4.一色蒼介

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そうだったのに、その四日後、おじいちゃんがベッドから落ちて、頭から出血したと病院から緊急連絡が入った。 その日は祭日だったので、みんなで駆け付けた。病室に着いた時、おじいちゃんは色々な検査で病室にいなかった。僕たちが来たことを、看護師さんが連絡してくれたみたいで、若林先生と年上の先生が病室に入ってきた。その年上の先生が「呼吸器外科部長」と名乗り、 「この度は誠にすみませんでした。担当医の管理ミスでこのような事故が起きてしまい、申し訳ございません。」 と深々と頭を下げた。後ろで若林先生も頭を下げているのが見えた。でも僕はその時、先生の両手が固く握りこぶしを作っているのも見た。手の甲が真っ白になっていた。 「どういうことでしょうか?」 父さんが、できるだけ冷静な声を出そうとしていた。 「術後せん妄という状態でして、高齢の患者さんには、手術の後比較的起きやすい、いわゆる混乱状態です。術後1-3日間くらいで起こりやすいと言われています。ご自分の状態がよくわからなくなって、興奮して大声を出されたり、転ばれたりするんです。一色さんは、今朝からこのせん妄状態が生じてチューブを抜こうとされて、制止した看護師を、まあなぎ倒したと言いましょうか、それからベッドに立ち上がろうとされて転落した、と聞いております。」 「まあ、なんてこと。」 おばあちゃんが口に手を当てている。父さんがその背中を支えて椅子に座らせた。 「幸い出血量は少なくてすみました。ですが、やはり頭を強打されていますので、今MRIとCTの検査に行っておられます。こういったせん妄状態を予測して管理にあたるのが、担当医の役目なのですが、どうもこの若林がそれを怠ったようで。だろう?」 何となくイヤな感じのするこの部長がねっとりと若林先生を見ている。 若林先生がベッドサイドに来て、 「この度のこと、本当に申し訳ありませんでした。ですが、十分に予測出来た状態でしたので、自分も含め頻回に一色さんのご様子は診ておりました。部長の言うような怠慢は一切ございません。こちらの記録を見ていただければ、それはわかって頂けるかと思います。」 そう言いながら、チャートを見せてくれた。そこには15分ごとにスタッフがおじいちゃんの様子を確認している記録が残っていた。 「若林くん。君の正当さを証明する前に、ご家族の気持ちを察してさしあげるのが医者ってもんだろう。全く、すみません、指導が行き届いておりませんで。ほら、もう一度誠心誠意お謝りするんだ。」 そう言って、なんとこの部長は背伸びをして若林先生の頭を無理やり下げさせた。若林先生はその手をものすごい勢いで振り払った。僕たちはみんな息を飲んだ。頭を無理やり下げさせるなんて、大人が大人にすることじゃないから。ショックだった。 父さんが、急いで割って入った。 「やめて下さい。先生のミスではないことははっきりしているんですから。それよりも、私たちは今後の話を聞かせていだたきたいです。若林先生から。若林先生おひとりで結構ですから。」 やった、父さん、キッパリ言ってくれたね。母さんも誇らしげに、父さんの上着の袖を握った。 「そうですか?ご理解のあるご家族で救われたな、若林。じゃあ、きちんとご説明して。では、私はこれで。」 そう言うと、名残惜しそうに(まだいじめ足りないみたいな顔をして)部長は出て行った。 若林先生は、僕たち一人ひとりの顔をしっかり見て、 「お怪我を負わせてしまい、本当にすみませんでした。」 と頭を下げた。 「先生、もう十分ですから。今の夫の様子を教えて下さいな。」 おばあちゃんが先生の腕をさすりながら言った。その手をちょっと握って、若林先生はまず検査の結果を待つこと、出血の箇所によっては手術が必要になることをゆっくり説明した。その目は四日前と全然違って、とても悲しそうで悔しそうだった。 僕は、一人の人間が、家族でも親戚でも恋人でもない他人のことを、こんなに心から喜んだり悲しんだりするんだと驚いた。びっくりしたし、それが何だかとても素晴らしいことのように思えた。僕もこの若林先生のようになりたい、先生のような生き方をしたい、と心から思った。
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