小夜子と私

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 結局私と少女は、うさぎ小屋近くのベンチに腰を下ろした。  少女は小さな足をプランプランと揺らしながら、うさぎ小屋の方を眺めている。  ずっと佇んでいたところを見ると、よほどうさぎを見たかったのだろうか。  確かに容姿は小夜子の生き写しのようだが、その言動はだいぶ幼いように思える。  小夜子はこういった場面では、足を揃えてちょこんと座っている大人しい子だった。 「えっと、加代ちゃんだっけ」 「そうだよ」 「私は涼子っていうんだ。よろしくね」 「うん」 「加代ちゃん、名字は何ていうのかな?」 「お母さんに、知らない人にはそういうこと教えちゃだめって言われてるの」  名字も教えてくれないとなったら、ほとんどの質問を答えてくれないのではないだろうか。  別に彼女の個人情報を知ってどうかしようという疾しい気持ちなどないのだが、小夜子と何か共通項があるのではないかと気になってしまう。 「加代のことはいいから、涼子ちゃんのこと教えて」 「私のこと? 困ったな。別にいいんだけど、何を教えたらいいの?」 「ええ、何だろう。好きなものとかかな」 「好きなもの?」  改めて好きなものを聞かれると困ってしまう。  第一、「好きなものは何か」という大枠な質問に答えるのが難しくて苦手だ。「好きな食べ物」や「好きな音楽」というように、ある程度ジャンルを限定して聞いてくれれば答えやすいのだが、「好きなもの」という大きすぎる括りでは何と答えてよいかわからなくなる。  突出して好きなものがないのだ。万物の中で、これが一番好きだといえるものがない。無難に趣味を答えておくのが正解なのかもしれないが、これといった趣味もない。 「好きなもの……何なんだろうね」 「加代はうさぎさんが好き」 「うさぎ好きなの? だから、うさぎ小屋を見に来てたんだ」 「赤ちゃんが生まれたって聞いたから。でも、ちっちゃい子たちが見たがってたから、加代、どうぞってしたの。加代ね、もう小学生のお姉さんだから」 「そうなんだ。偉いね。私もうさぎさん好きだよ」 「耳がね、可愛いの。知ってる? うさぎさんってね、汗かかないんだって。耳で体温を調節するんだよ。だから耳が長いんだって」 「そうなんだ。加代ちゃんはもの知りなんだね」 「本に書いてあったよ。お母さんにプレゼントでもらったの」  少女は地面に落ちていた木の枝を拾うと、砂の上に何かを描き始めた。しばらく見ていると、長い耳がぴょこんと二つ生えた可愛らしいうさぎが出来上がる。 「あとね、こうやって耳が長いから遠くの音が聞けてね……」  少女が一生懸命に説明をしている中、私の心は彼女が描いた絵に釘付けになっていた。  小夜子が連絡帳に描いてくれたイラストに似ているのである。  うさぎなんて誰が描いても似たり寄ったりになるだろうと囁く自分もいる。けれどもその絵を見た途端、鮮烈に小夜子の描いた絵が思い出されたのも事実であった。 「加代ちゃん、絵が上手なんだね。今度、紙にそのうさぎさん描いてくれない?」 「いいよ」  少女は木の枝を持ったまま、足をブラブラと揺らした。  やはり中身は小夜子に似ていないらしい。幼い行動に小さく笑う。 「そういえば涼子ちゃんは、加代を誰と間違えたの?」 「うん?」 「サヨちゃんって涼子ちゃんの友達? 加代に似てるの?」 「ああ、うん、そうだね。サヨちゃんは私の友達だったよ。すごく仲良しだったの。冴島小夜子っていったんだけどね。綺麗な名前でしょ。加代ちゃんにすごく似ていたよ」 「ふうん。加代に似てるんだ。写真とかないの? 加代、サヨちゃん見てみたいな」 「写真は……ないかな」  小夜子と一緒に撮った写真は一枚もない。  学校行事でも何でも、小夜子は写真を撮られることを嫌がった。嫌がるというより、恐れていたのかもしれない。  小夜子の母親は、夫の酷い暴力から娘を連れて逃げ出したのだと聞いた。  娘の居場所を知られまいと多くのことに注意を払っていたのだろう。写真に写らないのもその一つだったのだ。  今となっては、一枚ぐらいこっそりと写真を撮っておけば良かったと思う。小夜子はもう私の思い出だけにしか、その姿を残していない。どんなに大切にしていても、記憶は日に日に薄れていく。  ——だから、いるはずのない小夜子と少女を見間違えてしまったのだろうか。 「サヨちゃんは写真が嫌いだったから、持ってないんだ」 「ふうん。加代も写真あんまり好きじゃないよ。同じだね」 「加代ちゃんも好きじゃないの?」 「加代が可愛く撮れてる写真なら好き」 「そうなんだ。加代ちゃんは可愛いから、どの写真もきっと素敵に撮れてるよ」  少女は目を伏せる。長い睫毛の影が顔に落ちた。  憂いを帯びたその目が、あまりに小夜子と同じ目で鼓動が早くなる。 「学校だとね、心霊写真だってからかわれるから、嫌なの」 「心霊写真?」 「加代のこと幽霊みたいって言うの。肌がね、白くて気持ち悪いんだって。でもね、加代は日焼けできないの。お母さんが言ってた」  小夜子もそうだった。この少女のように、色の白い少女であった。  私はその淡雪みたいな肌が羨ましかった。私の肌はいつだって日焼けしていたし、冬になっても小夜子のように透明感のある肌にはならなかった。小夜子の磁器人形のように、愛らしい容姿が好きだった。  学校の中には小夜子のその容貌を貶すものもいた。「暗いヤツ」という言葉は、小夜子が心ないクラスメイトによく陰で言われる台詞だった。  小夜子は外見に対して悪く言う者がいても、反発することはなく、ただ静かに受け流していた。 「加代ちゃんは可愛いと思うよ」  小夜子に似た少女に、何と言えば正解なのかわからない。  振り返ってみると、あの頃の私は小夜子に対して、慰めの言葉一つもかけなかった。  小夜子を可愛いと思っていた。好きだった。だけど、怖かった。対等な友人関係が小夜子をかばうことで壊れる気がしたのだ。  それでも小夜子に何か言うべきだったと思う。「そんなこともあったね」と小夜子が笑ってくれることはもうないのだから。 「涼子ちゃん、大丈夫?」 「うん? 大丈夫だよ。どうしたの?」 「辛そうだったから」  傾けた顔についてくるように、サラサラとした黒髪が流れていく。  小夜子と初めて会ったときのことを思い出す。あの頃の小夜子もこれくらいの髪の長さであった。 「ちょっとサヨちゃんのこと思い出してたの」 「サヨちゃんのこと思い出すと辛いの?」 「ちょっとね」 「ふうん。どうして辛いの?」 「どうして……かな。サヨちゃんがもういないからかな」 「お引っ越ししたの?」 「ううん、死んじゃったの」 「死んじゃったの? どうして?」 「一緒にね、公園に行こうとしたんだけど、途中で悪い人たちに追いかけ回されてね。夜だったから助けてくれる人が見当たらなくて。そのまま走って逃げてたら、転んで池に落ちちゃったの」  少女は昆虫のように無機質な目で「ふうん」と言った。  「死」というセンシティブな話題に対して、どのように返事をすればよいか困惑している素振りではない。かと言って突き放すような冷たい声色でもない。  どのような気持ちでその返事をしたのか、私にはわからなかった。 「そんな話、初めて聞いたかも」 「もう十年以上も前のことだから、きっと加代ちゃんが生まれる前の話だもんね。知らなくても当然だよ」  少女は自分の両の指を一本ずつ折り曲げていき、何かを数える仕草をする。黒目が斜め上を見ており、一生懸命に何かを思案しているようだった。 「サヨちゃんは、生きていたら今いくつ?」 「二十六歳だよ」 「ふうん。涼子ちゃんも同じ?」 「そうだよ」 「あれ、そうなの。涼子ちゃん、もっと年下だと思ってた」  少女は首を傾げて、まじまじと私を見た。  無理もない。長年引きこもっていたから、同年代の人間に比べたら稚拙な部分も多いだろう。髪だって伸ばしっぱなしで、化粧もしていない。服装もパーカーやTシャツばかりで、小学六年生の頃から何一つ変わっていない。 「私、子供っぽいよね。今の子の方がよっぽど大人っぽいから、そんな言い方失礼かな。幼稚なんだよね。サヨちゃんが死んだ十二歳のときに、生きるのやめちゃったから」 「サヨちゃんが生きてたら?」  真っ暗な瞳が私を見据えた。 「サヨちゃんが生きてたら、どうする?」  私は咄嗟に口を開けたが、ゆっくりと閉じる。  小夜子が生きていたら?  ——何も望まない。生きていてくれるだけでいい。 「どうもしないけど、もう一度会えたら嬉しいよ」  少女はその言葉を聞くと薄っすらと微笑み、ベンチから飛び降りた。  見た目はすこぶる似ているが、小夜子と違ってアグレッシブらしい。 「またね」  少女はそれだけ言うと、手を大きく振りながら立ち去った。  奇妙な縁ができてしまったと思う。  小夜子によく似た少女。違うとはわかりつつも、彼女に惹きつけられずにはいられなかった。
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