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そんな私ですから、領分が違う、いや、いっそ越権行為かも知れないとは思いつつ、悪文には徹底的な赤字を入れずにいられません。
その分仕事は滞り、眼精疲労は増す一方なのですが、全国から続々と押し寄せて来る答案の山をそっちのけに、私は壊れた日本語を修復するべく必死の努力を傾注します。
けれど、どんなに頑張っても、一向に反省しない回答者がいるものです。
一体何のために添削指導を受けているのか理解に苦しみますが。
その名は、豪田直。
都立桜田高校の三年です。
とにかく、この豪田の文章は、恐ろしいまでに破綻しているのです。
まず目に余るのが、誤字脱字の乱発です。これを直すだけで、答案が真っ赤に染まります。
また、やたらに四文字熟語を使いたがるくせに、その殆どが誤用。
『一瀉千里』と書くべき箇所に『悪事千里』とある、などはまだかわいい部類です。
自分だけが一人合点して、ろくな説明もせずに、突然結論を放り投げることもしばしばで、結局何が言いたいのかよくわかりません。
こちらは、精一杯想像力を駆使し、何とか論旨を辿って切れた糸を結び直すのですが、その労苦ときたら!
一文がだらだらと長いのも悪癖で、これは日頃の喋り口調で書いているからでしょう。そのため、書いている間に最初の主語が何だったかをすっかり忘れ、最後の述語が受動態であるべきなのに能動態になっているなど、辻褄が合わないこともしばしばです。
他にも、日本語の特性ではありますが、
「当時の幕府の状況の判断の誤りが」
などと「の」が執拗に繰り返されたり、
「小田信長が明智光秀に命じたことが、却って小田信長の野望を挫折させ、小田信長自身の死を招くことにもなった」
などと、「小田信長」が何度も出て来る。第一、「織田信長」だろ! 誰だ、小田信長って!
失礼しました、私の日本語も乱れました。
ともあれ、こんな答案に何時間もかかって赤字を入れる、私の苦衷をお察しください。
しかも、いくら添削しても一向に改まらないのです。
この苦行はかのシジフォスに匹敵し、私の心の中では次第に豪田に対する怒りと憎悪が煮えたぎるようになりました。
ところがこの豪田、性格は真面目なのか、友だちがいなくて暇なのか、きちんきちんとさぼらずに提出してくるのです。
むしろ、さぼってくれればいいのに。
ストレスは日増しに高まり、ついに私を鬱の手前にまで追い込んだのです。
朝、豪田の答案が来ているかも知れない、と思うだけで起き上がることが出来ません。自分を叱咤し、這うように出社して、案の定豪田の答案が来ていると、たちまち吐き気に襲われトイレに駆け込む始末。
このままでは、私の心が病んでしまう。
そうなったら、仕事も辞めて、鬱を抱えた引きこもりの人生です。
ご存知ですか。いまこの国では、「引きこもり百万人時代」が来ると言われています。
その八割が男性、六割が中高年。
他人事ではありません。
そうなってしまう前に、豪田に提出をやめさせなければならないと私は決意しました。
しかし、生半可なことでは、やめないでしょう。
ならば、殺そう、殺すしかない。
そう、思いました。
我が身を守るだけでなく、日本語を守るためにも、これは是が非でもやらねばならないことです。
言葉を汚す不届き者を、成敗する。
言葉の侍を自負する私に、天が与えた使命です。
確かに、豪田の命は犠牲となりますが、しかしそれは言葉を守るという崇高な理念の前に、欠くべからざる犠牲なのです。幕末の志士たちが自らの信念のために斬るべき人間を斬ったように、私も心を鬼にするべき時でした。
かくして、会社のデータベースから豪田の住所をハッキングした私は、ある朝、その付近で張り込みました。
まずは登校する豪田の顔を確認するためです。
けれど、その時、私を待っていたのは、ひとつの驚愕だったのです!
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