小夜子と私

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小夜子と私

 私の魂は、十二歳のあの日、死んでしまった。  幼い頃は、比較的活発な子供だったと思う。  チラシを細く丸めた剣で男の子たちと斬り合うこともあったし、女の子たちと折り紙でステッキを作って魔法少女ごっこもしていた。  小学校に入学してからも、休み時間はドッヂボールやケイドロをしている子供だった。  休日は父親に遊園地やアスレチックに連れて行ってもらって、平日の夜には母親から手芸を教えてもらったのをよく覚えている。  産まれてからの八年間、誰もに愛されて誰をも愛せる子供だったのは、私が両親から慈しまれて育ったからだと思う。  内向的になったのは、小学三年生の頃だ。  突然、父の地元に引っ越すことになった。  当時の私は友人と別れるのが嫌で渋ったのだが、大好きな祖父母のためだと言われては黙るしかなかった。  父は元々家業を継ぐのが嫌で実家を出た人であるから、この引っ越しも本意ではなかったのだろう。母は専業主婦であったから引っ越しに同意はしたものの、田舎に越すのに不満たらたらであった。  この話が持ち上がった頃の我が家は殺伐とした雰囲気で、それも私が引っ込み思案になった原因なのかもしれない。  母親は二人きりになると「涼子、結婚相手に長男はだめよ」とよく愚痴を言っていた。  最悪のスタートを切った新生活は、決して順風満帆とはいかなかった。  小学三年生にもなると学校生活にだいぶ馴染んでいるものだから、転校生というのは良くも悪くも浮くものである。ご多分に漏れず、私も学校に溶け込めなかった。  それは言葉遣いが違ったせいかもしれないし、ランドセルの色が赤ではなかったせいかもしれない。兎にも角にも、気付いたときには孤立してしまっていたのだ。  町全体に何となく受け入れてもらえない日々を送っていると、クラスにもそのような子が一人いることに気が付いた。  その女の子は昼休みになっても校庭へ遊びに行くことはなく、熱心に絵を描いたり本を読んだりしていた。  肌が青白くて、腕も足も枯れ木のように細い不健康そうな少女だった。  その子供は冴島小夜子といって、学校近くの市営住宅に住んでいた。私は彼女に興味を持ち、話しかけようと試みたのだが、親切なクラスメイトに止められたのを覚えている。 「あの団地の子とは遊ばない方がいいよ」 「どうして?」  私の質問に彼女は首を傾げた。「そういうものなんだって」と言って、彼女は校庭へ去っていった。  当時はわからなかったが、その団地に住んでいる子供と自分の子供を遊ばせるのが嫌だという親がいたらしい。  遊ばないことを納得できる理由がないのだから、止められても従う必要はない。私はその忠告を無視することに決めたのである。  小夜子は私に声をかけられたことに、随分と驚いた様子であった。絵を描く手を止めてこちらを見た小夜子の目は、いつもの伏し目がちな憂いを帯びたものとは違ってまん丸で可愛らしかった。 「小夜子ちゃんって絵が上手なんだね」  小夜子は「そんなことないよ」とだけ返すと、絵を描くのを再開するわけでもなく、再び目を伏せた。  あまりはっきりとは覚えていないのだが、当時流行っていた魔法少女のイラストだったと思う。  私は絵心のない子供だったので、絵が描ける彼女が羨ましくなり、連絡帳を差し出して「これに何か描いて!」とお願いしたのだ。  小夜子は恐る恐るといった素振りで連絡帳を受け取り、「何を描いたらいいの?」とか細い声を出した。  私は逡巡して、それからうさぎのイラストをお願いしたのである。  通っていた小学校では連絡帳の表紙を飾り付けるのが流行っていて、綺麗な表紙を見る度に羨ましく思っていた。  小夜子は宝の持ち腐れだった私のカラーペンで、うさぎや飴玉にクッキー、宝石を散りばめて可愛いらしい表紙を描いてくれた。  私はその絵を一目で気に入ったのである。  こんなに素敵な絵を描く子がいるなんて、もっと早くに話しかければ良かったと心の底から思った。 「明日からもお話しよう」  小夜子は少し迷ったようだが、首を縦に振ってくれた。  このときの出会いは未だに鮮烈で、彼女に描いてもらった連絡帳は大人になった今でも大切に取ってある。  小夜子との親交は六年生になっても続いていた。  小夜子の母親は昼夜を問わず働いている忙しい女性で、小夜子は家に帰っても一人だという。  そのようなわけだから、小夜子は私を度々遊びに誘った。小夜子の家でただお絵描きをしていることもあれば、近所の公園で日がな一日ブランコしていることもあった。  どちらにせよ、私たちはいつも二人で遊ぶのがお約束であった。  私は私で、父は帰りの遅い人であったし、母は祖父母の介護に忙しかったので、家に帰ったところで身の置き場がなかったから、小夜子と遊んでいると寂しい思いをせずにすんだ。  中学校も同じ学校に進学することがわかっていたので、私たちはますます結び付きを深めていった。  ある日のことである。  もう日も落ちようかという時分、小夜子が「子うさぎを見に行こう」と言い始めた。  それまでさんざっぱら遊んでいたし、門限である六時も迫っていたから、そろそろ帰ろうかと思っていたのだが、うさぎの赤ちゃんが見られると言われて見に行くことにしたのだ。  社前公園という近所にある公園は、地域で唯一うさぎを飼育している公園であった。  遊歩道に隣接しており、地元の人間が「社のため池」と呼ぶ巨大な池があって、そこには鯉や白鳥が住んでいた。私たちは時折、パン屑を持って餌やりに興じていた。  この頃、公園近くの遊歩道は鬱蒼と茂った木々のせいで、昼間でもほの暗い場所だった。  おまけに電灯の数も少なく、たとえ電灯があっても電気がついていないなんてことが当たり前にあった。昔は今よりも、公園の環境整備に力が入れられてなかったのだ。  不思議なことに、そのような場所には悪いものがついてまわる。このときは小学生を自転車で追いかけ回す不審者がいると学校で注意喚起がされていた。  実際に遭遇するまでは、自分が被害に遭うはずないと思うのが人間という生き物である。  特に私はあまりものを考えないたちであったから、小夜子の隣を「何だか暗いな」と思いながら歩いているだけであった。  だから自転車に跨ったまま暗がりで会話している二人組を見ても、何も思わなかったのだ。  その中学生ぐらいの男子二人組は、私たちが横を通り過ぎた後、少しばかりこそこそと話し合ってからいやらしい笑い声をあげた。  彼らはわざと自転車のライトをつけずにチリンチリンとベルを鳴らしながら、私たちの後をつけ始めた。背後から何かを投げてきていたが、カラコロという高い音からすると空き缶だったのかもしれない。  さすがに嫌な気持ちになったので、私は小夜子の手を取って走り出した。  小夜子は走るのがあまり得意な子ではなかったから、苦しそうに息をしながら走っていたのを覚えている。  男たちは、私たちが走ると笑いながらスピードを上げた。  捕まったら何をされるだろう。いくら相手が中学生でも殴られたり蹴られたりしたら痛い。もっと痛いことされるのは嫌だ。  何より小夜子なんて本当に細い子供であったから、少し殴られただけでも砕けてしまいそうで怖かった。  小夜子を連れて、夜道を必死に逃げる。  一際明るい電灯が、蛾をバチバチと殺す音が耳に残っている。  公園の入り口に設置された青い光を目印に無我夢中で走った。  小夜子の乱れた呼吸がやけに近くで聞こえて、こちらまで心臓が痛くなりそうだった。  階段を上がった先にある散歩コースに入れば、ジョギングしている大人がいるはずだ。  縺れる足に鞭を打って、どうにか階段を上がる。 「助けてください!」  ポツポツと少ない電灯に照らされた散歩道で、私は声を張り上げた。懐中電灯の光が見えなかったので、走りながら必死に叫んだ。  公園は恐ろしいほど静まりかえっていた。  チリンチリンと自転車のベルが鳴り響く。  私は——いや、小夜子だったのか——もうどちらかわからなかったが、音に驚いて足を踏み外した。  散歩道から急斜面を下ると大きな池が鎮座する。私たちは縺れ合うように斜面を転がっていった。  不幸なことにこの池を囲む柵は、一部が池の生き物と触れ合うために解放されていたのだ。    ドボンと静かな水面に波紋が揺らいで、頭が真っ白になった。鼓動が激しく脈打つ。周囲の音も風景も、何もかもが遠くなっていく。  この日、私の魂は、小夜子と共に死んでしまったのだ。
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