンピースへ着替える。濡れた髪をタオルでぬぐうとほんのり、オレンジとラベンダーが混ざったようなハーブの香りがした。バスルームからリビングへ抜けるドアを引くと、赤いこたつ上掛け布団の下から、色味のない爪先が覗いている。  思わず声をあげそうになり、咄嗟にガウンをつかむ。いつでも逃げ出せるよう玄関へ駆けると、ひいっと飲み込んだ言葉を吐き出すように電話の向こうの茉央に伝えた。 「あ、あの、し、死んでる。ひと、いた、こたつに」  落ち着け、え、何。茉央は私の言葉を一つひとつ確認するとようやく「あー」と低い声で言った。 「ごめん、言ってなかったっけ? それは……」  気配を感じふっと振り向くと、私の肩からいつの間にか落ちていたグリーンのタオルを拾い上げ、頭を掻きながらずり落ちそうな眼鏡をかけた男が突っ立っていた。 「どうも、(こう)です」  声も出せずにスマホを握りしめたまま沈黙していると、機嫌悪そうに彼は続ける。 「まあ……まだ生きてますけど」 *** 「ごめん、夕梨(ゆうり)。すっかり忘れてたわ。うんうん、まあこの部屋に住んでるっていってもほとんど帰ってこないし、共用なのはキッチンとこたつだけだからさ」  江という名のその男は、ミスルトウ・ハウスのオーナーである伸治さんの遠い親戚で、ここに居候しているらしい。二階のこの部屋は少し広めにできていて、間取りは 2DK。個室が二つとリビングが一つだ。元々江一人で持て余していたところを、今回私が部屋に困っているというので、オーナーは三週間ならばと快く貸してくれた。  濡れたタオルを私の肩にかけ直すと、茉央の言う通り、江はそのまま部屋を出て行った。心配して三階の自分の部屋からかけ下りてきた茉央が、出て行く江を横目に今日はおそらくもう戻らないだろうと言う。 「ああ、そういえば夕梨と同じ大学だった気がする、たしか。学年も同じだし」 「へ……何学部?」 「さあー」  茉央は興味なさそうにスマホを見ながら、はっと思いついたように言った。 「あ、まあ江のことはどっちでもいいとして、あとでビール持ってくるよ。今日はもうあがりだし。私は上の階の部屋だから、なんか困ったことあったら連絡して。七時くらいにまた降りてきまーす」  どっちでもいいか、よくないかはきっと私が決めることなんだろうけれど、茉央は昔からそういう細かいことを気にしないサバサバした性格で、ペースというものを自分以外の人間も持っているということを知らない。だからどんどん周りの人を巻き込んでいくのだが、茉央の波は速くておっかないけれど乗るのは心地よく頼もしくさえあって、私は小さい頃から彼女のペースに飲まれるのが嫌いではなかった。  戸惑いながらも、無理なお願いを聞いてもらったのだから、文句は言えまい。それに、ほとんど帰ってこないなら本当にどっちでもいいかも。湯冷めし始めた体を身震いし、こたつに足をつっこむ。掛け布団の下に隠れていた読みかけの文庫本を引っ張り出すと、どこからかつんと鼻をつく匂い。そこには鮮やかな色をした、食べた覚えのないみかんの皮――。  そうか、私はここで誰かと暮らしていくのか。その時確かにそう思った。
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