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「深谷」
そう呼ばれて綴は、はっとした。
学生の話声、食器の音。今ここは学食の喧騒の真っ只中。そのはずなのだが、なぜかその騒めきが一瞬聞こえなくなった気がした。
「深谷、お前大丈夫か?目が死んでるぞ」
「あ、すみません…ぼーっとしてて」
目の前相手─青山純の表情が少し曇る。
青山は綴と六つ程歳が離れているが地元の幼馴染である。そして彼は何かと面倒をみてくれた先輩であり、大学のOBでもあった。現在は警視庁刑事課に勤める社会人である。
数日前に約束をし、久しぶりに会って食事をしているというわけだ。
「全然食ってないじゃん、お前」
指摘された通り、自分の皿の上の食事はほとんど減っていなかった。食欲が無いのだ。
いつからか妙に食べ物の味が分からなくなり、食べる気力が失せてしまっていた。元々少食だったことも手伝って、自分でも今はかなり食事量は減っていると思う。先月大学の健康診断で体重を測ってみたら去年よりまた体重が減っていた。数字を記入する係員に心配されたのをよく覚えている。
「すみません、わざわざ奢ってもらっているのに」
「いや、それはいいんだけど。お前はもうちょっと食わないとダメだろ。身体ペラッペラじゃん」
「あはは…」
いい匂いはするし、美味しそうだとは思う。なのに喉を通らない。それをどう伝えたものかと考えあぐねていると、青山が口を開いた。
「お前、また親御さんと喧嘩でもしたのか?」
親との喧嘩、という言葉にぎゅう、と喉が詰まる。
確かに、僕は両親とあまり仲がいいとは言えないが喧嘩をしていたわけではない。毎週必ずかかってくる電話に疲れ切っていただけで。ちょうど昨晩、電話がかかってきていた。一人暮らしの息子が心配なのは理解できるのだが、どうにも疲れてしまう。
「…そういうわけではないです。心配かけて、すみません」
「お前の親御さん過保護だもんな。まあなんかあったら言えよ」
正直、詮索されないのは有り難かった。一方で、聞いてほしいと思う気持ちもある。もし、今考えていることを赤裸々に語ることができたら、どんなに楽になれるか。
しかし、自分でも理由が分からないこの虚無感を、説明できる自信がなかった。一応はそこそこ名の知れた大学の学生で、成績も良い方、だとは思う。単位も順調に取得できている。親との関係は良くないにしろ、仕送りは貰っているし経済的に困っているわけでもない。むしろ仕送りだけで生活できているのだから豊かすぎるくらいだろう。肉体的にどこかが病んでいるわけでもない。
それなのに、死を傍に感じる。なぜか、突然泣き出しそうになる。これが分からない。そんな話をして軽蔑される可能性を想像すると、今度こそ胃の中身を吐き出しそうだった。
「そんなに難しい顔してると老けるぞ。ま、元気出せって。これくらいならお前も食えるだろ?」
青山の笑顔。
個包装の板チョコレートが差し出される。
「ありがとうございます」
精一杯笑って礼を言ったつもりだったけれど、その一言は虚しく響いた気がした。
青山と別れ、外へ出ると、相変わらず人がごった返していた。サークルの勧誘が花道になっているのを避けていく。
撲は自信が無さそうに見えるのだろうか、よく新入生に間違われて勧誘に声をかけられた。
「いった」
「っ、すみません」
六法を含め、大量の教科書が詰め込まれたリュックがすれ違いざま人にぶつかる。ちら、とこちらを見る相手の視線。一瞬、睨まれた気がする。ぶわりと身体から汗が噴き出た。
逃げ惑うように人の波をすり抜け、大学の中では比較的閑静な場所へと辿り着く。人口密度が高い学内で、唯一人通りが少ない場所。毎年この季節になると花壇が整えられ、ベンチから見える風景も悪くない。時間がある時や昼食を食べるときはここで過ごすのが常だった。
いつも、ここに辿り着いてしまう。くらり、と目眩を感じてベンチへと倒れこむように腰をかけた。
「うわ、蜂」
傍の花壇で、見慣れないずんぐりとした蜂が現れる。一瞬驚いて腰を上げるも、蜂の方は蜜を集めるのに忙しそうだ。そっとしておこう、そう思って再び静かにベンチへと座った。
風が吹く。どこからか桜の花びらが舞って、僅かに花の匂いがする。春の匂いだ。
綴はあまり春という季節が好きではなかった。暖かい日差しのなかで、緩やかに窒息していくような気がする。いっそ、この柔らかい日差しの中で眠るように死ねたなら。そう思ってしまう。それは多分、春が始まりの季節だからなのだろう。
何かの始まりは、僕にとって憂鬱を意味する。新学期、新しい人間関係、自己紹介、グループ活動、会話、組織、集団、ノリ、空気。
「はあ…」
自分の口から盛大な溜息が漏れる。ぐしゃ、と自分の色素の薄い黒髪を掴んだ。
ダメだ、今日は何もかもが上手くいかない。朝は寝坊して必須科目である一時限目に遅れるし、電車は遅延。その遅延で怒りをぶちまけるサラリーマンの怒鳴り声を聞くし。通学中に涙が出て周りに不審がられるし。そもそも昨晩、母からの電話で怒られたのも頂けない。
気を紛らわしたくて、なんとなく青山から貰ったチョコを囓る。すると途端に胃液がせり上がってきた。喉が締まり、胃が伸縮する感じがする。まずい。
「っ、ぅぐ、うぇ」
─吐くならせめて地面で吐かないと。
身体がずり落ち、そのまま花壇で身体を折った。吐き気が堪えきれず、びしゃり、と噛み砕いた茶色い板が唾液に混ざって滴り落ちる。大して昼食を食べていなかったから、胃液だけがどろりと流れ出た。
急に現れた侵入者に驚いたのだろう、さっきの蜂が、慌てて逃げていったように見えた。
─何をやってるんだ僕は。
トイレに寄って吐いておけばよかった。吐き出してしまったものはどうしようもないけれど、その吐瀉物を見ていると恥ずかしくて、情けなくなる。それに、人から貰ったものを吐き出してしまった。
「…すみません」
罪悪感に耐え切れず、思わず吐瀉物に謝る。
目頭が熱い。ダメだ、堪え切れない。ぽたり、と透明な液体が、地面へ染み込んでいく。またひとつ、ふたつ。
ねぇ、君。
僕は、このときの出逢いを一生涯忘れることはできないだろう。麗らかな、けれど憂鬱で、虚ろな春の一日。すべてを変えた、この瞬間。僕は運命という言葉の意味を知った。
突如聞こえた声に驚いて振り返ると、背後に人が立っていた。
酷く背が高い。綴が膝立ちになっていることを差し引いても、かなりの長身だ。春の強風が、その人の長い髪を弄んだ。
「あ、すみませ…っ」
相手の顔を確認しようとして、視界が涙で歪んでいることに気がつく。慌てて手の甲で拭うがもう遅い。見られてしまった。
「ただならぬ様子だったからどうしたのかと思って。思わず声をかけてしまったんだけれど…」
視界の歪みが無くなり、綴は相手を見上げる。
綴は息を飲んだ。相手の顔が異常な程整っていたからだ。一瞬、女性と見間違える程の美貌。だがその優しく、気遣うような低い声音は男性のものだ。大学院生だろうか、恐らく自分より数歳年上の男性だろう。
「あ…ちょっと食べすぎで吐いちゃっただけなので…汚いものを見せて、すみません」
できれば即座に立ち去って欲しかった。道端で突然嘔吐した上、泣いている姿を見られて軽蔑されるくらいなら、見なかったことにして何処かへ行ってほしい。大学内で噂が広がる可能性だってある。こういう時、一体何と言えばいいのだろう。
相手の目が見れない。すると頭上からふっと笑う声が降ってきた。
「随分と嘘が下手なんだね。泣いてるじゃないか」
男が地面に片膝をつき、綴と視線を合わせた。その視線は憐れみに似ている。
しかし何故か一瞬だけ、妙に身体がぞくりとした。凄惨な笑み。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「可哀想に。なにか、つらいことがあったんだろう?」
「っ、それは、大丈夫なので…」
「本当に?」
悪戯をした幼い子供を諭す語調だ。綴が返答に迷っていると、男は急に話題を変えた。
「体調がよくないんだろう?誰かに言ったりしないから、そこで少し休んでいて」
男が近くの自動販売機へ歩いていく。一分もしないうちに男はペットボトル入りの水を手に戻ってきた。そしてキャップを外すと、綴が吐き出したものに水をかける。そんなことをしていいものなのかと、土の上へと押し流されたそれと男を交互に見やる。
「大丈夫だよ。花の肥やしになるだけだから」
綴の思考を読み取ったのか、男がそう言って微笑した。
「残りの水はあげるよ。口を濯いだほうがいいだろう?」
「え?あの、すみません。ありがとうございます…」
「どういたしまして」
促されるままベンチに座り、ペットボトル入りの水を受け取る。
こんな優しい人がいるんだな。
通りすがりの他人に労わられるのは初めての経験だった。ただただ驚くしかない。然り気無い気遣いが、心に沁みる。また涙が溢れそうだ。それを誤魔化そうと、水を口に含んで飲み込む。やっと、息がつける。
「隣、失礼するよ」
男が隣に腰かける。ふわり、と風が吹く。蜂蜜に似た匂いが鼻腔を擽った。蜜蜂がいたからだろうか。
男は洒脱な容姿をしていた。長い黒髪。白いシャツに黒いパンツ。アンティークの鍵をモチーフにしたであろうアクセサリー。耳には銀色のイヤーカフが光る。
いや、それよりもちゃんとお礼を言わないと。
綴は向き直って頭を下げた。
「あの、本当にありがとうございます。水も頂いてしまって…」
「いいんだよ。気に病むことはないさ。─それにしても」
男はそこで一度言葉を切ると、綴の目を見詰めた。
「君は随分辛そうな表情をしているね。まるで糸が切れた人形みたいだ。生きる気力を失って、途方に暮れている」
男の言葉が体の内側へ流れ込んでくる。不思議な話し方だな、そう思ったのも束の間だった。
「君はさ、もし綺麗に、楽に死ねる方法があるって言ったら信じるかい」
瞬間、身体に稲妻が走ったように強ばる。
時が止まったように感じた。
小鳥が囀る。風が吹く。再び、蜂蜜の匂いがした。
「なんで…そんなこと」
唇が上手く動かない。辛うじて声を絞り出す。掠れた声だ。
「目を見ればわかるよ」
そう言う男の瞳は、声をかけてきた時と同じく、優しく綴を見据えている。
「ここじゃあ話辛いだろう。どうかな、この後時間があるなら俺の店に来ないかい。ゆっくり話を聴くよ」
「店?」
すっと差し出されたショップカード。古書のような色合いの厚紙に、『Florist November』と書かれている。
「フローリスト…」
「そう。花屋なんだ」
ついておいで。そう言って、男はひらりと身を翻して歩き出す。
なぜ、ただの花屋の店員がこの大学にいたのか。なぜ、わざわざ声をかけてくれたのか。確かに疑問はたくさんあったし、出会う人間を全て疑わないほど、僕はお人好しではない。適当な用事を告げてこの男から離れることもできただろう。
しかし、僕は自分の意思でついて行った。この人なら、話を聞いてくれるかもしれない。直感的に、そう思った。この男には、それを決断させるに十二分な、不可思議な、人を惹きつける引力があった。
自殺願望を見抜かれたという理由だけではない。まるで奇妙な格好をした白ウサギを追いかければ、そこに自分の知らない世界があるように─僕の目には不思議の国への水先案内人として彼は映っていた。
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