Mousse d'orange~オレンジのムース

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Mousse d'orange~オレンジのムース

 その突然のお父様からの貸し切り予約をルーク君から受けたのは、苺の季節も終わり、そろそろ冷たいお菓子に切り替えようかと考えていた初夏のある日。  なお、この世界は私の前世の日本と同じ、春夏秋冬の四季で一年が周る。 「ですから、明後日に旦那様が人を伴って来店されるとのことで、その日は絶対に貸し切りにして欲しいと……」 「急な話ね。お父様からは他には聞いてないの? 一緒に来店される方がどんな方とか」 「……特には。とにかく、そのようにお願いします」  一瞬の間を置いて言い切ったルーク君は、これ以上は追求してくれるな、と言わんばかりに、私から離れると閉店の支度に取り掛かってしまった。  突っぱねられても、もっとルーク君に問いただせば良かった。  私はその後に迫られる選択を前に、この日の事を思い出したのだった。  五日後。  私は喫茶室の厨房にルーク君と立っていた。お店の入口の扉にはクローズの文字が書かれたプレートが掛かっている。  前もって常連のお客様達には言ってあるから、多分大丈夫だろう。 「それにしても、本当に使われるんですか? この兎皮膠(ラビットスキングルー)」 「勿論。これがないと、今日のケーキ自体作れないもの」  ルーク君が怪訝に眉をひそめ見ているのは、お皿の上にある半固形状のもの。  これまで煮こごりのようなものを食べた事がないから、ずっとゼラチンや寒天ってないと思ってたの。  だから半分諦めてたんだけど、たまたま家に掛かってる絵の修復に来ていた絵師の方の作業をぼんやりと眺めてたら、茶色い粒をお湯に溶かして絵の具に混ぜてたの。それは色は違えども、見た事のある懐かしいトロミ。  まさか違う畑でヒントを見つけるとは思わなかったわ。  すかさず絵師さんの作業の手を止めて尋ねてみれば、絵画用のは不純物が多く食用に適してないが、街の画材店の主人が酔狂で不純物を取り除いたのを持っているから、そちらなら可能ではとの情報を聞き、早速馬車を出してもらい向かったの。  店主さんが本当良い方でよかった。おかげで趣味で作ったものだからと無料で戴くことができたんだもの。  今度お礼に喫茶室で作ったクッキーを持っていこうと決める。  で、数回試作を作ったんだけど、とても丁寧に作業をされたのね。獣独特の臭みも殆ど気にならなくて、継続的に取り引きできないかしら、って思うの。 「とりあえず、その兎皮膠をふたつに取り分けて、それぞれ五倍の水を入れてふやかしてくれる?」 「……分かりました」  まだ納得してないみたいだけど、訝りながらも作業に取り掛かってくれる。 (良かった。今日のルーク君はいつものルーク君だ)  私は隣に立つルーク君の様子をちらっと見て、内心安堵の吐息をつく。  先日、お父様からの貸し切りの話をしてきて以来、ルーク君の様子がおかしいのだ。ありえないミスをしたり、食器を割っちゃったり。  時々ぼんやりしては溜息をついちゃうし。うちのメイドさん達は憂い顔のルーク君素敵って賑やかだったけど、私は心配。  何か悩んでるのなら、少しは話してくれればいいのに、って思うの。  でも、無理やり問い詰めてもルーク君は話してくれないのが分かってるだけに、こうして見るだけしかできないのが歯がゆい。 (でも、なんでルーク君の事になると、こんなにモヤモヤしちゃうんだろう)  かつて──前世で恋人から告白された時も、恋人が会社の後輩と浮気してたのを目撃した時だって、こんな気持ちになってなかった。  自分の胸の内が理解できなくて、それを払拭するように今はケーキの準備に集中することにした。  現実逃避? いいえ、職務を全うする為に切り替えたんです! 「さて、と」  私が冷蔵庫──に似た氷室から取り出したのを見て、ルーク君が瞠目する。 「お嬢様、それは昨日のスポンジケーキの切れ端では……」 「うん。いつもはラスクにするんだけど、今日の為に一枚別に取っておいたの」 「そう……なんですね」  説明すると、チベットスナギツネみたいな呆れたような目で、ルーク君が私を見た。失礼な、これもちゃんと活用できるのよ!  当シャルパンティエ公爵家の喫茶室ではケーキを作る際、必ず四等分する。  土台に、中心に、そして上部分。それから、焼いた時に濃茶になる部分。  普通は、これも逆さにして使用する所が多いんだけど、正直食感も味も変わるから、喫茶室で出す商品については不使用となる。  とはいっても、これもちゃんと再利用するのよ。小さく切り分けてお砂糖をまぶし、オーブンで再度焼くと簡単ラスクが出来上がる。それを我が家の使用人達のおやつにしているのです。  だけど、今日はこれを使って土台にするの。 「次は、オレンジを絞ってジュースにしてくれる? あ、全部じゃなくて、二個程残しておいてね」 「種は除いたほうがいいですよね」 「できればお願い。あと、絞ったら漉しておいてくれると嬉しいな!」  私はリキュールを落としたシロップをスポンジケーキに塗りながらルーク君に指示を出せば、会話はいつものと変わらないものの、やはり目線を合わせてくれなかった。  本当に何かあったのだろか……。  そんな私の不安をよそに、不意にルーク君の周りの空気が違うのを感じた。  ルーク君はオレンジの入ったザルの上で、空気を包むように手を掲げると、不思議な光景が私の横で繰り広げられる。  するすると手の間の空気の中に、オレンジ色の液体が溜まっていったのだ。  どんな仕組みでそうなるのか分からないけど、本当に魔法って便利だなって思う。  ほどなくしてルーク君の手の間にあった、オレンジジュースに満たされた空気の珠が私に差し出される。 「これはどうすれば?」 「……」 「お嬢様?」 「え? あ? そ、そうね。今混ぜてるボウルに少しずつ注げるように、調節ってできる?」  スポンジケーキとシロップが馴染む間に、私は濃厚なミルクとオレンジキュラソーを混ぜていた。分離を防ぐ為にルーク君へお願いすれば、彼はいとも容易く糸のような細さで注がれるように、オレンジジュースの珠をボウルの上へと配置してくれた。  後ろから抱きしめられるような形でルーク君が立ってるせいか、背中が温かい。それ以上に頬の方が熱いけど。  背後から微かに香るハーブの香りにドギマギしながら、 「本当にルーク君の魔法って凄いよね!」  誤魔化すように感嘆の声を上げながらルーク君を見れば、一瞬面映ゆい顔をしたものの、すぐさま 「僕は他の作業をします」  と言って、私から距離を取ったのだった。 「ねえ、ルーク君。私、ルーク君になにかした?」  だって、こんな風に無視される原因なんて分からない。時間もないというのに、私の口から自然と疑問が零れていた。 「もし、私が悪いなら謝るから。だから、いつものように接して欲しいの……」  いつも一緒にいてくれたルーク君だから、距離を作られるのがこんなにも辛いだなんて思わなかった。  ポロリと頬に冷たい何かが伝う。それが涙だと気づく前に、私の視界は暗く閉ざされ、暖かいものに包まれた。 「……え?」  私……ルーク君に抱きしめられてる……?  自分に起こってる出来事なのに、まるで他人のような感覚に陥る。え? え? 「お嬢様には非はありません。全ては僕の……僕が悪いんです」 「それってどういう……」  ルーク君に非がある? ううん、そんな事ないよ。いつもツンツンしてるけど、私が粗相しないように、遠くから温かい目で見守ってくれてるの知ってるよ。  私がこの喫茶室を長く続けたいのを、自然と助けてくれてるのも知ってる。  ねえ、ルーク君。どうしてそんなに泣きそうな顔をしているの? 「す、すみません! 少し頭を冷やしてきます」  急にルーク君は私を引き剥がしたかと思うと、そのまま駆けるように店を飛び出してしまった。 「え、えーと……、つ、つづき……しようか」  濃密だったハーブの匂いが薄らぎ、置き去りにされた私は、ぎこちない手でボウルから落ちたホイッパーを持つと、作業の続きを再開したのだった。  これ、ダマにならないといいけど……。  途中、ふやかした兎皮膠を湯煎で溶かし、混ぜていた液体と合わせ型に流す。  ルーク君にお願いしようと思ったけど現在いないから、氷室に入れて冷却してる間に、綺麗に洗ったオレンジを輪切りにしてお砂糖と煮ることしばし。 「仕事を放り出して申し訳ありません」  と、少し疲れた顔をしてたけど、ルーク君が戻ってくれたのでホっとしたものの、 「やあ、クロエ。少し時間早いけどいいかな」  その背後に居たのは、お父様と……。 「こんにちは、クロエ嬢」  何度かお茶会や夜会でお会いした事はあるが、こうして会話をするのは初めての、我が国の第一王子であるフランツ様がお父様に続いて現れたのだった。
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