飯綱使い 壱

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松戸(まつさと)太井(ふとゐ)川と呼ばれる川の東岸にありました。 到着後、一行は夜通し小舟で荷物を川の向こう岸へ運びます。 渡河の際は一行が大井川の両岸に分かれ、荷を隠す場所もないために、略奪者などにとても狙われやすい状況でした。 そのため菅原氏と下毛野金時は、この地に留まる時間を出来うる限り短くしようとしているのです。 「夜になって、月姫が寝所から吾の名を呼んだ」 山犬が寝所の軒下に姿を見せると、月姫は飛びつかんばかりに近づき、縁側に手をつきました。 「因幡真神よ、お願いじゃ。わたしを乳母のところまで連れて行っておくれ」 胡蝶は菅原氏の一行が「いまたち」の館にいた間に具合が悪くなり、松戸(まつさと)にある夫の屋形へと里帰りをしているのでした。 「胡蝶は後から京へ上ると申していたけれど、歳が歳だから」 月姫の声にはいつもの元気がなく、言葉の尻は消えゆくように途切れました。 「本当はお兄様に連れて行っていただくはずだったのだけど」 兄は父の菅原氏に叱られて、荷物の差配を手伝わされていました。 月姫はその身を狙われているのです。 日が落ちてから外出し、乳母の見舞いに行くなど、許されるはずもありません。 それでも、おそらく最後の別れをしなければ、と因幡真神を呼んだのでした。 山犬は不意に体を動かし、縁側に身を寄せます。 月姫がその背にまたがり、首の後ろの毛を両手で掴みますと、山犬はゆっくりと歩き出しました。 庭の築山の上まで進むと、にわかに駆け出し、垣根を跳び越えたのです。 山犬は月姫が背から落ちないように気を配りつつ、風のように駆けます。 見張りの者の目には何も見えませんでした。 ただ風の通ったあとに、えも言われぬ香りが漂っているばかりです。 月姫と山犬は、こうして誰にも見咎められずに、胡蝶の元へと向かったのでした。
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