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鼻毛のおかげで私が自殺を踏みとどまった話
はじめに断っておくが、最近は『自殺』ではなく『自死』という言葉を使うことが多い。なんでもその方が言葉として柔らかいし、亡くなった人を『殺した人』にしなくてすむからだそうだ。
私もそれには賛成だ。ただ、私が死のうとしたその時にはまだ自死という言葉はなかった。だからそのまま自殺と書かせてもらう。
私はその日、首吊り自殺をするための輪をビニール紐で作り、それを顔の前に垂らして強い違和感を覚えていた。
首吊りのための紐というのはもっと禍々しいものだと思っていたのに、目の前にあるのは吹けば揺れるような軽い紐だ。
そもそもせっかく輪を作ったのに、紐が柔らかいせいで垂らすと直線形に伸びて輪に見えない。私は映画で見たような刑場の麻縄を想像していたのだが、これでは少々迫力に欠ける。
それによくよく考えてみれば、このビニール紐で人の体重は支えられるのだろうか?『ビニール紐は意外に強い』という漠然としたイメージで大丈夫かなと思っていたが、別に耐荷重を確認したわけでもない。
そういえば輪を作った時の結び方だって、これで大丈夫かどうか分からないのだ。
(……まぁいいか。もう、どうでもいい)
私は投げやりな気持ちでそう思った。死のうとしているのだから、そんな些末な事はどうでもいいのだ。
ただし、自殺すること自体はやはり些末な事ではないだろう。
生まれてからずっと寄り添っていた命を投げ出すのだし、人生の最後でもある。よくよく向き合わなければならない問題だ。
だから私は自殺をしたいと思った時には必ず、『本当に自殺してよいかどうか』を検討してみることにしている。
それは具体的にどうするのかというと、『自殺すべきではない理由』を挙げてみるのだ。
もしそれが両手の指の数に達すれば、『両手いっぱいの自殺すべきではない理由がある』のだと思って踏みとどまることにしている。
今日はいくつ挙がるだろうか?
私はまず、私を育ててくれた人たちの顔を思い浮かべた。この人たちはおそらく私が死ねば悲しむだろう。
今現在その人たちが私に対してどんな感情を抱いているかは分からないが、少なくとも人一人を育てるというのは結構な手間がかかる事だ。そういう手のかかったものが壊れれば、誰でも悲しみを感じるだろう。
それに私としても世話になった手前、悲しませるのは申し訳ないと思う。
(自殺すべきではない理由、二人分で二個だな)
私は両手のひらを広げ、それから片手の親指と人差し指を折った。私の場合、この二個はまず間違いなく鉄板だ。
もう一つ鉄板な事がある。それは、死に対する不安だ。
よく『死ねばただ消えるだけ』『ただの物質になるだけ』などと知ったふうな口を利く輩がいるが、
(あなたは実際に死んだことがないのだから、本当にそうかどうかなど分からないだろう)
と思ってしまう。
もしかしたら、死後に行く地獄が本当にあるかもしれない。よほど科学が発達して地獄の不在が証明できるのならまだしも、現代科学をもってしても『おそらく地獄は無いと推察される』止まりだ。
自殺すれば地獄が待っているかもしれないと思うと、やはり恐ろしい。どんなに今生きているのが辛くても、針の山を歩かされたり釜で煮られたりするよりはマシだろう。
(三個)
私は中指を折った。
自殺すべきではない理由、あとは何があるだろうか?
今までは自殺すると起こる良くないことを挙げてきた。なら今度は生きる前提で、自殺しなければ出来ることを挙げてみよう。
ただし、この時に今やりたいと思うことを挙げようとしてはいけない。自殺を誘う『うつ状態』という厄介な奴は、多くのことに興味を持てなくさせたり、楽しいと思えなくさせたりしてしまうからだ。
もちろん一度うつ状態になったからといって、ずっとそのままというわけではない。うつ状態も時間経過や治療によって、必ず去る時が来るのだ。まぁそれまでが本当に厄介ではあるのだが。
つまるところ、自殺しようと思うほどのうつ状態だとやりたいと思えることが挙げられない可能性が高い。だから『やってみてもいいかな』『悪くないかな』くらいの事を考えるのだ。
(……スズラン、かな)
私はそれを思い浮かべた。スズランは、私の一番好きだった花だ。
今強いて見たいかと言われたら微妙なところだが、時さえ経てばスズランの花が咲く季節は来る。その時にはうつ状態の奴も去っているか、弱まっているかもしれない。
もしどこかに咲いているのが目に入れば、きっと悪い気はしないだろう。
(四個)
私は薬指を折った。
あとは何だろう?そうだ、食べ物だ。
忌々しいことに、うつ状態の奴は食欲まで奪ってしまうことが多い。だから今の私は何かを食べたいとは感じていない。
だから、『まぁ食べてもいいか』くらいには思えるものを考えてみることにした。
(とりあえず、甘い系としょっぱい系だな。甘いもの……甘いもの……そういえばあのやたら高いチョコレート、食べたことがないな)
私は洋菓子屋さんなどのショーケースにたまに置いてある、一粒だけで何百円もするチョコレートを思い浮かべた。
一粒で何百円だ。あなたの一粒はベビーチョコの何粒分なんだ?とか思ってしまうが、きっと美味しいのだろう。死ぬ前に一度食べてみてもいいと思う。
(あとはしょっぱい系……やっぱり某ハンバーガーショップのポテトかな)
こちらは別に今までもよく食べてきたものだが、あのジャンキーさは死ぬ前にもう一度味わってもいいと思う。
(ポテトを食べるなら、一緒にテリヤキバーガーといっとくか)
私はふと甘めのタレを思い出してそう思った。ご一緒にポテトはいかがですか?の逆バージョンだ。
(一気に七個になったな)
私は片方の手の小指、そしてもう片方の手の親指と人差し指を折った。
食べ物がやたら多くなったが、まぁいいだろう。うつ状態のせいであまり食欲は湧かないが、食べてみれば意外に入るものでもある。
あと三個、自殺すべきではない理由には何があるだろうか?
何か、してもいいと思うこと。
そういえば死ぬ前には体をキレイにしたいと思うから、お風呂には入るつもりだ。ただ、それでは少し弱い気がする。
(そういえば小さい頃に、一度でいいから泡だらけのお風呂に入りたいと思ってたな。テレビで外国の人たちがよく入ってるやつ)
私はそんなことを思い出していた。
当時、それを大人にお願いしたら『面倒だから』という理不尽な理由で断られてしまった。その時には大きくなったら自分で泡風呂をやってやろうと思ったものだが、いつの間にか忘れて未実施のままだ。
幼い日に抱いた夢だ。せっかくだから叶えてもいいだろう。
私はそう思い、ネットショッピングで泡風呂を作るための道具を探した。
(お、あったあった……ん?……ええ?お風呂をゼリーにしちゃう粉があるの?)
私はショッピングサイトによくある『ご一緒にいかがですかコーナー』に提示されたアイテムを見て驚いた。お風呂をゼリーにして、ゼリー風呂を楽しむための粉が売ってあったのだ。
でもそんな事したら、排水口が詰まってしまわないだろうか?
(なになに……?ゼリー風呂を楽しんだ後は、溶かす粉で液状に戻して流せるのか)
私は思わずそれもショッピングカートに入れてしまった。
(また芋づる式に二個増えてしまった。これで九個だ)
私は中指と薬指を折った。あと立っているのは小指一本だ。
(あと一個……)
一個くらいなら、きっと簡単に見つかるだろう。
私はそう思ったのだが、ここからが意外にも険しい道のりだった。考えても考えても、一向に何も浮かばない。
これは一体どうしたことだろうか。先ほどはハンバーガー屋コンボとお風呂コンボで一気に増えたのに、ただの一個がどれだけ考えても出て来ないのだ。
これはもしかしたら、もう自殺するしかないという天の啓示だろうか。考えてもみれば、せっかく輪を作ったビニール紐を使わないのもったいない気がしてくる。
私がビニール紐を結びつける高い場所を探し始めたところで、家のインターホンが鳴った。
(なんだろう?)
と、思っていると外から「宅配便で〜す」という元気の良い声が聞こえてきた。
私はもう死んでしまうのだから受け取りたい物などないのだが、宅配スタッフの人は荷物を受け取ってもらえないと再配達などで大変だろう。私は玄関に出ることにした。
扉を開けた私は、思わずハッとした。そこにいた宅配のお兄さんが、超が付くほどイケメンだったからだ。
どこかの雑誌でモデルをやっていると言ったら、誰でも信じるだろう。しかもよほど幸せな人生を歩んできたのか、やたら明るいオーラを放っていた。
爽やかイケメンのお兄さんは、輝かんばかりの笑顔で受取人の確認をしてきた。
「〇〇様のお宅でよろしいでしょうか?」
「あ、はい。ご苦労さまです」
私は小包を受け取りながら、お兄さんの笑顔のまぶしさに目を細めた。きっと誰にでも好かれて、どこにいても人気者になるタイプの人だ。
普通ならこんな素敵な人を前にすれば『自殺すべきではない理由』最後の一個にしてもいいと思うかもしれない。
ただ、そうするには今の私の心は暗すぎて、お兄さんの光の強さにむしろ心が萎縮してしまった。
(やっぱり自殺するしかないのかな……)
そう思って目を伏せそうになった時、私は発見した。
これ以上ないほどイケメンなお兄さんの鼻から、一本の鼻毛さんがチョロリと顔を出しているのを。
「……フフ」
私は無意識に笑っていた。
先ほどまで自殺しようとして縄をかける場所を探していた私が、気づけば笑っていたのだ。
「えっ?どうかしました?」
お兄さんは不思議そうに尋ねてきたが、私は、
「いえ」
とだけ答えて一歩下がった。
それでお兄さんも、ちょっと引っかかったような顔をしながら一歩下がり、玄関から出て行った。
(あの鼻毛、カールしてたな。くせっ毛な鼻毛だった)
私は閉まったドアを見つめながら、それを思い出していた。
可哀想に。出口に向かってカールする鼻毛は、切っても割とすぐに出てきてしまう。あんなにイケメンなのに、しょっちゅう鼻毛が出ている人なのかもしれない。
そう思うとまぶしすぎて萎縮せざるをえなかったイケメンが、急に身近な人間に思えてきた。
(また同じ会社の宅配を受け取ることがあったら、あの人が来るのかな?)
私はあの人にまた会いたいと思った。泡風呂とゼリー風呂の宅配はこの会社にしよう。
あの人に会いたいと思うのは、イケメンに会いたいからではない。次に会った時も鼻毛が出ているかをチェックしたいのだ。
(十個目が見つかった)
私は最後に残った小指を折り、両手いっぱいの『自殺すべきではない理由』を見つけることができた。
誰でも皆、一度や二度は死にたいと思ったことがあるだろう。生きていれば楽しいことばかりではない。こんな事なら……と思ってしまうこともあるはずだ。
しかし、多くの場合その状況はずっとは続かない。どんな気持ちでも、時間や治療が解決してくれることが多いからだ。
それを待つのは辛いことだが、本当に自殺しようと思ったら『自殺すべきではない理由』を数えてみよう。もしそれが十個見つかったなら、あなたには『両手いっぱいの自殺をすべきではない理由』がある。
きっと、それほど難しいことではないはずだ。
自分が死んで悲しむ人が十人いればそれで足りる。見てもいいと思えるものが十個あればそれで足りる。食べてもいいと思えるものが十個あればそれで足りる。やってもいいと思えることが十個あればそれで足りる。会ってもいいと思える人が十人いればそれで足りる。
もしかしたらこの時の私のように、たまにはなかなか見つからないこともあるかもしれない。そんな時には少し頑張って探してみよう。
私は鼻毛を見つけることができた。あなたにも、きっと何か見つかるはずだ。だからよく見て、よく聞いて、探してみよう。
これは鼻毛のおかげで私が自殺を踏みとどまった話だ。
グッジョブ、鼻毛。
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