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青春編/第二章『生誕』
弾正右衛門兵衛清忠は、上と下の瞼をゆっくりと離した。弾正右衛門兵衛清忠が寝醒めた処には此の油や水、鉄の匂が鼻に漂い、其に続いて鼓膜を裂く様な硬い澄んだ鋭い音が耳を漂った。彼はトロンとした眠気の残った声で『此処は何処だ。』と発した。
身体を上へ捻じ曲げる様にして双脚で地に立とうとするも、双脚に矛先の鋭い刃を何十、何百も刺されたかの様な深い痛みに襲われて悶え声を出した。其の声を耳に漂わせた清兵衛は、布を頭に巻いて金槌片手に弾正右衛門兵衛清忠の悶え声が響く其の一室に足を置いた。
『此以上動くのは身に毒じゃ。』
清兵衛は弾正右衛門兵衛清忠にそう告げ、舌苔で汚れた白舌の上に濃緑の薬丸を乗せた。清兵衛はまるで痛みが、空に閃く稲妻の如く一瞬の間に落着を取り戻した。
『後で村長の小次郎殿に御挨拶に行きなさい。当分は此の杖を使って中村で暮らすのじゃ。中村は濃尾平野による肥沃な生産力が有る故、安心して暮らすが良い。』
永禄五年【一五六二】水無月【六月】の末。鬱陶しい梅雨時の真っ只中である。加藤正左衛門清忠は杖を尻隣に置いて中村の人々と握りを頬張りながら満面の笑顔で談話する。
『儂の話が嘘偽りだとでも?儂は誠に「海道一の弓取」を討果した織田上総介公から直々に太刀を御賜り致したのだぞ。』
弾正右衛門兵衛清忠は、中村に来た直後に「正左衛門清忠」と名を改して村人に武士時代の話を続けた。正左衛門清忠は杖を突きながら行える仕事のみを行った。正左衛門清忠は武士を辞して一人の町民として生きる事となったのである。
『おい、おめぇの嬶が漸く産みやがったぞ。』
中村の町民が弾正右衛門兵衛清忠にそう告げた。弾正右衛門兵衛清忠は「其れは誠か!」と微笑んだらしい語気で口にし、足を引き摺って加藤荘へ向かう────。
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