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前編
「依里、行ってきます」
そう言って、彼はアパートの部屋を出ていく。
「行ってらっしゃい」
と、私もこれまでずっとそうしてきたように応える。
この声がもう、彼に届くことはないと知っていても。
本当はずっとずっと前から、届いてなどいなかったとしても。
*
私と彼は、彼が大学生になり実家を出てからずっと同棲している。彼の親には内緒だ。そもそも、正直に話したところで信じてもらえるはずもない。
だって私はもう、死んでいるのだから。
大学受験本番を間近に控えた夜のことだった。
勉強の息抜きにコンビニに出かけた帰り、私は夜食の入ったビニール袋を指に引っかけて歩きながら、彼に電話をかけていた。なんとなく、声が聞きたくなったのだ。けれどコールを十回ほど繰り返しても彼は電話に出ず、一度切ってからもう一度かけ直そうとした瞬間だった。
そこは信号もない小さめの十字路で、普段から車通りの少ないこともあって、私は完全に油断していた。スマホに目を落としたまま、ろくに注意も払わずに渡ろうとしたのだ。
ふいに真っ白く照らされる視界。貫くようなクラクションの音に、体が硬直した。
そこから先のことは、よく覚えていない。
気づいたら黒い額の中で笑う自分の顔が目の前にあって、振り返ると、高校の制服を着て座っている彼の頭頂部が見えた。見下ろしたそのつむじは少し震えていて、あぁ泣いてくれているのだな、と思うのと同時に、自分が死んでしまったことをはっきりと理解した。
以前――というか生前? ――彼と映画を観た時、泣けると評判のそれに彼は涙一粒零さないどころか眉一つ動かさなくて、ボロ泣きしていた私は「どんな時になら泣くの?」と尋ねたことがあった。彼は「子どもじゃないんだし、そう泣かないだろ」なんて澄まして答えて、その映画の内容が『恋人が死んじゃって悲しー』って感じのものだったこともあり、私は急に不安になって、「私が死んだら泣いてくれる?」なんて面倒くさい彼女みたいなこと(まぁその通りなんだけど)を訊いてしまったのだ。
彼は相変わらずの澄まし顔で、「そん時になるまでわかんないけど。まぁ、泣くんじゃね」と答えて、それから「つか、そんな縁起でもないこと考えてんなよ」と私の頭を小突いた。
――だから私は、俯いた彼の顔から零れる涙の粒を見た瞬間にわかってしまったのだ。
この心臓が動いていればあったはずの、きゅっ、とするような胸の疼きが、私にはもう感じることができなかったから。
そんなふうに泣くんだ。私のために。
そう思うと堪らなくなって、もう届くはずもないのに彼に手を伸ばした。
私の指先はどうあっても彼の顔には触れられなかったけれど、彼は微かに身じろぎをして、それからじっ、と虚空を見つめた。
さっきからずっと、私が立っているのに誰も気づかない、その場所を。
「…………依里?」
いるのか? と、小さな――本当に小さな小さな、頼りない声で彼は呟いた。
私は思わず手を引っ込めて、それからまた、恐る恐る彼の頬に触れる。感触はないはずなのに、彼は今度こそはっきりと私を見た。
「依里、依里」
彼は嗚咽混じりの声で何度も私の名前を呼んだ。私も、「うん。いるよ。ここにいるよ」と何度も頷いた。
もう涙を流すことのできない私の分まで肩代わりするみたいに、彼はずっと泣き続けていた。
それ以来ずっと、彼だけが死んでしまった私を見てくれる唯一の人だった。
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