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4.一色蒼介
クリスマスソングに紛れて、讃美歌が聞こえてくる。
どこからだろう?辺りを見回すと、銀座の雑踏の中、救世軍が社会鍋での寄付を募っているのが見えた。きっとそこから聞こえてきているんだな。
「蒼介、ついてきてる?」
前を歩く母が振り向いて言った。母に手をつながれている理紗も、
「お兄ちゃん、ついてきてる?」
と生意気な顔で振り向いた。
「大丈夫、来てるよ。」
「良かった、すごい人込みだからね。どっか行っちゃわないでね。」
「母さん、僕もう小六だよ?理紗じゃあるまいし。」
「あら、そうだったわね。ついいつまでも幼稚園さんみたいに思っちゃって。ごめん、ごめん。」
と上機嫌で母はどんどん歩いていく。
母は銀座が大好きだ。歩くだけで気持ちがスッキリするらしい。僕にはさっぱりわからないけど。
クリスマスの季節になると、いつも一人のドクターのことを思い出す。本当に嬉しそうに笑っていたその笑顔が、わずか数日で、悲しみと怒りとでゆがむのを。三年も前のことだから、僕はまだ幼くて、細かいところは理解できなかったけれど、あのドクターのことははっきりと覚えている。何て言うか、感情がダイレクトに流れ出していたんだ。まるで手で触ることが出来るくらいに。
おじいちゃんが手術を受けて入院していた外科病棟も、控えめだけれどクリスマスの飾りつけがされていた。看護師さんたちがいるナースステーションには、大きなリースがかかっていた。
あの日珍しく仕事から早めに帰ってきた父さんに呼ばれて、リビングに行くと、母さんも真剣な顔で僕を待っていた。何だろうと焦ると、そこでおじいちゃんの病気のこと-肺がんで手術を受けなくちゃいけない-を聞かされた。
明日朝一番の手術で、夜みんなでお見舞いに行く予定だそうだ。父さんは仕事を休んで、朝早くからおばあちゃんと一緒に付き添うらしい。母さんは僕たちが学校から帰ってくるのを待って病院へ行く。僕はなんだか喉が詰まって何も言えなかった。おじいちゃんのことは勿論心配だし、痛いだろうなあとは思ったけど、それより父さんのことが心配だった。
いつも明るくて元気よく会社に行く父さん。声が大きすぎて、廊下で喋るだけで、寝ている僕たちを起こしてしまう父さん。その父さんの瞳が沈んでいる。母さんも口を堅く結んでいる。
「父さん、大丈夫?」
僕はかすれ声で聞いた。
「えっ?ああ、大丈夫だよ。心配ありがとな。」
そう言って、久しぶりに僕の頭をぐしゃっとなでた。そんなこと、小三になってからもうずっとやってなかったのに。でもその手が温かくて少し安心した。
翌日、学校で僕はずっと病院のことを考えていた。そこにいるおじいちゃんとおばあちゃんと父さん。大丈夫、病院は治すところなんだから。今は心配していても絶対笑えるようになる。校門で理紗を待って、小走りで帰った。理紗も不安そうな目で何度もこちらを見上げていた。
病室に入ると、いっぱい管をつけたおじいちゃんが目を閉じていて、おばあちゃんと父さんが静かに座っていた。シューッ、シューッと機械から音が漏れていた。
「電話で聞いたけど、成功なんですよね?」
母さんがともかく一番に聞いた。
「そうなのよ、お父さんも良く頑張ってね、さっき執刀したお医者さんが様子を診に来てくれたんだけど、順調だそうだわ。肺の癌は取りきれたそうなの。」
「そうなんだよ。ただ転移の状態がね。それをよく調べてみて、また治療方針を決めるらしい。」
「じゃあ、でも今日はひとまず良かったってことですよね?」
母さんが僕たちを抱き寄せながら、おばあちゃんと父さんの顔を見て言う。
「ええ、そうなのよ。難しい手術って言われてたんだけど。」
「執刀医の若林先生が噂通り凄腕でね。」
その時、ガラッとドアが開いて、一瞬風が巻き起こったかと思うような勢いで、一人のドクターが入ってきた。直後にはもうベッドサイドに来ていてびっくりした。
「ああ、若林先生。」
父さんが立ち上がった。
「どうぞ、座ってらしてください。手術直後ですから、頻繁に様子を診させてもらいます。煩わしいかもしれませんが、ご勘弁ください。」
深くてよく通る声で先生はそう言いながらも、大きな瞳で素早くあちこちをチェックしていた。すごく大きな身体なのに、手つきはとても細やかだ。
「先生、肺の癌は取りきれたんですね?成功ですね?」
何でも自分で確認したい母さんが聞いた。すると、若林先生はにっこり笑って、ちょっと誇らしげにも僕には見えたんだけど、頷いた。
「一色さんもよく頑張られました。今後は転移の状態を見ながら治療を続けることになります。一緒に治して行きましょう。では。」
そう言うと、先生はもうドアに手をかけていた。忍者か?
先生が行ってしまうと、やっと母さんのスカートの後ろから理紗が出てきた。驚いたらしい。
「なんだか嵐のような先生ね。」
母さんが父さんに言っている。
「そうなんだよ、俺も最初はスピードについていけない感じで焦ったけど、でも身のこなしが早いだけで、手つきも慎重だし、こっちの言う事もよく聞いてくれるから。何よりどこの病院でも断られた手術を引き受けて、しかも成功させてくれたんだからな。」
「そうねえ、本当に助かったわ。」
おばあちゃんがおじいちゃんの手を撫でながら言った。みんな、その一言で気持ちが少し緩んだ。
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