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「す、すみません! 少し頭を冷やしてきます」
背後から僕の名を呼ぶ声が聞こえたが沸騰した頭では聞き取れなかった。
喫茶室を飛び出した僕は、少し離れた場所にある木のひとつに背中を預けると、そのままズルズルと足元から崩れていった。
ドクドクと血の流れと共に、自分の体内を巡る魔力が活性化する。先ほど小さいながらも魔法を使った上、感情が大きく揺れてしまったせいだろう。
(駄目だ。落ち着け、落ち着かないと。また……)
かつて、僕の膨大な魔力のせいでひとつの森の一部が滅んでしまった。五年経った現在も草ひとつすら生えず、今も高濃度の魔素の染み込んだ土地になっている。
ここで同じ量の力を放出したら、この屋敷が広大とはいえ、下手をすれば王都の殆どを森と同じ死の土地にしてしまうかもしれない。
(そんな事は嫌だ! クロエお嬢様を失ったら、僕は壊れてしまう)
普段は主従関係を逸脱しないよう、あえて突き放す態度を取ってはいるが、本来の僕はかなり依存心が高いと思う。
だからこそ、クロエお嬢様に接する態度も常に気をつけてはいるものの、今回の用に情緒不安定になってしまうと、脆く崩れてしまうことを痛感した。
「僕は一体何をやっているんだ……」
自己嫌悪に陥り、両手で顔を覆って自分を責めてると、微かな花の香りとオレンジの爽やかな香りが鼻腔に届く。
多分、お嬢様を抱き締めた時に移ったのだろう。
「しかもお嬢様を泣かせてしまうなんて」
惑う気持ちがクロエお嬢様を泣かせ、無意識ながらも慰める為に伸ばした腕が彼女を抱き、そして我に返った途端、魔力を暴走させるとか、自業自得としか思えない。
くぐもった落胆する声が、どこにも逃げるのを許さない焦燥感を誘い、余計に落ち込んでしまった。
シャルパンティエ公爵家の事を考えれば、旦那様が今回お嬢様の相手に選んだ方は、家にとっても国にとっても良縁ともいえるだろう。
かたや国の王太子殿下であり、かたや貴族を魅了する珍しい菓子を提供する術を持つ公爵令嬢。
王太子は僕と同じ歳らしいが、現時点で外交にかなり力を入れてるそうで、外国からの客人へお嬢様のお菓子を提供すれば、商談も進みやすいだろう。
クロエお嬢様の作るお菓子は、それほどの力を持っているのだから。
だけど、僕がお嬢様に仕えて五年の間に気づいてしまった。
本人は隠してはいるものの、どうにも恋愛や結婚については否定的というよりも、拒絶感の方が強い。
どこでそうなったのかは分からないが、本人の口から色艶めいた話を耳にしたことがない事も、判断の理由のひとつだ。
彼女は否定するかもしれないけど、喫茶室を作る経緯も婚約から逃げる手段だったのではと思う。現に、旦那様から喫茶室の期限を告げられた時、凄く不服そうに眉根を寄せていたのを憶えている。
それなのに僕はクロエお嬢様の涙を見た途端、無意識だったとしても男として彼女を抱き締めてしまった。
子供だと思っていた肢体は、女性特有の柔らかく包むような温もりを持ち、指の間を滑るストロベリーブロンドの髪は夢見るような花の香りを纏っていた。
このまま時が止まってしまえばいい。長年懸想してる心情としては、そう思うのが普通だ。
しかし、頭のどこかで冷静な僕が囁く。「恋に溺れ昔からの夢を諦めるのか」と。
正直、心は激しく揺れ動いた。
僕はお嬢様から離れ、魔術士になりたかったのか、と。
で、結局叫んだのが「頭を冷やしてきます」の悲鳴だったのだ。
「あー、もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。早く戻らないといけないのに……」
「おや、ルーク。こんな所でサボりかい?」
一人で作業をしている彼女の為に早く戻らなければと、必死で切り替えようとしている僕の背後から聞こえた声に、勢いよく顔を上げると。
「だ、旦那様」
「サボりはいけないなぁ。ルーク」
ニヤニヤと揶揄する旦那様と、それから……。
「君がクロエ嬢の……。今日はよろしく」
煌く金の髪をゆるやかに撫で付け、空色の瞳を細めて告げる彼に。
「……無様な姿をお見せして申し訳ございません。シャルパンティエ公爵家の執事見習いのルーク・カタリエと申します。本日は喫茶室へようこそおいでくださいました。フランツ王太子殿下」
内心を隠し、僕は恭しく礼を取ったのだった。
まだ約束の時間よりも随分早かったものの、このまま外で待たせる訳にもいかず、僕は立ち直っていない心を叱咤し、喫茶室へ二人を案内する。
当然、クロエお嬢様は二人の出現に驚きはしたが、「少しお待ちください」と告げると、先にお茶の支度に取り掛かるようにしたようだ。
「随分早く来たのね、お父様」
「そう……ですね」
僕自身も驚きました、とは思ってはいても言葉にはせず、曖昧に笑って返すにとどめた。
「でも、ルーク君が戻ってきてくれて良かった。きっと、一人じゃお父様と殿下の相手なんて緊張しちゃってパニックになっちゃうもの」
隣でケトルからカップを温める為のお湯を注いでいると、お嬢様は苦笑して洩らす。
それは当然だろう。
まさか父親が連れてきた相手が王太子様なんて、庶民だったら卒倒するかもしれない。だが、お嬢様は公爵令嬢故に驚きはしても、最低限の礼儀はできているようだ。
(だけど、僕は今日殿下が来るのを知ってたんです)
一週間前、旦那様が殿下とお嬢様を引き合わせる為に、僕に協力を取り付けてきたのだ。条件として僕を魔術士候補して推薦すると……。
それは閉ざされた闇に射し込む一条の光だった。
諦めた筈の夢が、クロエお嬢様を生贄に差し出せば叶うと、旦那様は囁く。
(どうしても諦めきれなかった。しかし、その為に結婚を厭うお嬢様を犠牲にするのは躊躇われた。だから……)
僕は旦那様の連れてくる相手を言わず、その日は旦那様による貸し切りにして欲しいとだけ願い出たのだ。
僕は全ての判断をクロエお嬢様に投げつけたんだ。
(本当、格好悪いな僕。自分の事なのに反吐が出る)
だけども、あの事件以来抱いていた魔術士の夢が、あと一歩の所まで来ているのだ。クロエお嬢様と殿下が結ばれれば、影となって見守る事ができる。
「大丈夫、ルーク君。顔色悪いよ?」
一瞬、欲望の闇に飲まれそうになっているとクロエお嬢様の声が聞こえ、はっと我に返る。
今、僕は何を考えていた……?
「いいえ。心配ありません。ぼんやりしててすみません」
取り繕うような笑みを口元に浮かべ、不安そうに顔を歪めるお嬢様へと謝罪を告げた。
「そう? でも、無理しちゃダメよ?」
「はい。今はお二人の方に集中しましょう」
クロエお嬢様は納得していない表情をしていたが、これ以上追求されたら何を口走るか分からないから、僕は殿下と旦那様に意識を向けてもらうよう進言したのだった。
「じゃあ、お茶も入ったし、そろそろ冷やしていたケーキも程よいと思うから、お茶を配膳してもらってもいいかな」
トレイに乗ったカップとポットを僕に渡しながらお嬢様が言うのを、彼女の細い背中を押して口を開く。
「クロエお嬢様は、お二人を接客してください。僕がケーキをカットしてお持ちしますので」
「え……、でも……」
「大丈夫ですから。ご一緒に少し休憩なさってください」
「それじゃあ、お任せするね」
追い出すようにグイグイ背中を押しつつ旦那様を横目に見ると、小さく頷くのを認める。多分、これで良かったのだろう。
心と行動が裏腹な僕は、お嬢様が椅子に腰を下ろしたのを確認し、氷室からセルクルに収まったままのケーキを取り出す。
淡い橙色に、濃度の増したオレンジが映える。表面のツヤツヤしたのは、兎皮膠を塗ったものだろうか。これまでもジャムを塗布して艶を出したものを見ているが、膠を使ったものはそれよりも煌めいて綺麗だ。
僕はケーキパレットを湯で濡らして、セルクルに添うように一周する。すると、熱で溶けたムースが綺麗にセルクルから離れ、崩れる事なく取り外す事ができた。
それを一人前ずつカットしてお皿に乗せる。断面は淡いオレンジとスポンジの卵色がシンプルながらも優しい雰囲気を伝えてくれる。
「お待たせしました。オレンジのムースになります」
立ち上がりかけたクロエお嬢様を目で制止し、三人の前にそれぞれ皿を置くと、僕は続けて「失礼します」と告げ、喫茶室を静かに出たのだった。
(あのまま居続けたら、僕の理性が持たないだろうし……)
オレンジのように甘くも酸っぱい香りが、暗く沈んだ僕の心を責めているようだった。
後日。仮ではあるが、クロエお嬢様とフランツ王太子が婚約と相成ったそうだ。
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