第1幕 Hemlock

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第1幕 Hemlock

 自殺。  それは刑法上定義された犯罪の一つである。  199条殺人罪。命という法益を、自らの手で無くすという意味で、対象を自らとするである。少なくとも、深谷綴(みたにつづり)は大学でそう考えていた。 「かねてから日本の自殺率は非常に高く、君たちの世代の死因は交通事故を上回る。最新の統計では3万人を切っているが、それでもこれは非常に深刻な数字だ」  箱形の教室の黒板の前で、教授がそう述べる。その皺が刻まれた顔は教科書に出る哲学者を思わせ、余計に彼自身の雰囲気を重々しくした。  綴のゼミの師でもある刑法の教授は見たまま学者気質で、話し方が固く分かりづらいと専らの評判だった。古風な丸眼鏡越しに、時折目元の皺が動くのが見える。 「今回の主題は同意殺人についてだが、自殺と同意殺人の関係については君達にもよく考えてもらいたい。同意殺人とは─」  教授がレジュメを解説すると同時に、手元のポケット六法を捲る。  202条自殺関与、同意殺人罪。”人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する”。  まあつまり、人が自殺するのを唆したり、手助けをしたり、頼まれてその人を殺すのは犯罪ですよ、ということだ。  もとから生真面目で真剣に講義をする先生だったが、いつにも増して今日の講義は真剣そうだ。しかし、この議題に真剣なのは綴とて同じだった。  綴には自殺願望があった。あるいは希死念慮と呼ぶべき感情。  特段悲しいことがあったわけではない。いつからか、ただ漠然と、死というものを意識するようになった。それ故に、この犯罪について綴はどうにも他人事とは思えなかった。 「自殺とか、ありえねぇわ」  一段前の席に座る男子学生が、ぼそりと呟く。一瞬、どくりと心臓が脈打った。嫌な汗が背中を伝う。その学生は心底つまらなさそうに、頬杖をついたまま隣の学生と話を続けた。 「死ぬやつの気持ちはよくわかんないわ。別に死んでもいいけどさ、せめてこっちに迷惑かけんなって話」 「今朝の遅延すごかったよな。最近人身事故多過ぎ」 「死ぬなら一人で勝手に死ねよな」  彼らはどう思うのだろう。その自殺願望を抱えた人間が、自分の真後ろに座っていると知ったら。同じように、ありえないと一蹴するのだろうか。まるで自分のことのように胸が痛む。自意識過剰だと言われればそれまでなのかもしれない。でもきっと、同じように敵意を向けられるのだろうと思うと、悲しくなる。  死ぬならば、人に迷惑をかけずに死にたいと思う。電車への飛び込みは確かに彼らが言う通り人に迷惑がかかる。高い建物からの飛び降りもダメだ。他人を巻き込む可能性がある。焼身は怖い。ならばやはり首吊りか?一番確実な方法ではあるけれど、刑事訴訟法や法医学の講義で聞き齧った限りでは、相当惨い死体になる。目玉と舌が飛び出て、顔が赤黒くなり、失禁したまま動かなくなる。言葉にしただけでも酷い有様だ。それを誰かが見ることになると思えば、心苦しい。  もしも、眠るように死ぬことができるのなら。痛みもなく、苦しくもなく、綺麗に死ねる方法があるのなら。  ─いや、それは虫が良すぎるよな。  綴は(かぶり)を振った。今は講義に集中しなければならない。最近は物思いに耽ることが増えて、講義にも集中しづらくなってきていた。何故今まで自分があんなに勉強に集中できていたのかが不思議なくらいだ。  口の中が酸っぱい。高校生のころから悩まされている慢性的な嘔吐の予兆だ。無理やり胃液を飲み下す。  一体これは、なんなのだろう。妙に胸がつかえる感覚がする。虚しさ、鈍痛、息苦しさ─今日はそれが特に顕著だ。  いつの間にか、講義は終わり間近だった。学生たちがざわざわと騒ぎ出す。やはり自殺や同意殺人などという暗い話題には皆興味が無いらしい。前の席から配られた出席表に自分の学籍番号と名前を記入すると、綴は教室を後にした。
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