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後編
彼は次第に、私の好きな曲を弾かなくなっていった。代わりに演奏するのは、軽音サークルの仲間に薦められて最近彼が聞き始めた、よくわからないバンドの曲。歌詞なんて全然知らないそれを彼が部屋で練習している間、私は黙って座ってそれを聞いていた。サークルのライブで演奏するというその曲の練習に没頭する彼の目にはもう私の姿が映っていないみたいで、なんだか私と彼とを繋いでいた糸の一本が切れてしまったような喪失感があった。
けれど、それでも彼は時々、思い出したように私の好きな曲を弾いてくれた。その時だけはまたこれまで通りの穏やかな空気に包まれるようで、私は今までの不安を紛らわすように大きな声で歌い、彼もまた優しく微笑んでくれた。
そうした彼の変化は、私にも多少の変化をもたらしていた。
この頃になると私は、彼の後について大学まで行くことがなくなっていた。
――正確にはできなくなっていたのだ。ある日、いつものように部屋を出る彼の背中に続こうとした私は、どうしても玄関を出ることができなかった。まるで見えない壁に阻まれているみたいに。その日を境に、私は部屋から出て行く彼を見送ることしかできなくなり、それはさらに、彼との間に確かにあったものが失われつつある、という恐怖を私に抱かせた。
そうして私が不安と安らぎを行き来しているうちに、彼はなんだか部屋を空けることが多くなった。
よくスーツを着ていること、部屋に溜まっていく企業のパンフレット等から、私は彼が就活を始めたことを知る。
気づけば彼はもう大学三年生も終わりに差し掛かろうとする頃で、それほどまでに時間が経っていたことに――いや、それに気づかないでいたことに私は愕然とし、それからひどい寂寥を覚えた。
生きている彼の時間は刻々と流れているのに、私はそれとは切り離されたところをふわふわと漂っているようで。
彼と一緒にいられない時間がどんどんと増え、一人の部屋で彼の帰りを待っている間、私の頭はなんだかひどくぼんやりしていた。
その時々に感じる一抹の寂しさは、上流から下流へと流れる川のように抗いようのない諦念に押しやられ、夜眠る彼の寝顔をベッドの片側から眺める時間の穏やかさだけが堰き止めてくれる。
私はきっと、気づいていたのだと思う。けれど、不在がちな彼や、ぼんやりとする意識を言い訳に、なんとか誤魔化そうとしていたのだ。
彼がもう私のためにギターを弾かないこと。
ほとんど私に話しかけてはくれないこと。
疲れた顔で帰ってきた時などは、そのままベッドに倒れ込む彼が、もはや片側に私のためのスペースを空けてはくれないこと。
それらが意味することから、私は目を背けていた。その行為にはなんの意味もないと、わかっていたのに。
やがて、その時はやってきた。
彼は、私たちが一緒に過ごしてきた部屋の整理を始めた。
窓の外では桜が咲いていて、春がきたのだな、と感じる。
そうか、彼は大学を卒業して、この部屋を出ていくのだ。
荷造りをする彼の背中をぼんやりと眺めながら、私は理解した。
あっという間の四年だったな、と思う。彼と地元から離れ、一緒に暮らし始めた頃から、私は何も変わっていないのに。停滞した私を置いて、彼はギターを弾けるようになり、好きだったバンドを聴かなくなり、就職をした。そして今度はこの部屋を離れ、また別の場所へ行ってしまう。
彼の向かう先に、私はいるのだろうか。
口には出さなかったその疑問に答えるように、彼が振り向いた。
真っ直ぐに、私を見つめる彼の眼差し。そこに迷いはなく、あぁ、やっぱりそうだよね、と私は覚悟する。
「……依里」
久し振りに私の名を呼ぶ彼の声に思わず涙が零れそうになり、けれどそれが叶わないことのもどかしさに堪らなくなった。
「……今までずっと、傍にいてくれてありがとう」
そう言いながら、私に向かって彼はそっと手を伸ばす。温かくて、私のよりも大きくて、撫でられると安心できた。今はもう、触れない手。
触れないと知りながらも、私も自分の手を伸ばす。
束の間、私の掌と彼の掌が重なり、そして――
彼の手はそのまま私の体をすり抜けた。
掌を重ねようとした私の姿など、見えていなかったかのように。
振り返ると、私の体をすり抜けた彼の手は、背後にあった棚の一隅に伸びている。
そこにあるのは小さな瓶。中に白い粉のようなものが入ったそれを、彼は慈しむような手つきで手繰り寄せる。
「依里……」
彼はもう一度、私の名を呼んだ。
手の中の小瓶に向かって。
私の、遺骨に向かって。
それから、小さな声で、けれどしっかりとした意思を持って言う。
「……今までありがとう。でももう、お別れだ。依里のお骨も、ご両親に返しにいくよ。随分無理言って、長いこと分けていてもらったから」
噛み締めるように言って、彼は小瓶をタオルに包んで段ボールにしまった。
それを私は、何も言えずに見ていた。
薄々気づいてはいながら、それでもそんなことはないと必死で自分に言い聞かせていたことを、今はもうどうしたって認めないわけにはいかなかった。
彼の目にはもう、私の姿が映ってはいないことを。
――いや、違う。本当は最初からずっと、見えてなどいなかったことを。
彼にだけ見える私の幽霊、だなんて、そんな都合のいいこと、あるわけなかったのに。
あの日、お通夜で彼が私の名を呼んだ時――ただ突然の私の死を受け入れられないでいただけの彼の言葉を、勝手に都合のいいように解釈して。
この部屋で彼が見て、時折話しかけていたのは幽霊の私なんかではなく、小瓶の中の私の遺骨でしかなかったのに。
そしてもう、彼はそれすら必要とはしていない。
きっとこの四年間で、少しずつ、整理して受け入れてきたのだろう。彼には私が見えていなかったのだとしても、私が彼を見てきたことは真実で、彼の選択の重みを私は知っている。
彼が受け入れて進んだように、私ももう停滞したままではいられないのだ。たとえ、死んでしまっているのだとしても。
「もうこんな時間か」
彼は時計を確認すると、慌てて身じたくを始めた。どうやら不動産屋に行くらしい。
片付けられ、随分とさっぱりした部屋を見回して、彼はほんの少しだけ名残惜しそうに目を細める。
あぁ、と、ないはずの私の胸がきゅっ、と軋んだ。
「依里、行ってきます」
愛おしむような、慈しむような、――そして、過去を振り返るような眼差し。
その目にはもう、私は映らないと知っていても。この声は届かないとわかっていても。
「……行ってらっしゃい」
私はなんとか笑って、そう言った。
私も、もう行くね。
彼は私に背を向け、玄関を出ていく。
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