雨の日の記憶

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雨の日の記憶

 昨日の嫌な気持ちを引き摺りながら、惣太は誰もいない『お八つ堂』の作業場に入った。昨夜の雨の湿気を含んだ土間は冷たく、吐く息が真っ白だ。手を擦り合わせてもちっとも温かくならない。しかし…… 「よーし」  惣太は気合を入れて頬を両側から叩くと、顔を上げて新作の試作に取り掛かった。  今日は定休日なので従業員は誰も来ない。惣太はタオルを頭に巻いて、一人黙々と餡の下準備を始めた。 ーーこのままでは、あかん。この店を俺が潰すわけには、あかんのや。  今は洋菓子仕立ての大福や、餡とチョコレートの融合など、老舗の和菓子屋も新進気鋭の店も、当たり前にやっている。うちでもやろうといくら祖父に言っても「あかん」の一言で退けられた。  自分が学んできたことを否定され、惣太は下唇をきつく噛んだ。  しかし、自分が『大将』になった今、やりたいことに挑戦できる。誰からも理解されなくても、惣太は新しい和菓子を作ろうと心に決めていた。  ムワッと立ち上る甘い湯気。餡を混ぜる木ベラのリズミカルな音の向こうに、一度止んだ雨がまたしとしと降る気配がした。それを聞きながら、惣太は生クリームを泡立てる。  滑らかに漉した餡に砕いた胡桃を混ぜ、それを生クリームと混ぜ合わせる。その比率を変えながら、食感や味のバランスを試してみる。  雨の日はフランスのパッサージュ(アーケード街)を歩いたことを思い出す。  惣太が()の地へ留学したのは、パティシエを目指してのことだった。旅立つ日に「蛙の子は蛙やね」と、母は目に涙を溜めて笑っていた。  しかしパリに来て4度目の冬、『お八つ堂』を継ぐはずだった父の訃報で、突然呼び戻された。
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