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 食事を終えて外に出ると、濃厚な青色に染まった夕空に細い三日月が出ていた。店の脇には海へと繋がる川が流れており、深い緑色の水面に白い月が写って揺れていた。私たちは車には乗らず、川沿いの小道を通って海岸まで散歩することにした。  辺りには街灯の灯りが点き始め、朱く熟した柿の実を照らし出している。つい昨日まで夏だったはずなのに、私が何もできずに立ち往生している間にも、季節は飛ぶように過ぎていた。それがまた、たまらなく恐ろしいのだ。 「ねえ、瑠衣は親の期待ってどう思う?」  何の脈絡もなく、唐突に私は切り出した。 「期待? 私は何一つ、親の期待になんか応えてないよ。馬鹿だから、物心ついた時から裏切りっぱなし。今回の件で『恥ずかしいことしないで』とまで言われたけど、うるせえとしか言いようがないね」  瑠衣は、私の藪から棒な質問に対しても特に不思議がることなく答えた。 「それで、後悔はないの?」  私は恐る恐る尋ねる。 「別に。親の期待に応えられないと覚ったから逃げる選択ができたし、自分は他の人と比べたら底辺で、今更失うものも特にないだろうと思ったから、何もかも動画でさらけ出して、その結果稼げるようになったんだし」 「そっか……」  ほっとするような、妬ましいような、何とも言えない不安定な感情がふつふつと沸き上がる。彼女が底辺だとするのなら、今の私は一体何なのだろう。  私は返す言葉を考えながら、濁った水面に目を向けた。この川は、昔は綺麗な運河だったと聞いたことがある。私達の生まれるずっと前、ここには色々なものを運ぶ船が行き交っていたのだろうが、今は死んだ臭いを漂わせるただの濁った川でしかない。何か災害が起きる度に氾濫を危惧されるだけの、厄介な存在になり果ててしまっている。 「瑠衣。あのね」  別に、言わなくても良かったのかもしれない。しかし、私は伝えたかった。どうしても吐き出したかった。それで、何かが変わるような気さえした。 「私、失業してるんだよね……今、働いてないんだ」  私が瑠衣を――いや、誰も責める気になれない理由だった。彼女は特に驚きもせず、「うん」とだけ返した。 「先の事とか全然決まってないし、不眠症になって、薬がないと殆ど眠れない」 「知ってたよ」 「あんなにガリ勉で、そこそこいい大学行って、周りからちやほやされて調子こいてた人間が、今は何にもせずに家で――――えっ?」  知っていた? いつから? いったいどうやって? あまりに自然な口ぶりに、理解が追い付かなかった。  呆然とする私を差し置いて、瑠衣は淡々と続ける。 「うちの親、市役所と病院で働いてるから。色々といらない情報が入って来るんだよね。でも安心して。絶対に言いふらしたりするなって釘刺してあるから」 「ああ、そっか……そうだったね」  そんな返事しかできなかった。こんな田舎町の事だ。個人のプライバシーなんて、あってないようなものである。   「本当にしょうもない経緯なんだけどさ……」  学生時代は周囲から神童のような扱いを受け、両親からも名のある企業への就職を期待されていた。自分自身、それを誇りに思い、いつしか自分の好きなものも人生の目標も忘れて、勉強に没頭するようになった。それが本当に自分の学びたい事かどうかもわからずに、ただ「出来の良い自分には価値がある」と思い込んでいい気になっていた。  しかし、勉強は出来ても、どういうわけか就職活動はうまくいかなかった。何社も採用を断られ、ようやく内定をもらえたのは下町の小さな印刷会社だった。  ――○○印刷? そんな会社聞いたこともないんだけど。そんな所に就職しなくたって、もっとマトモな所あるでしょ。せっかくいい大学を出たのに、もったいない。  大学の階段下で内定を母に告げた時、私の中で何かが狂った。あの時電話越しに聞いた母の声を、私は今でも鮮明に覚えている。  私の学歴や、幼いころから積み上げてきた努力や経験とは明らかに不釣り合いだということはわかっていた。大学の同級生たちは皆大手企業にすんなりと就職したにも関わらず、私は誰も知らないような中小企業。要するに私は、両親の期待を裏切ったのだった。  ――今年の新入社員、ちょっと感じ悪いよね。変にこじらせてるって感じでさ。  ――わかる。なんか高学歴らしいけど、人として成熟してないよな。だから有名企業にも入れなかったんだろ。あれじゃ結婚も無理。  ――内心私らのこと馬鹿にしてるんじゃないかって感じる時あるのよ。悲しいよね。そういうの。  「どうして自分がこんな所で」と内心小馬鹿にしながら働いていたこともあってか、社員の誰とも仲良くなれなかった。自分の中の汚れた思考を必死に隠そうと頑張ってはいたものの、態度から滲み出ていたらしい。私は就職からわずか2年足らずで退職し、その後何があったのか、会社は倒産してしまった。 「私が自由気ままにネットで暴れてる間、色々大変だったわけだ」  瑠衣は私の身の上話を聞きながら、おもむろに足を止め、道の脇にあった自動販売機で温かいコーヒーを2本買った。海のすぐ近くまで来たこともあってか、岩礁に打ち付ける波の音がはっきりと聞こえてくる。  私たちは砂浜までやってくると、逆さまに放棄された小舟の上に腰を下ろし、コーヒーを飲んだ。無糖のはずだが、どこかほんのりと甘い。  眼前には深い藍色の空が広がり、水平線にはまだわずかにオレンジ色が残っていた。この時間帯の景色はいつも、弱った心を更に不安定にする。一歩も前に進めないまま1日が終わり、何かの罰であるかのように同じような朝がやってきて、また同じように暮れていく。  
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