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とても静かな空間だった。少しだけ空いた窓からは、遠慮がちに風が吹き込んでくる。悠一の部屋は不要なものが一切置かれておらず、相変わらず殺風景であった。それでも随所から彼のセンスの良さを感じることができ、悠一の部屋にいるのだという実感を湧かせてくれた。
四角いテーブルの半分を囲うように座った二人は、数学の教科書やノートを広げていた。真璃たちのクラスでは、明日数学のプレテストが行われる。数学が苦手な真璃は、テスト勉強を後回しにしており、直前の今日になって悠一に泣きついたのだ。最初は「自分でなんとかしろ」と相手にしていなかった悠一も、しつこく喚かれたらさすがに承諾するしかなかった。
悠一の部屋には何度か訪れたことがあるせいか、変なドキドキはない。そのため、初めは勉強に集中できていた。しかし、真璃はやはり数学が嫌いだった。解けない問題が増えるにつれて嫌になり、ついにシャープペンを手放したのだ。
真璃のそんな様子に気づいているのかいないのか、悠一はまったく変わらない様子で教科書のページをめくっている。悠一は数学が得意らしい。学校では決して真面目とは言えないが、なぜか他の科目の成績も悪くなかった。要領が良さそうだから、きっと上手くやっているのだろうと真璃は思った。部活に熱中しているときの彼を思い出せば、真剣に机に向かう姿も不思議な気はしない。
すっかり勉強に飽きてしまった真璃は、部屋を見渡して一つ溜息をもらした。
悠一と付き合い始めて早五か月。一番に共通の友人である丸井に報告したが、そのときの「まぁアレだ。頑張れよな」という言葉と表情は未だに忘れない。それでも二人の交際は順調だった。以前の悠一は、彼女をとっかえひっかえしていたらしく、「付き合いが三か月を超えるのは初めてらしいぜ」と丸井がこっそり教えてくれた。
真璃も悠一の女性関係の噂はなんとなく聞いていたが、自分と接するときの彼は噂と違って健全だった。だから、告白を受けたのだ。まぁ、経験の豊富さゆえに、悠一が詐欺師と呼ばれているのは知らなかったが。もちろん考える時間は必要だったが、悠一を想う気持ちがあれば平気だと結論づけた。
「ねぇ悠一。私たちってチューしたことあったっけ?」
視線を悠一に向けて声をかけたが、悠一はぴくりとも動かなかった。なるほど聞こえないフリだなと確信した真璃は、ねぇねぇと近い距離をさらに詰めた。それでもペンを走らせる手を止めない悠一に痺れを切らし、耳元で「おーいゆっういっちくーん」と呼んでみた。
「何度も呼ぶな。聞こえてるっつーの」
「なら返事をしなさいよ」
「勉強したいって言ったのはお前だろ? 集中しろよ」
その言葉を最後に、何事もなかったかのような静寂が戻ってきた。
真璃は最近悩んでいた。あの川瀬悠一が、五か月経っても何もしてこないのだ。キスはおろか、手さえ繋いだことがない。そういうのは焦ったり、無理にしたりするものではないと思っている。しかし、相手が悠一だと、途端に不安になってくるから不思議である。彼の中のセンサーが壊れてしまっているのだろうか。はたまた自分に魅力がないせいだろうか。後者は否定しきれず、真璃はうなだれた。
「チューしたことあったっけ?」
もう一度言ってみる。語尾を強めて強調したが、それでも悠一の視線は自分を向かなかった。
こうなったらなんとしてでも悠一を振り向かせたい。付き合っているのだから気持ちはこちらを向いているはずだが、どうもそれすら怪しくなってきた。
どうしたものかと考えたあと、真璃は悠一の後ろに移動し、目の前の大きな背中に腕をまわした。
「私のこと、好きじゃない?」
遠慮がちに、そんな質問を投げかけてみる。「嫌い?」と聞けないところがなんとも情けない。
さすがに驚いたのか、悠一の手が止まったのがわかった。
「どうした」
それでも、返ってきたのは素っ気ない言葉だった。彼女に抱きつかれたら、もっと動揺なりなんなりしても良いのではないだろうか。
「勉強が嫌になったか?」
「まぁ、それもある。ちょっと休憩」
「ずいぶんと長い休憩だな。いいのか? テスト心配なんだろ?」
確かにテストは不安だが、今はもっと大きな問題に直面しているのだ。勉強どころではない。
「悠一はさ、どうして私と付き合おうと思ったの?」
「そりゃあお前のことが好きだからだろ」
「ふーん。へー」
「なんだよ。可愛くねーな」
可愛くないのはどっちだよと突っ込みたくなったが、なんとか飲み込んだ。
短い沈黙ののち、先に口を開いたのは悠一だった。
「ほら」
真璃が疑問の声を上げるより先に、悠一の右手が彼の体にまわされた真璃の左手を掴んだ。そして、そのまま上にずらす。真璃が感じたのは、悠一の鼓動だった。規則的に動くそれは、かなり忙しないリズムだった。
「好きな女に抱きつかれて緊張しない男はいないだろ」
同じ部屋にいるだけでバクバクなんだけど、と気まずそうに呟いた悠一は、とても女性慣れしているようには思えなかった。
「俺が真璃に本気じゃないとでも思った?」
真璃は一瞬驚いたあと、悠一を抱きしめる腕に力を込めた。その通りだった。
「だって悠一、なんにもしてこないし……」
「へぇ。手を出してほしかったのか」
「ち、違っ!」
「冗談だよ」
嬉しそうに笑う姿は、すでにいつもの悠一で。急に恥ずかしさを覚えた真璃は、悠一から離れようとした。しかし、それは叶わなかった。悠一は、重ねているだけだった右手を、真璃の左手に絡ませたのだ。
指先に、ほんのりと悠一の熱が伝わってくる。見えないせいか、神経が自然と指先に集中するのがわかった。真璃に比べたら大きな手だが、指先だけで触れ合っていると、とても繊細なものに感じた。悠一の感触に集中すればするほど、真璃の心臓の速度も面白いように増していく。これだけ密着しているのだから、悠一にばれてしまうかもしれない。しかし、自分ではどうしようもできなかった。
「真璃も緊張してんの?」
悠一に言い当てられて、鼓動がトクンと跳ねた気がした。指は絡ませたまま、悠一が体ごとゆっくりと振り返った。久しぶりに合った視線に、真璃は思わず目をそらす。さっきまではあんなに自分の方を向いてほしかったのに、今は到底耐えられそうにない。
逃げることもできずじっとしていると、悠一は空いた左手で真璃の頬を撫でた。その触れ方はとても優しく、くすぐったいとさえ思う。そして、ごく自然に顎まですべらせると、一寸真璃の瞳を見つめ、触れるだけのキスをした。一連の動きがあまりにもスムーズで、真璃は何が起こったのか理解できなかった。悠一を見ると、なんともいやらしい笑みを浮かべていた。
「これでいいのか?」
「――ばか悠一!! いいわけないでしょーが!」
「なんだ不満か? 仕方ねーな」
「ちょ、どこ触ってんのよ! そういう意味じゃない!」
服の中にすべり込ませようとした手を掴むと、悠一の頭にチョップをくらわせた。大袈裟に痛がる悠一が恨めしくて、真璃はキッと睨みつけた。
「なんだよ。真璃がチューしてほしそうだったからだろ!?」
「別にチューがしたかったわけじゃなくて!」
というか、チューチュー恥ずかしいったらありゃしない。確かに言い出したのは自分だけれど、こんなことになるとは思っていなかった。
真璃のあまりの焦りように、悠一は思わず吹き出した。そして、真璃の頭にそっと手を置いた。
「心配するな。俺はお前のことが好きだし、他の女を見る気もない」
「え?」
「いくら詐欺師でも、鼓動までは誤魔化せないってこと」
悠一の少し情けなさそうな顔を見たら、何も聞けなかった。眉根を寄せて首をかしげる真璃を見て、悠一は降参とばかりに両手をひらひらと振った。
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