0人が本棚に入れています
本棚に追加
ひこうき雲 その7
「…え?どういうこと?」
「一か月前ぐらいから、アメリカの営業所勤務を打診されてて。今日、返事したんだ。行きますって」
一か月前ぐらい…その言葉に引っ掛かりを感じる。
それは、初めて、彼、宮本 一生君と話した日と重なったから。
「そう…なの…」
…なんだろう。
少し前まで、居心地の良さを感じながら穏やかに繰り返していた呼吸が、今は、動悸と共に息が上手くできずに苦しい。
「うん…まぁ、今すぐではなくて、準備もあるから恐らく年明け…2月頃かな。本格的に向こうに行くのは」
空を見上げたまま、何事でもないように言う彼。
そんな彼が、とても嫌だ。
「それって、出世だよね。おめでとう。流石、営業部のエースだね」
こんな風に…心の上面を掠めるような、出来合いの言葉を向けている自分も嫌いだ。
「サンキュ」
宮本君は、軽く私の顔を見て、すぐに空へと顔を戻した。
私は、その横顔から目を逸らしたいのに、彼と同じように空へと顔を戻したいのに、それが上手くできない。
…そうか。
…そうなんだ。
彼とは、もう、こんな風に一緒に空を見上げることも出来なくなるんだ。
苦みのある何かが、胸元まで込み上げる。
あの日。
あの時。
…どうして、私は3分以内に彼に言葉を返さなかったのだろう。
あの時、私が彼の申し出を受け取っていたら、こんな風に表向きな言葉で会話を交わすことにはならなかっただろう。
だって、『一(いち)知人』と『彼女』とでは、彼の中に踏み込める範囲が違うのだから。
今更、どんなに思いを巡らせても。
…あの日に戻ることは、絶対にない。
「…飛行機、一人じゃなかったら、大丈夫なんじゃない?」
「え?」
唐突に彼から掛けられた言葉の意味が分からない。
「さっき、どこか遠くへ行くのは憧れがあるのに、実際に飛行機に乗ることが怖くて できないって言ってたから」
「…そうだけれど、別に誰かと一緒に行くなんてことはないし」
「その誰か、俺にしとけばいいじゃない」
「何を言って…宮本君は、これからアメリカに転勤で」
「だから。俺と一緒にアメリカ、行こうって言ってるの」
空に向いていた彼の顔が、真っすぐに私に向けられる。
「俺、全然、諦めてないから。
一か月前は鈴木にとっては思いもよらない申し出だったと思うから、返事をもらえなくても仕方がないって思ってた。
でも、俺は、一言も、付き合いの申し出を取り下げるなんて言ってないから」
「それは…」
「それから、上司と相談して、鈴木が希望すればアメリカ支社の方に転勤できるようになってる」
「えぇ??」
どういうこと?
私は、何も返事もしていなかったし、第一、仕事のことだって…
「勿論、この話は内密のことだから、鈴木が嫌なら今までと何も変わらない」
「ちょ、ちょっと待って。一体、何がどうなって…どうして?」
「あの日、鈴木は『NO』だとは言わなかったから。
鈴木の性格なら、少しの可能性もなかったら、確実にハッキリと断りも入れた筈。
それに、こんな風に自分の大切にしている空間に、どうでもいいと思うような人間を近づかせないはずだから。
伊達に、ずっと鈴木のことを見てきたわけじゃないよ」
ぐうの音も出ない…って、きっと、こんな感じなんだ。
私という人間をしっかりと正確に把握して、なんの違和感を抱かせることもなく適度な距離感で関り、二人の間にあった見えない壁をいつのまにか崩して。
そして、好機と見切った時には、タイミングを見誤らない。
彼は、その容姿で営業成績が良かったわけでもなく、若くしてアメリカ支社へ異動になったのも道理な能力の持ち主だった。
「だから、そろそろ、素直になろうか?鈴木 晶麗さん」
にこやかな笑みを見せる宮本君。
…確かに、これ以上、無駄な足掻きをしても仕方がない。
この一か月の間に、私の中で確実に変わったものがあるのだから。
なにより、今、ハッキリと気付いた気持ちもあるのだから。
「…飛行機でも、アメリカでも…絶対に、いつも傍にいてね」
「Of course!もちろん!」
また、一機、青空を飛んでいく。
数か月後には。
彼、宮本 一生君と一緒に、私もあの青空の中にいる筈だ。
【ひこうき雲】 END
最初のコメントを投稿しよう!