ひさ子の家出

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 きっかけは一年ぶりにあった親友同士の飲み会で、ひさ子がこぼした〈家出したい〉という一言だった。 それを聞いたサヨリと亜紀は驚かなかった。それどころか顔を見合わせ当然と言わんばかりにうなずきあった。 「とうとう来たかって感じ!」 「若い頃かかった恋の魔法も、結婚から二十五年も経てば解けるのは当然」 と口々に言われ、(そんなに私たち(もろ)い夫婦に見えていたのかしら)とそれはそれで釈然としない。  サヨリは親の経営する電気工事の会社で経理をしている。彼氏あり、同棲中。四十五にもなってどうして結婚しないのか、ナイーブな話題すぎて聞けていない。 もう一人の親友、亜紀はもの静かで頭の回転が速い分、自信家で(自分では謙虚なつもり)断定口調が嫌みたらしく聞こえがちなバリバリのキャリアウーマン。〈オトコなんて〉が口癖で独身お独り様街道をまっしぐらにひた走っているようにひさ子には見える。 二十代前半、二人が社会に出て働き始めた頃、ひさ子は生まれたばかりの圭吾を抱っこしておむつにミルクにと大忙しだった。それからずっと専業主婦でとおしてきた。これまでの結婚生活を否定するつもりはない。けれど、働いて自分の収入のある二人を、身をもむように羨ましくて仕方ない瞬間が時折訪れてひさ子を憂鬱な気分にさせた。 (ちゃんとした家庭を持って、ちゃんと子育てしているのは私だけ)なんて考えるのに、何故だか自分を誤魔化している気がする。だから、二人に会う時間は楽しいけれどほんの少し苦しい。 二人と比べて自分のことを持ち上げたり下げてみたり……なんていやらしいんだろう。女ってみんなこんななのかしら。そんな苦い気持ちをひさ子は酒で飲み下す。二人がお酒で気持ちよくほぐれていくほど、暗く沈む気持ちをためておけなかった。だからつい、〈家出したい〉なんて、吐き出してしまったのだった。 ちゃんと。ちゃんと……。 (ずーっと、そうやって頑張ってきたんだ、私) 夫の圭一は仕事仕事で、子育てに協力してくれた覚えはない。教師のくせして、と思う。息子は今年大学卒業だけど、内定を取り消されて最近は部屋に引きこもってネットゲームばかりしている。 全然、ちゃんとできてない。 (私、どこで間違えちゃったんだろう……)と強く思う。最近、よく、思う。  夫と付き合いだしたのはまだ彼女が高校生の時だった。圭一はひさ子より十五歳上の新任教師。私立の中高一貫のしかも女子校(今は男女共学になった)で純粋培養されていたひさ子。冗談じゃなく、圭一がひさ子の机のそばを通り過ぎるだけで息が止まるくらい緊張した。今思えば、その緊張を恋心と勘違いした感は否めない。しかも、先生との禁断の恋、というシュチュエーションにどハマりしてしまって……放課後呼び出された理科実験室で圭一に告白されたひさ子はイチコロだった。私立校は教師の移動がない。創立百年を超える母校にはすっかりベテランの煤けた先生ばかり。若いというだけで圭一がキラキラと眩しくて仕方なかった。 あの頃は。 「うちの会社でも、お主できるな、っていう子に限ってハゲ散らかしたおじさんに捕まってすぐ結婚退社する」 と亜紀。 「他の男と見比べる暇を与えないわけよ。いわば、Aクイック」  高校時代バレー部だったサヨリが手だけ動かしてスパイクを打つ仕草をした。 「でもさ、担任と結婚って疲れるだろうなって、私たち心配してたわけよ」 「そう、高校の時は先生と生徒で上下関係。結婚してからは夫と妻で上下関係」 「その点ウチは稼ぎ頭は私だから気を遣わないもの」 とサヨリが胸を張る。 「会社勤めしてるとほんと思う。男はみんなチンパンジー」 と言ったのは亜紀だ。 「やだ、何それ!」 と手をたたいたひさ子を、サヨリが指だけでちょいちょいと手招きする。亜紀にもちょいちょいとやるから、おばさん三人で顔を寄せて悪巧みの図になってしまった。 「家出ね。せっかくだから一週間くらいまったりと三人で旅行しよ?」 「行く。年休消化しろって会社がうるさいから、ちょうどいい」  家出といっても、ほんの一晩適当に外泊するつもりでいたひさ子は慌てた。一週間も家をあけたことなんてない。しかし二人から〈思い知らせてやりなさいよ〉〈ひさ子の価値を旦那は気づくべきだ〉とけしかけられると、ウチの男どもに自分がいないと困ると思わせるのは今しかない気がしてきた。自分の中のモヤモヤを吐き出しただけの〈家出計画〉がどんどん具体的になって。  二月に入ったばかりの月曜の朝、夫が出勤し息子が大学へ出かけた後、 〈しばらく帰りません〉 と書いたメモをテーブルに置いた。どのくらい家をあけるか誰とどこへ行くのか書こうか迷ったけれど(それじゃ家出にならない)と思い直した一文だった。 膨らんだボストンバッグを抱えてひさ子は家を出た。  よくこんな場所見つけたわね、とサヨリが呆れた声を出したくらい、山深い集落にポツンと存在する一軒宿。  寂れた駅にくたびれたバンで迎えに来たのはまだ二十歳そこそこに見える青年だった。かなり前に流行った前髪と襟足の長い髪型が野暮ったい。さっぱりと短くしてしまいたい。息子なら有無を言わせず床屋に行かせるのに……と助手席に乗ったひさこはついしげしげと青年を観察してしまった。 「やだな、そんなに見つめられたら俺、顔に穴が空いちゃうよ」 と、青年が鼻の頭をかきながら言った。  敬語を使わないのはこの青年の個性なのか、旅館の教育がなっていないからなのか。  調子のいい口調に、後部座席の二人がけらけらと笑い声をあげた。青年は最近この旅館に来て雑用やら湯守の手伝いやらをさせられていると言い、 「高村です、よろしく!」 と、名乗った。  温泉に浸かって部屋に戻るなり、 「ね、さっき迎えにきた高村って人、イケメンだったよね」 と言ったのはサヨリだった。喋りたくてうずうずしていたのか一枚板らしい座卓に身を乗り出すのに、ひさ子はため息をついてみせた。 「サヨリ、今の彼で落ち着いたんでしょ」 「歳を考えれば、向こうが相手しない」 と言ったのはサヨリの若い頃からの惚れっぽさを苦々しく思っている亜紀だった。言い方がきつい。  不満げに唇を尖らせたサヨリはそんなことわかってるわよ、とぶっきらぼうに言うと、 「マジ田舎! テレビのチャンネルつまみ式! 懐かしー」 と話題を変えた。  三人でいると若い頃の気持ちについ戻りがちになる。三人してなんとなくソワソワ浮き足立っているからイケメン発言ぐらい聞き逃せば良かったと、ひさ子はついサヨリに突っ込んでしまった自分を恥じた。横目で見ると小柄なサヨリには大きすぎる浴衣の上、海老茶の半天の袖をはためかせのぼせた頬を冷ましている。 「やっぱり心付け渡しておけばよかった?」 とひさ子が言うと、亜紀が神妙な顔つきでむむと唸った。 「宿泊代金はしっかり支払ったんだから、サービスする責任はこの旅館にある。私文句言ってくる」 と腰をあげた。この宿を見つけて予約したのは亜紀だから責任を感じているのだろう。それに対してサヨリが、 「ええ、もう着ちゃったし……」 と両腕を広げて自分を見下ろした。 「……明日、朝になったら部屋に案内してくれたおばあさんに言うよ。なんかここ、年寄ばっかで気が引けるんだよね」  そういえば、廊下ですれ違ったのは年寄りばかりだったとひさ子は思い出す。自分たちより若いのはあの高村という青年だけだった……。 「お風呂出たら疲れちゃったもん。寝よ、寝よ」 とサヨリが布団に横座りして鷹揚に言う。 「まあ、サヨリがそう言うなら」 と亜紀は少し不満げだった。 サヨリの実家は結構流行っている電気工事会社で、なんだかんだ彼女はお嬢様なのだった。ゆったり育てられているから自分にも男にも都合よく甘い。そういうところが亜紀の気に触るところなのだが、サヨリは気づかない。側で見てひさ子は、生まれ育ちはどうしようもないこととあえて指摘する気になれない。  ただ、(また、やり合ってる)と思うだけだ。 はあ、とため息をついて亜紀が座卓の上の見るからに手作りの不格好な温泉まんじゅうを口に放り込みもぐもぐし始める……。  そんな数時間前に、戻れるものなら、戻りたい。  村人の放つ異様な熱気が、篝火が、太鼓の音が立ち昇り、上空の満月を揺らめかせている。  人の輪が村で唯一の見どころの滝つぼを半円に取り囲んでいた。彼らの視線の中心にはサヨリと亜紀の二人が後ろ手に縛られ背中合わせに座らされていた。 「ほどいてよーッ。縄、食い込んで痛いんだけどッ」  サヨリの叫びに対して誰も答えようとしない。村人たちの熱っぽい視線は二人を通り越して、落ちる水が作るカーテンへ向けられていた。  背中越しにアンタも怒りなッ、と言われた亜紀は怯え切っているのか、ぴくりともしない。声も出ない様子だ。  周りに生茂る木々が不吉な陰影でこの場を縁取っている。 「わ、私には(たもつ)とトラがいるの。家族がいるの。助けてッ。亜紀は独身だから心おきなく生贄になりなさいよ」  保はサヨリの同棲相手、トラは彼女が最近飼い始めた雄の子猫の名前だ。  独身の亜紀を盾にしようとするサヨリの命乞いに、流石にカチンとスイッチが入ったのだろう。 「……はっ? サヨリ、彼氏がいてもよく、もうワンランク上の男を捕まえるんだって豪語してたよね。男を取っ替え引っ替えした挙句落ち着いたのが冴えない派遣野郎とか、マジウケる」 と、亜紀が言い返した。 「保クンを馬鹿にしないでッ。亜紀は頭がいいのを鼻にかけてバリキャリ気取って。会社で浮いてんじゃないの? 何十年ぶりにあった幼なじみの男に金騙したられたって? はッ!」  隠れてそれを聴いているひさ子は(何も、今そんなこと言わなくても……)とドキドキしてしまう。家出したいなんて、言うんじゃなかった。 「休みの日は猫と遊びながら昼間から二人でビール? 終わってる」 「ムキーっ! 亜紀なんか人間不信のままババアになっちゃうんだ!」 「黙ってよ!」 「そっちこそ、うるさい!」  もはやどちらが何をどう言ったかなんてさっぱりわからない。いつ終るかわからない醜い罵り合いに、一番年かさに見える、杖をついた老女がため息を吐いた。 「……おなごは救いがたい。この世の見納めというのに若い者同士罵りあっとる」 「ああやって暴れるから、ほれ、浴衣から乳がこぼれ落ちそうじゃ」 と言ったのは二人を縛り上げた爺さんだった。歳の割につやつやした禿頭が松明の明かりでオレンジ色にてかっていた。  黙れ、ひひ爺いと唾を吐いたサヨリから、猿みたいにぴょんと飛び退いた爺さんが笑い声を上げるのが聞こえた。 「……思えば我らの祖が、壇ノ浦から命辛々この地に逃げ延びてから五百有余年。三種の神器のうちの一つ草薙剣(くさなぎのつるぎ)を奪って幼い帝と二位の尼を海へ突き落としたのが呪いの始まりよ」 「国家の神剣を売り払ったのでバチが当たっただ」 「蛇神様によって我らこの地に囚われ村を出ること叶わず」 「近しい者同士で子をなしてきたため子種も尽きた」 「我らより下の世代はこの村にはおらん」 「年に一度、蛇神様への(にえ)はおいさらばえた爺婆(じじばば)ばかり」 「蛇神様はお怒りじゃ」  口々にしゃがれ声を上げる村人たちを、老女が、とん、と杖を鳴らして黙らせた。 「だが、今年は違う!」  全員の目がサヨリと亜紀に注がれてその時だけ静かになった。 「……蛇神様が目を覚ますこの時期この刻に、若いおなごが来よった」 「蛇神様は言った!」 「生きの良いおなごを三人(くら)えば我らを放してくださると!」 「この村を出て里に降りたい!」 「まずは整骨院じゃ!」 誰かの叫びに皆どこがいたいどこが悪いと病自慢をはじめだした。 「もう、草や木の根をすり潰した、気休めの塗り薬はごめんじゃ!」 ——(おう)、としなびた腕たちが篝火を振り上げる。 「コンビニへ行ぎてえ!」 ——応。応。 「猪も熊も食べ飽きたわい!」  闇が振動する。  ひさ子は木々の枝を避けて走りながら、呼吸の震えを止めることができない。 足を止めて身を潜めたのは運動不足のひさ子が足を縺れさせたのを高村が心配したからだった。ちょうど滝を見下ろす位置に突き出た岩の上だった。 下の様子を窺いながら高村が、 「うわー。爺婆どもの煩悩が爆発してるわ」 と口元を手で隠して言った。  親友二人が縛り上げられ、村人たちが取り囲む異様な光景。怖い。村人が怖い。でも、自分と一緒にいるこの男も怖いとひさ子は思った。とっさに隠したけれど、高村は笑っていた。 「は、早く助けを呼ばないと」  ひさ子が自分自身を抱きしめながらそう言った刻。 ——ピロピロリン。ピロピロ……。  心臓が止まる。  ひさ子は半天のポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。体がガクガクと震えておぼつかない指で通話ボタンを押すなり、 『ひさ子、どこだ、早く帰ってこい! 勝手に家を出て……おかげでメシは外食だ。 風呂に入ったけど着替えは? バスタオルはどこにある?』 と夫のよく通る声が響いてきてひさ子は飛び上がってしまった。心なし動揺している声に申し訳ない気分になってしまった。  いや。それどころじゃないのだ、こっちは。 手汗が尋常じゃない。手が震えてスマホを掴んでいられない。取り落とす、掴む、を繰り返しまるでお手玉してるみたいになってしまった。高村がパシッとスマホを取り上げて耳に当ててしまった。 「うっさい。黙れ。取り込み中だ。当分かけて来んな」 と発した言葉の鋭いこと! 電波の向こうで夫が息を呑む雰囲気にひさ子は首をすくめた。 『……っ! 男? お前誰だ。ひさ子を出せ。ひさ子、ひさ』  通話の途中で高村が無情に通話を切った。スマホを返してきた彼をとがめずにはいられなかった。 「ああっ、なんで切っちゃうの! 助けを呼んでもらいたかったのに!」  勇気をふりしぼり押し殺した早口で言うと、ちょっとの間ひさ子を見つめた高村が、あぁ、と、とぼけた声を出した。 「……やべ。アンタの旦那、ムカついたから思わず切っちゃった」 「〜〜っ! 信じられない。私、亜紀とサヨリを助けに戻るっ!」 「ちょ、待って」  引き返そうと踵を返したら高村に腕を掴まれ、ひさ子は気づいた。顔が、身体が近い。夫や息子以外の肌の匂いが不意にはっきりと感じられ、高村の〈男〉を意識せずにはいられない。同時に四十過ぎの自分の中に眠っていた〈女〉を見出してひさ子は慌てた。掴んでくる彼の手を振り解こうとして、握っていたスマホがすっこ抜けた。 放物線を描いてピンク色のスマホが滝つぼへ落ちていった。ボチャンと水しぶきが上がり、村人たちがこちらを仰ぎ見た。 「上だ。上にいるぞ」 「男は殺すなよ。神社庁から来た奴だ。あんな(わっぱ)でも役所の人間じゃ。何かあると煩くていかんでのう」 「こんな田舎の打ち捨てられた(やしろ)を確認しに来たとか言っていた小童(こわっぱ)か」 「おなごを捕まえろ」 (怖い、こわい)両手で身を塞いで走る。 「行くな。一緒に逃げよう」 後ろから高村の声が追いかけてきたがひさ子は振り返らなかった。  慣れない山の中、月明かりだけが頼りの夜道。建物があると思ったら朽ちかけた山小屋 だった。足を踏み入れ見上げると所々屋根が抜けて星が見えた。視線を戻すと壁にもたれては座る人影に気がついた。「助けて……」フラフラ近づくと突然、その人が崩れた。床を見ると白茶けた骨が散らばっていた。死んでいたのだ……とうの昔に……。  壁には十本ほど古びた太刀が立てかけられていた。全部同じデザイン。 「何、これ……」  ぐるりと周りを見て……散らばっているのは初めて目にする道具ばかりだった。金槌に大きなペンチみたいな道具、蛇腹が荒れた……ふいごっていうんだっけ? 「……刀鍛冶?」 白骨が座っていた木の蓋が開いている……。 中には立てかけてあるのと同じ太刀が入っていた。ひと目でこれがホンモノ。他は偽物だと直感した。まとっている雰囲気が重い。意匠は同じなのにオーラが違う。 持ち出したのは自分が使えると考えたわけじゃない。頼れる何かが欲しかった。  その頃、人気(ひとけ)がなくなった滝つぼ前に高村が走り込んできた。 「……助けにきた」  縄目がキツくてなかなか解けない。舌打ちした高村に、 「ひさ子は?」 「警察呼んでくれた?」 とサヨリと亜紀が問う。 「どっちも来ない」  ええっ、と二人が失望の声を上げた。 「スマホは? あるでしょ、スマホ。私たち捕まったときに取り上げられて」 「ついさっき滝つぼに水没したの、見てなかったのか?」 「あたし達、縛られてて」 「滝の方なんか見てなかったわよ!」 「凄いな。さっきまで喧嘩してたのに息ピッタリ……」 とナイフを取り出して顔をあげた高村の動きが止まった。 「……な、何?」  水音が止んだ。亜紀が異変に気付いて首をひねる。つられてサヨリも滝へ顔を向けて。 「ギャー! デカいチ◯コが襲ってきたあ!」 滝のカーテンを押し上げて出てきたモノを直視したくないのにバッチリ見てしまった挙句の絶叫だ。 「下品すぎる! 馬鹿サヨリ! あれは蛇!」 「確認も訂正もしてる場合じゃねえ! 逃げるぞ!」  高村が縄にナイフを潜り込ませる。切れた。 「ああっ! 痛いってば! 血が出たー!」 「まだ死んでないんだから騒がないでっ」 「死んだら騒げないから今やってるの!」  大蛇の、蛇神の体が全て現れた。三人が逃げ惑う先に蛇の巨体が壁を作る。大きいくせして動きがとてつもなく速い。 「あたし、サヨリのそういうところ嫌いじゃない。いくらピンチになっても元気を失わないところ……」  亜紀がしゃくり上げながらサヨリを抱き寄せる。 「私も、頭イイくせに簡単に男の嘘を信じちゃう亜紀の純情なとこ大好きッ」  抱き合って号泣しはじめた二人を目の端に映しながら高村が手の中のナイフと大蛇の赤い瞳を見比べた。 「……クソ。どうしろっつーの、コレ」  まさに絶体絶命の三人を救ったのは、ひさ子だった。追手の声を足音に怯え迷っているうちにもといた滝つぼ上の岩場に戻ってきていたのだ。  突き出た岩場の先端、持ち慣れない得物にひさ子はバランスを崩した。あ、となったがもう遅い。太刀の重さに引っ張られて落下する。それはまさに大蛇の頭の上で。太刀が太くうねる体をいとも簡単に真っ二つにした。  突然のことに、誰一人声を上げられない。 起き上がったひさ子は蛇の上に落ちて怪我ひとつなかった。 「や!? 気色悪い!」 血濡れた太刀を高村に押し付けた。 その高村を喜色満面の村人達が伏し拝む。 「アラガミ様じゃ、アラガミ様が降臨なされた!」  ありがたいその宝剣を村人に「これ、アラガミ様ね」と渡した高村が、駅まで車で送ってくれた。  その時、後部座席のサヨリが足元に置かれた長細いそれに気がついた。 「あ! これ、アラガミ様じゃん!」 「違う、ちがう。それは草薙剣。神社庁からあるべきところに返すから」 「え? 村の人たち毎日拝むって言ってたよ! バレるって」 「神様、神経痛治して下せえ、お願いしますって、みんなそりゃ真剣に」 「わかりゃしねーよ。ひさ子さんが見つけたパチモン渡した」 「それ、嘘ってこと、村に神剣は……アラガミ様はないってことじゃない」  うるせーな、と高村がハンドルを切る。 「そこにあるって信じていられるうちは、確かにそこに在るモンなんだよ」  それから、新幹線に乗って。  家の最寄り駅に着くと、無精髭はやした夫と息子、サヨリの彼が涙目で改札の向こう側に立っていた。 「俺、くさらないで、もう少し就活粘ってみるよ」 と圭吾。夫の方は、 「ひさ子……」 と言葉を詰まらせる。(帰ってきたんだ……)と思った。  ひさ子は初めて、家族三人で抱き合って泣いた。  驚いたことにその場でサヨリはプロポーズされていた。  いいな、と亜紀がつぶやく。 「私も、結婚相手探そうかな」  遅い? と聞いてくるから、サヨリとひさ子ふたりは、「遅くなんかないよ」と亜紀の背中をはたいたのだった。 <了>
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