第0幕 prologue

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第0幕 prologue

─この物語を、貴方に捧げる。  少し話をしよう。いつも物語を書くときというのは、できるだけ筆者の内面や思考、その存在を見えぬように配慮して書くのだが、今回ばかりは最初に少しだけ、そうした赤裸々な部分についての話をしておきたいのです。お付き合いいただければ嬉しい。  ある者が小説の中でこう言った。”真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学上の根本問題に答えることなのである”、と。  なぜ私がこんな話をしたいかというと、この国は今、ある重要な局面に立たされているからである。あらゆるものが綻び、もつれ、不満と悲しみと憎しみとが爆発する前に、私はこの話をしなくてはならない。  この国には、「悲しい」「苦しい」「さみしい」「辛い」そして「死にたい」という嘆きが溢れている。私はその小さな、しかし無数の、か細い悲鳴を無視することができない。  傷ついた人をたくさん見てきた。どうにも生き辛い人々の目を、たくさん見てきた。そして、彼らの悲鳴に耳をすます度、自分のことのように胸が締め付けられる。それは私が優しいからではない。私にも、死と背中合わせで生きたときがあったからだ。  否、今も時々死というものの存在を傍に感じるときがある。その言い知れぬ虚無感と、甘い死の馨香(けいこう)は私にとってはとても身近なもので、そうした時間を知っているが故に、自分の痛みを過去から引きずり出してしまうのだ。共鳴とも呼べるかもしれない。  他人の痛みを理解できると豪語するほど、図々しくはないつもりではある。ただ、想像する。その人の悲しみを。苦しみを。さみしさを。あるいは辛さを。そうした人々に対して、同時に自分に対して、どうすべきかを考える。その選択肢の一つとして、私は自殺という行為に思いを馳せるのである。  人は、自らの命に手を下してはいけないだろうか。いつか必ず人は死ぬ。誰一人として例外なく、少なくとも現代の科学技術では、死から逃れることはできない。  いつか必ず死にゆくのであれば、自分の決断によって死を迎えることは、果たして絶対的な悪であると、罪であると呼べるだろうか。あるいは、死を望む人間に、死ぬ方法を授けることは、やはり絶対的な悪で、罪なのだろうか。私はこれでも、自殺を推奨する目的でこの文章を書いているつもりはない。ただただ、疑問なのである。  どう生きればいいのかが分からなくなって、途方に暮れたとき、死はこの上なく誘惑的に見える。それが例え逃避と呼ばれようと、苦しみを無に帰すことができるのなら。喜びも楽しみもないが、今この苦しみから逃れることができるのなら。そう思ってしまうときがある。  人は老衰、病、災害、事故、他殺でしか死んではいけないのだろうか。望まない死の瞬間に巡り合うくらいなら、満足したその瞬間を切り取るように、自らの命の終止符を打つのは、いけないことだろうか。  死は、忌避すべきものだろうか。  私は繰り返し問いかける。  如何にして人は生き、死ぬのかを。  正直に言うと、今でもまだ私はこれらの疑問に対して、はっきりとした答えを出せないでいるのです。しかし、だからこそ、私のように泣き虫で脆弱な、生命力の無い人間が、生きて、生き抜いて、それを証明してみればいい。そう思ったのだ。それを私の答えと呼ぶにはあまりに曖昧模糊として、ただ問題を先送りしたに過ぎないのかもしれない。それでも、その答えを手繰り寄せるように、この手記を書き綴っている。  長くなってしまったが、私が言っておきたいことはこんなところだ。最後に、一つだけ。 親愛なる貴方へ、どうか、どうか、お願いです! この物語が、この言葉の旋律が、この私の悲しみが届きますように! **************** 【引用文献】 『シーシュポスの神話』カミュ著・清水徹訳
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